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2023年9月3日 待っていてくださる主

2023年9月3日 待っていてくださる主
イザヤ書 30章18節 佐藤賢二 牧師

今日は第3礼拝で、OMインターナショナル・ディレクターの、ローレンス・トン先生が特別メッセージを取り次いでくださいます。その関係で、今日は私も「テモテの生涯から学ぶ」というシリーズからではなく、「待っていてくださる主」と題して、メッセージを取り次がせていただこうと思います。

★「待つ」ということ

今日のテーマは、「待つ」ということです。皆さん、「待つ」ことは好きでしょうか。あんまり、「私は待つことが大好きです」という人はいないですよね。私たちは大抵、出来るなら何とかして待ち時間を減らしたいと思って暮らしているのではないでしょうか。その結果、今の時代は、そんな私たちの欲求を満たすべく、どんどん「待つ」ことをせずに何でも出来てしまう世の中になっています。スマホとか、SNSとか、コンビニとか、Amazonとか様々なテクノロジーの恩恵を受けて、欲しい情報でも、欲しいものでも、なんでも望めばすぐに手に入るようになりました。もう私たちは、それらがない世の中など、想像出来ないような世界に生きているのです。

私が若い頃には、まだ携帯もなかったので、友達と待ち合わせをした時など、その友達がちょっとでも遅れると、来るのか来ないのか分からない、時間や場所が間違っていたんじゃなかったとハラハラしながら待ったりしたものです。まあ実際には、ほとんどの場合、私の方が相手を待たせる側だったような気もします。また、手紙を書いてその返事を何日も待つなんてことも、まだ普通にありました。でも、今はLINEでメッセージが「秒で」返ってくる時代ですよね。逆に、自分が送ったメッセージにいつまでも既読がつかないとイライラしてしまったり、既読がついているのになかなか返事が来なかったりすると、「既読無視した」なんて言って、関係が悪くなったりもします。とにかく、便利な世の中になったとは思いますが、その分、私たちの方が「待つ」ということが出来なくなった、忍耐力がなくなってしまったと言うことが出来るのではないでしょうか。

でも、そういう世の中だからこそ、私たちは気をつけなければならないなと思うのです。ともすると、私たちは、神様にまで、同じような態度で接してしまっていることはないでしょうか。祈ったのに、答えがなかなか与えられないと、すぐにあきらめてしまう。神様はなぜ自分の祈りを聞いてくださらないのかと、不満を言う。そして、神様からの語りかけを受けずに、焦って自分の力や知恵で何とかしようとしてしまう。そんなことは、ないでしょうか。

神様は、完璧な計画をお持ちです。そして、神様がなさることは、時に叶って美しいとあります。ですから、神様の時を待つということ、そして神様ご自身を待ち望むということは、私たちにとって、とても大切なことなのです。私たちは、「待つ」ことを無駄だと考えがちです。でも、「待つ」ことはとても意味のあることです。なぜなら、それは相手を信頼するということでもあるからです。今日、共にみことばから、「待つ」ということについて、そして「待ち望む」ということについて、考えていきたいと思います。聖書をお読みいたします。イザヤ30:18です。

それゆえ主は、
あなたがたに恵みを与えようとして待ち、
それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。
主が義の神であるからだ。
幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。
イザヤ書 30章18節

ここに、素晴らしい約束が書かれています。「それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待っておられる」。つまり主は、「私たちを待っていてくださるお方だ」ということなのです。

私たちを待っていてくださる主

主は、私たちを待っていてくださる。これは、本当に私たちにとって、希望であり、慰めだなと感じるのです。

私には3人の娘がいますが、今まで何度、子供達に「早くしなさい!」と叫んだか、わかりません。みなさん、経験あるでしょうか。子供達というのは不思議なもので、今出発するというタイミングになってから、色々と動き出すんです。そして、あれがない、これがないと言い出したり、待ってトイレに行くと言ってみたりするものです。
そんな子供達のことを、なかなか私は待つことが出来ないんですね。こっちはこっちのタイミングで動きたいと思っている。だから、相手にもそのタイミングで動くように要求してしまう訳です。

でも、神様は違うんです。神様は、私たちを待っていてくださるお方です。もちろん、神様にも今このように動きたい、このタイミングでこうしたいというものはあると思うのです。でも、私たちが、どんなに遅くても、どんなにモタモタとしていても、またはどんなに見当違いのことをしていたとしても、私たちのことを待っていてくださると言うのです。
神様は、私たちのペースに合わせて、私たちが準備が出来るのを、忍耐強く待っていてくださるお方です。しかも、何のために待っているのか。それは、私たちに恵みを与えようとして待っていてくださるというのです。なんと素晴らしいことでしょうか。

私たちの教会では、障害者のための地域活動センター「まってる」という働きが行われています。これは設立当初はNPOとして、そして今では社会福祉法人真愛の一部門として行われているものですが、ホームページを見るとこのような文章が書かれています。

私たちは、できる限り“無駄”を省き、“早くすること”が要求され、評価される時代に生きています。しかし、そのような暮らしの中で失われてしまった、何か大切なものがあるのではないでしょうか? 私たちは“待つ”ことを通して、失われてしまったものを回復したい、そんな願いを込めて、“まってる”と名づけました。私たちの願いは、障がいのある人もない人も、ともに生きていける社会の実現です。まってるに集う人たちが、ともに仕事をし、分かち合うことを通して、人生に喜びと自信を持ち、地域で安心して過ごせるように、支援していきたいと思います。

本当にその通りだと思います。
そして、これこそ、教会のあるべき姿なのではないでしょうか。なぜなら、神様が私たちのことを待っていてくださるお方だからです。私たちも、教会の中で、障がいのある人もない人も、年配の方も若い人も、お互いに相手を思いやり、「待つ」ということを通して、失ってしまったものを回復できるように取り組んでいきたい。心からそのように思います。

地域サロンについて

今、牧会ファミリー部から、私たちの教会の取り組みとして、ひとつの提案がなされています。それは、「地域サロン」と呼ばれる働きです。これは、各地域ごとに行われる、多世代による神の家族の交わりです。

今年、私たちの主任牧師である恵賜先生が、10×10の実現を前にしてどうしても受け皿の整えが必要だとの覚悟を持って、牧会ファミリーの強化に取り組んでくださっています。そんな中で、どうしても、多世代が家族のようにして触れ合うことが出来る場が必要だとの思いから提案されたものです。また、このことを通して、私たちが自分の住んでいる地域の魂のために重荷を持ち、また災害時の助け合いにもつながっていくようにとの期待も込められています。

とりあえず、試行錯誤をしながら、年に数回、とにかく集まってみるところからスタートしていこうということになっています。人間的に考えると、何か今までにない新しい枠組みのことを生み出すというのは、とても大変だと思われる方もいると思います。でも、神様はこのことをきっかけにして、教会がより本来の教会の姿として機能するように、整えを与えてくださると信じるのです。
「地域サロン」に関しては、また来週のメッセージの中でも触れたいと思いますが、皆さん、ぜひ期待して取り組んでいただきたいと思います。

イスラエルの民に対するみこころ

さて、主は私たちのために、恵みを与えようと待っていてくださるお方です。ここで一つ注目したいのが、先ほどのイザヤ30:18節の出だしの言葉です。そこには、それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、とあります。ここに「それゆえ主は」とありますが、「なにゆえ」に主は、私たちを待っておられるのでしょうか。私たちの側に、主がそこまでして待っていてくださる理由があるのでしょうか。

この箇所の背景を少し見てみたいと思います。当時は、アッシリア帝国が猛威を振るっていた時代でした。そのアッシリアが、北イスラエル王国を陥落させ、今まさに南ユダ王国にまで攻め入ってきたという中でイザヤに主の言葉が与えられた。それがイザヤ30章です。イザヤ30:1-3を見ると、このように書かれています。

「わざわいだ、頑なな子ら。──主のことば──彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示を仰がない。ファラオの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。しかし、ファラオの保護に頼ることはあなたがたの恥となり、エジプトの陰に身を隠すことは恥辱となる。
イザヤ書 30章1~3節

この「頑なな子ら」というのは、イスラエルの事です。イスラエルの民は、自分たちの計画を立てているが、「神によらず」、「神の霊によらず」、「神の指示を仰がない」と指摘されています。つまり、イスラエルの人たちは、アッシリアによる侵略という窮地に陥った時、主を求めるのではなく、主の計画に信頼するのでもなく、ただ人間的な知恵によって方策を練り、エジプトという目に見える力により頼もうとしたという事なのです。そして、エジプトと同盟を結び、エジプトの陰に隠れようとしたのです。彼らは、神様からの指示を仰がず、自分勝手なはかりごと、自分勝手な計画によって、神様から離れていってしまったのです。その結果は、恥と恥辱です。それは明らかに、神様の思いとは遠くかけ離れたものでした。そんな彼らにイザヤはこのように語りました。イザヤ30:15です。

イスラエルの聖なる方、神である主は
こう言われた。
「立ち返って落ち着いていれば、
あなたがたは救われ、
静かにして信頼すれば、
あなたがたは力を得る。」
しかし、あなたがたはこれを望まなかった。
イザヤ書 30章15節

ここで、4つのキーワードが出てきます。「立ち返る」「落ち着く」「静かにする」「信頼する」というものです。

第1に「立ち返る」というのは、英語で言えばrepent、悔い改めるということです。悔い改めて、主の方向に向きを変えなさいということです。これは、頼るべきはエジプトではなく、主ただお一人だということを示しています。第2に、「落ち着いて」とありますが、これは神様の前に心を落ち着けて祈るということです。第3に「静かにして」というのは、どんな状況にあっても、慌てずに冷静でいなさいということです。第4に「信頼する」というのは、完全に主に委ね切る姿勢のことです。

つまり、主はイスラエルの民に、今こそ「主を待ち望みなさい」と語られたのです。このような窮地に立った今だからこそ、「主に立ち返り、落ち着いて、静かにして、信頼する」。そうすれば、主から力が与えられますと、主は語られた。みなさん、主を待ち望むことは、私たちの力です。素晴らしい約束です。

でも、イスラエルの民は、それを望まなかったのです。彼らは、困難な状況の中で、主を求めることをするのではなく、人の知恵に頼ろうとしたのです。主の前に静まり、みわざを待つことが出来なかったのです。皆さん、この御言葉をどのように聴くでしょうか。

私は思わされました。私も、主の前に静まること、主を待ち望む者でありたいと思っています。でも、実際の私は、頭ではそう思っていても、忍耐強く主の前に出続けることを拒み、焦って自分で解決策を考え、そして自分の無力さに疲れ果て、この心が主から遠く離れていることが、どれほど多いかと思うのです。口では主のみこころを求めますと言いながら、結局は自分のやりたいようにやりたい、自分のやり方を変えたくない、そういう自分がいることに気が尽かされるのです。主が語っておられることを、しっかりと受け止めて、祈り、思い巡らし、自分のものとするよりも前に、もう初めから壁を作り拒絶してしまっていることがある、そう思わされました。

主の前に落ち着いて、静まるということ。これは、待つことが難しい今の時代だからこそ、私たち一人ひとりに求められる修練です。皆さん、毎日のデボーションを通して、もっと真剣に、主を待ち望む者とならせて頂きましょう。皆さん、忙しい毎日だとは思います。でも、だからこそ、もっと主の前に静まる必要があるのです。特別に主の前に出ることが出来るように、お互い励ましあって、お互いのために祈っていきたいと思います。

「それゆえ」という言葉の真意

さて、神様は、神様の前に静まって声を聴こうとしないイスラエルの民の姿を見て、「それゆえ」恵もうと待っているのだとおっしゃったのです。もう一度、イザヤ30:18をお読みします。イザヤ30:18節です。

それゆえ主は、
あなたがたに恵みを与えようとして待ち、
それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。
主が義の神であるからだ。
幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。
イザヤ書 30章18節

いや、「それゆえ」じゃなくて「それなのに」と言った方が良いようにも思います。でも主は、「それゆえ」待っていてくださる。なぜでしょうか。

それは、主ご自身が、私たちのことを、信じてくださっているからです。主は私たちを信じて、待っていてくださっている。神様は、私たちが間違った道にいこうとした時に、みことばを通して、御霊を通して、警告してくださいます。でも、私たちの意思を無視して、何かをなさるということはしないのです。

私たちは、転ばぬ先の杖のようにして、先走って何かをしてしまうものです。でも主は、私たちが、本当に主を求め、本当に主に信頼して、主を待ち望むようになるのを、忍耐深く待ってくださっているのです。そこには、どれほどのもどかしい思いがあるでしょうか。どれほどの痛みがあるでしょうか。人を信頼し、待ち続けるというのは苦痛を伴います。でも、主は、私たちを待ち続けてくださっているのです。

それは、ちょうど放蕩息子の帰りを待ち侘びる父のような姿です。父の財産を食い潰し、ついに豚の餌でお腹を満たしたいと思うほどに悲惨な状況になった息子の帰りを、父は毎日信じて待っていたとあります。息子がどんなに遠くに離れてしまっても、どんなに悲惨な状況に置かれたとしても、彼は必ず帰ってくる。そう信じて、毎日、毎日、私たちのことを待っていてくださるのです。ルカ15: 20にはこのようにあります。

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
ルカの福音書 15章20節

父なる神は、私たちが自分に頼ることの愚かさを知り、とことん自分に失望し切った時、もう主に頼る以外他にないと覚悟を決めて主に憐れみを求める時、今度は主の方から近づいてきて、よく返ってきたね、あなたを待っていたよと、私たちを抱きしめてくださるんです。この箇所は、失われた魂に対する神様の愛を表しています。でも、すでに主を知っているはずの私たちが、自分勝手に歩んでいる姿を見て、同じ愛が、私たちにも注がれ続けているのです。今日、私たち自身が、もう一度この父の愛を体験したいと思います。

そして、失われた者たちに対して持っている愛を私たちも受け取って、彼らが必ず主のもとに立ち返ってくるということを信じて待ち望んでいこうではありませんか。お祈りをいたします。

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