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2023年9月24日 永遠のいのちの記念
2023年9月24日 永遠のいのちの記念
マルコの福音書 14章9節 木島浩子 伝道師
先週はメモリアル礼拝の時を持ちました。地上の生涯を終えた方々の愛の遺産、信仰の姿勢を一つひとつ思い起こし、励まされました。久しぶりにお会いした方との交わりもとても嬉しく、心に残る日となりました。
折りにふれ、私たちは大切な人や出来事を記念します。
聖書にも、民族特有の「記念」がたくさん出てきます。偉大な神の歴史を覚えるためですが、新約聖書には一つだけ、神さまを、ではなく、人の行為が「記念」とされた物語があります。誰もが尊敬した人ではなく、逆に顰蹙を買った人です。イエスさまが大きくとり上げ、記念と言われなければ忘れ去られるような一瞬の出来事でした。今日は、そこに目を留めたいと思います。
過ぎ越しの祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。彼らは、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と話していた。さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。すると何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして彼女を厳しく責めた。すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。彼女は自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。
(マルコ14:1~9)
過越の祭り
冒頭に、過ぎ越しの祭り、すなわち種なしパンの祭り、と出てきました。これは日本人にはあまり馴染みがないですが、「過ぎ越し」というのは、災いが通り越した、という意味です。昔、奴隷となって苦しんでいた先祖を、神が宗主国エジプトから脱出させてくださった。さあ、明日出発、という夜、神の指示通り、いけにえの子羊の血を家のかもいに塗ると、その血を見て災いが通り過ぎ、血を塗らないエジプトの家にだけ死の恐怖が訪れたという出来事です。聖書に回顧録があります。
彼らは第一の月、その月の十五日に、ラメセスを旅立った。すなわち過ぎ越しのいけにえの翌日、イスラエルの子らは、全エジプトが見ている前を臆することなく出ていった。エジプトは、彼らの間で主が打たれたすべての長子を埋葬していた。(民数記33:3)
直前までもいくつもの災いに襲われていたエジプトです。蛙の異常発生や、家畜の疫病など、そのたび神の警告を無視してきました。最終的には、長子です。文明国の英知、有り余る食物、何人もの奴隷を持ち、昨日は「お父さん、お早う」、と起きてきた我が子が、蛙や牛の死骸とともに朽ちていくのです。この絶望の国から、イスラエルは子どもをしっかり抱いて出ていきました。……忘れてはけないよ。私たちは子羊の血を塗ったお家にいたから生きているのよ。……
過ぎ越しは、救い出されたいのちの、感謝記念なのです。
もう一つの、「種なしパン」、は、酵母菌を入れずに急いで焼いたパンの再現です。脱出の時は迫っていました。彼らは神のことばを信じ一糸乱れぬ行動で救いに備えたのです。パンのお祭りですから麦をたくさん使いますが、季節は新年で、まだ刈り取りの時期には早いです。近隣諸国は、収穫の秋まで待って大きなお祭りをしますが、イスラエルは、何よりいのちに感謝して過ぎ越しの記念日にパンを焼き、子羊を屠るのです。この日エルサレムの人口は、いつもの10倍くらいになっていたといわれます。祭りを指揮するのが、祭司長、律法学者です。歴史は巡り、新約聖書の時代、ユダヤはローマ支配下にありました。同胞に奴隷からの解放を想起させ、神は必ずまた救いに来られる、と信仰を燃え立たせるのに、過ぎ越し祭は絶好の機会でした。しかし1節、「祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための『良い』方法を探して」いたのです。祭りの間は止めておこう、死が過ぎ越した、と祝っている最中に、さすがに殺しはまずい、と言っていた。
…言いながら、自分たちは殺し屋だ、これは悪の計画だと思っていたでしょうか。
自分たちに盾を突き、群衆を扇動するイエスは、国の反逆者、取り除くことこそ使命、と彼らは信じた。高等教育を受け、律法を重んじる最高峰だったとしても、彼らは自分が何をしているのかわからなかったのです。
人は、人を造られた神のことばに声に耳を傾けなければ、自分がどこに位置しているか、神の定めた良いものとは何かがわかりません。思うままに事を行っているようでも、実は死の力の前に無防備で、いのちの備えから最も遠い夜にいることに気づかないのです。
神が「良い」と言われた備え
もう一方で、神が「良い」と言われた備え。もう一度ヨハネの平行記事で見ると、
さて、イエスは過ぎ越しの祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロはイエスとともに食卓に着いていた人の中にいた。一方マリアは、非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、……(ヨハネ12:1〜3)
と続き、注いだのは、ラザロの姉妹マリアだとわかります。
パレスチナ地方では、来訪者を良い香りでもてなし、汗や日焼けをケアする習慣があります。高級な香油は、特別な客に、ほんの少しつけるそうです。中でもナルドは、ヒマラヤの奥地でしか採取できない貴重品で、容器の石膏は砕かなければ中身が出ないように密封されていました。娘が結婚する際、よほどのときに使いなさい、と親が持たせることもあったようです。それを、一瞬で使い切ったのです。周囲は当然、非難します。けれども、主は違った。「わたしに良いことをしてくれた」と言われました。
この場合の「良い」は「美しい」とも言い換えられることばだそうです。神の時計にぴったりと合う美しさのことです。周囲の常識には合わない、しかし神の計画に、寸分たがわず合致したのです。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。(伝道者の書3:11)
人は、すべてを知ることはできません。しかし、神のことばに聞くことができます。聞いていると、神の中に自分が存在し、限りある一刻々々が神の計画につながっていると知るのです。おそらくマリアは、主イエスの見ておられる「時」を、ともに見たでしょう。ルカが記したように彼女は平素、
「…主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた(ルカ10:39)」からです。
弟子たちも、身近で、主の時については聞いていました。主は
あなたがたも知っているとおり、二日たつと過ぎ越しの祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。(マタイ26:2)
と、語っておられました。しかし、彼らはたじろいだ。ああ、先生は十字架にかかるのですか、そうですか、とどうして言えるだろう。弟子としてのアイデンティティが、壁となったでしょうか。過越し、そして、次の日、と、時間は当たり前に流れると思っていたでしょうか。しかし、マリアは聞き入りました。緊迫した神の愛に触れました。愛は相手と自分を隔てません。相手の苦痛、死の悲しみに、はらわたがよじれるほどの痛みを覚えます。愛する者を救うためにいのちを、捨てる主の愛に、彼女もまた、突き動かされたのです。
「美しい」とされたもの
マリアの行為は、主に、三つの点で「美しい」とされました。
(1)埋葬の準備として
埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。(マルコ14:8)
①まず、香油は「埋葬の準備」として美しかったのです。
通常、埋葬は、遺族のためにも大切な意味を持つでしょう。別れの儀式によって、悲しみや感謝に輪郭を持たせ、遺族同士の絆を強めます。亡骸を土に帰す、という現実的な意味もありました。美しく布に包んで最後の別れをするのです。
しかし、イエスさまの埋葬は違います。
わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)
ご自身が「よみがえり」なのだと言われただけではありません。わたしのよみがえりが、あなたのよみがえりになると、宣言されたのです。食卓には先ほど見たように、奇跡の人ラザロもいました。彼がよみがえった時の詳しい描写があります。
……墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」そこで彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。あなたはいつもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを彼らが信じるようになるために。」そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出てきなさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出てきた。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くがイエスを信じた。(ヨハネ11:38〜45)
ラザロの布をほどいたのはおそらく姉妹のマルタかマリアだったでしょう。指には布を通しても、体温が伝わって来たでしょう。彼を抱きしめたマリアの衣服にも、埋葬の香りが移ったと思います。それは死の匂いではなくいのちの証しでした。……時が来れば、この人のからだはまた冷たくなり地上を去る。けれども、死んでも生きるとは、こんなに確かなこと。この祝いは、信じる私たちのものです。信じるなら、神の栄光を見る。死を迎えるしかない者に代わって、主の埋葬は死の力そのものを葬る備えだったのです。
イエスさまを慕っていたほかの女性たちも、主が十字架で息を引き取られた後、ねんごろに埋葬したいと願いました。しかし、十字架の日の翌日は安息日の規制があり、かないませんでした。
祭りの前に注がれたナルドだけが、時にかなって生けるお方にささげられ、十字架上でもその香りは離れませんでした。
(2)王の戴冠式として
次に、マルコ14:3です。
その壺を割り、イエスの頭に注いだ。(マルコ14:3)
この行為でマリアは、主をキリストと証ししたのです。
ローマ兵は主にいばらの冠をかぶせ、ユダヤの王とあざけりました。しかし、その前に、主の御かしらにはナルドが注がれていました。「キリスト」とは油注がれた者という意味があり、それは王の称号です。かつて預言者サムエルはダビデという偉大な王を見出し、油を注ぎましたが、天地万物の王が頭を垂れ油注ぎを受けられたのは、地上でこの時だけです。
12節には、過ぎ越しの子羊を屠る日、とあります。市場ではいけにえの子羊を買うため、金銭が音を立てていたでしょう。12弟子の中で、ユダは会計係でした。マリアを叱った代表者はユダだったことがヨハネの記事でわかります。300デナリもの無駄使いを、美しいなどと言う先生に、従う価値なし、と見限った瞬間だったでしょうか。香油の出来事の直後に、彼は祭司長のところに出向きます。祭りの日に殺しは止めておこう、と言っていたら、なんと奴の弟子が来て、銀貨30枚でイエスを売るという。銀貨30枚はナルドの三分の一です。それが暗殺計画の火に油を注ぐこととなり、ここから事は一気に動き出します。出エジプトの前夜、だれ一人気づかない中で、死が人々の間を行き廻ったように、最も暗い力が、いのちをのみ込もうとしたのです。しかしこれは人のはかりごとではありません。十字架は、旧約のさらに以前、世界の造られる前から神が計画しておられた、歴史の頂点です。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間とおなじようになられました。人としての姿をもって現れ、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。(ピリピ2:8,9)
ナルドの油注ぎは、すべての名にまさる王の戴冠式として、ふさわしかったのです。
(3)この人の記念として
第3に、ナルドの行為は、この人の記念となった、ということです。
世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。(マルコ14:9)
最後の晩餐では、主はパンとぶどう酒を分かち合い「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われました。それは神の記念でした。これ以上良いものはないという神の救いのわざに、人は何も付け加えることはできません。しかし、主が、ご自身の最も良いものを、人と分かち合いたいと願われるのです。
300デナリのナルドは年収に匹敵する、と言われますが、私たちも、一日という単位を重ねながら、一年を主に受け取っていただくことができます。主はその人の365日、体調が悪い日も、誤解されて辛い時も、砕かれ、低くされるときの呻きも、涙の祈り求めも、人の目に触れないようなすべてに目を留め、「美しいことをしてくれた」と受け取ってくださるのです。
神に「美しい」と言われる時、人は本当の自分に出会います。神の作品である一人ひとりは、本来最高に美しいからです。神さまは、私たちを偽りの価値観からも解放するため、ご自分が身代わりに貶められ、刑罰を受けられました。神に背を向けていた者を、いのちに移すためです。このいのちこそ、神の国の輝きです。
マルコの福音書の書き出しは
神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。(マルコ1:1)
となっています。はじめがあるということは、福音には終わりがあるということです。主は言われます。
私を遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることなのです。(ヨハネ6:39)
2015年に教会は50周年記念を祝いました。ついこの間のことと思うのですが、メモリアル礼拝の時のお写真に目をとめると、9年前のその日におられた何人もの方が、もう地上におられないことがわかり、厳粛な気持ちになります。私たちも、教会歴や季節、文化に合わせ、行事を行います。それぞれが、永遠のいのちの記念とならなければならないと思わされます。死につながれていた者が、いのちを与えられたことを祝ってこそ、神の国のお祭りなのです。福音のはじめと終わりの間に置かれている私たちが、いのちの祭りを備えるときは、今です。神の時計は確実に進んでいます。
良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。…救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。(イザヤ52:7)
それは間に合ってこそ良い。時機にかなってこそ美しい知らせです。
ナルドの記念を、今日、私たちも記念しましょう。死といのちを分ける、真の過ぎ越しを告げ知らせ、いのちの祭りを皆でお祝いしたいと思います。お祈りいたします。
キリストも私たちを愛して、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。ささげものとなってくださった真のいのち、イエス・キリストをほめたたえます。
かつては神に敵対していた私です。良いことをしたい気持ちでいても、すればするほど、神の良さに逆らういのちでした。しかし、今は、キリストが、十字架に私の罪を担い、身代わりのいけにえとなってくださいました。私は罪赦され、いのちの祭りに加えられるものになりました。闇は主の十字架に打ち勝てません。どうぞ、ここにおられるお一人ひとりに、あなたのいのちが新しく注がれますように。
すべての名に勝る名、救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。