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2023年4月9日 復活の希望
2023年4月9日 復活の希望
ルカの福音書 24章1~8節 佐藤賢二 牧師
イースターおめでとうございます。言うまでもなく、イースターは「復活祭」、イエス・キリストの復活をお祝いする祭りです。
私の記憶にある限り、私が初めてこの「イースター」というものを何となく知ったのは、小学生の時です。我が家は未信者の家庭でしたので、それまで教会やキリスト教のことはよく分かりませんでした。でも、なぜかその年には、家に「イースターエッグ」なるものがあったのです。そして、そこに添えられた説明書きに「イースターは、キリストの復活をお祝いする祭りです」というようなことが書いてありました。それを見た私は、意味がよく分からなくて、母親に「キリストって復活したの?」というような事を聞いた記憶があります。でも、そんなことを聞かれた母親も、困ってしまいますよね。その時には、結局ちゃんとした答えも聞けず、適当にはぐらかされてしまいました。まあ、無理もありません。その時は、何となくモヤっとしましたが、別に私にとってはどうでもいいことでしたので、しばらくするとそんなことは、すっかり忘れてしまいました。でも実は、それは「どうでもいいこと」ではなかったのです。
皆さんは、同じように「イエス・キリストって復活したの?」と聞かれた時、どのように答えられるでしょうか。ある人たちは、「それは、弟子たちにそういう思いが与えられただけで、実際にイエス・キリストの身体がよみがえった訳ではない」と考えています。でも果たしてそうでしょうか。聖書は、実際にイエス・キリストは肉体をともなってよみがえったのだと主張します。そして多くの歴史家も、それは「歴史的事実」だと認めているんです。そして何よりも、歴史上、多くの人たちが、この「復活の主」と直接出会い、人生が変えられ、そのために命をかけて生きてきたのです。それゆえに、この福音が、今、私たちのところに届けられているのです。
今日は、その「イエス・キリストの復活」をお祝いする日です。なぜなら、ここに、私たちの希望があるからです。今日は、「復活の希望」と題して、「聖書がイエス・キリストの復活」について何と語っているのか、そしてそれが「私たちにとって、どのような意味を持つのか」を考えていきたいと思います。聖書を開きましょう。ルカの福音書24章1〜8節をお読みします。
週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。見ると、石が墓からわきに転がされていた。そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」彼女たちはイエスのことばを思い出した。
ルカの福音書 24章1~8節
ここに「彼女たち」とあります。「彼女たち」とは、イエス様がガリラヤで宣教を始めた時から付き従ってきた女性たちです。彼女たちは、イエス様と一緒にエルサレムについて来ていたのです。そして、イエス様がそこで不当な裁きを受け、十字架につけられ、死んで、墓に葬られるその姿を、傍でじっと見届けてきたと書かれています。今までイエス様を信じ、従ってきた。でも、ついにここですべてが終わってしまった。今、せめて自分たちに出来ることはないかと考えて、彼女たちは、墓に葬られたイエス様のために香料と香油を用意したのです。そして安息日の明けた週の初めの日、すなわち日曜日の朝早くに、準備した香料を持って墓までやって来たのです。
しかし彼女たちには、気掛かりなことがありました。墓の入り口に置いてある石の存在です。
当時のイスラエルのお墓は、洞窟に円形の切石を立てかけておくのが普通だったそうです。そしてこの石は男20人でも動かせないほどの重さ、つまり1、2トンぐらいはあっただろうと言われています。それに加えて、イエス様の墓の場合、イエス様のからだを誰かが盗んでいったりしないようにと、ローマの権力によってしっかりと封印がなされ、屈強な番兵たちもつけられていました。
だから彼女たちは、「だれか、墓の入り口から石を転がしてくれる人はいるだろうか」、そんな心配をしながら、とにかく墓のところにまでやって来たというのです。しかし彼女たちは、そこで驚くべき光景を見ました。
何と、墓に立てかけてあった大きな石が、脇に転がされていたのです。それを見た彼女たちは、墓の中に入りました。しかし、イエス様の体はそこにはありません。彼女たちは、途方に暮れてしまいます。すると突然、まばゆい光が彼女たちを照らし、二人の御使いが、彼女たちに近づいて来て、こう言うのです。ルカ24:5c-8をお読みします。
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」彼女たちはイエスのことばを思い出した。
ルカの福音書 24章5c~8節
御使いは「イエス様のことばを思い出しなさい」、「あの方は、約束の通り、よみがえられたのです」と彼女たちに告げたのです。イエス様は確かに、それまでに、弟子たちに対して何度も何度も、話をしていました。
「わたしは多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならない。」
皆さん、イエス様は、十字架で死ぬということだけでなく、三日目によみがえると約束されていたのです。しかし弟子たちは、どうしてもそのことが理解できませんでした。いや、理解できなかったのではなく、むしろ否定していたのです。弟子の一人であるペテロは、イエス様にこのように言いました。マタイ16:22です。
主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。
マタイの福音書 16章22節
イエス様が、「わたしはよみがえる!」と希望のメッセージを語っているにも関わらず、弟子たちの思考は、その前の「死ぬ」という所でストップしてしまっていたのです。「もし本当にイエス様が死んでしまったら・・・」そう思うと、もうそれ以上先まで考えることが出来ない精神状態でした。だから、そんな彼らにとって、実際にイエス様が十字架で死なれたことは、敗北と失望でしかありませんでした。
私たちはどうでしょうか。どんなに素晴らしい約束が与えられていても、目の前にある苦しみや困難でもう頭がいっぱいになってしまう、そのようなことはないでしょうか。私たちは、誰もが苦難の時、また状況がよく理解できないような混乱の時を過ごすことがあります。
でも、そういう時こそ、彼女たちのように、イエス様の約束を思い出す必要があるのです。それは、十字架と復活の約束です。もし復活がなければ、結局のところ十字架は敗北だったと言えるかもしれません。でも、十字架の向こう側に、復活がある。それが私たちの希望なのです。イエス様の十字架と復活は、私たちが困難を乗り越える一つの雛形であり、原則です。そして、この「十字架と復活」こそが、イエス様が私たちにもたらした良い知らせである「福音」の中心なのです。
今日は、この「福音」を3つのポイントで、お伝えしたいと思います。すでに、イエス様を信じているという方も、まだよく分からないという方も、今日ぜひこのことを心に留めていただきたいと思います。そして人生のどこかの時点で、彼女たちのようにこの「ことばを思い出し」、助けになった、救われたと思ってもらえれば幸いです。
1. 十字架は愛のしるし
まず第1のポイントは、「十字架は愛のしるし」だということです。イエス様の十字架は、神様の私たちへの愛の証なのです。第1ヨハネ4:9-10にはこのようにあります。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
ヨハネの手紙 第一 4章9~10節
ここに「私たちの罪のための、なだめのささげ物」とあります。聖書によれば、私たちは一人残らず罪人です。私は初めて聖書に触れた時、そんな言い方をされていることにショックを受けました。人を勝手に罪人扱いするなんて、何とキリスト教の教えは居心地の悪いものだろうと思ったのです。でも皆さん、誰か他の人を指差すのではなく、そっと自分の胸に手を当てて、素直に、静かに、自分を振り返ってみて頂きたいのです。誰が胸を張って、私には罪がないと断言できるでしょうか。
今、もしここにおられる皆さんの中から、誰か一人を無作為に選び、「あなたの脳に直接ケーブルを刺し、あなたが何を見たのか、何を考えたのか、何を呟いたのかをすべてこのスクリーンに晒します!」と言われたら、どうでしょうか。そんなことに耐えられる人がいるでしょうか。
でも神様は、もうすでに、実際に私たち一人ひとりのことを、良いことも、悪いことも、すべて知っておられるのです。神の前には、すべてのことがさらけ出されているのです。イエス様は、その上でなお、私たちを愛していると言ってくださっているのです。そして、その罪が赦されるようにと、自ら、私たちの身代わりとして十字架にかかって死んでくださったのです。「罪のための、なだめのささげ物」と言うのは、そういう意味です。
イエス様は、唯一、罪のないお方としてこの地上で歩まれました。イエス様は、私たちと同じように、すべての誘惑や試練に遭われましたが、たったひとつの罪も犯さなかったのです。そして、この罪のないお方だけが、人類の罪の身代わりとして「なだめのそなえ物」となる資格をお持ちだったのです。
皆さん。私は罪人です。あの十字架は、本来、私がかからなければならなかったものです。でもイエス様は、私のために、私の罪の身代わりとして十字架にかかってくださったのです。それは、私への愛のしるしです。イエス様は、私のために鞭打たれてくださいました。ただの鞭ではありません。その鞭の先は幾つにも枝分かれしていて、鋭い石や棘が埋め込まれていたといいます。そして鞭打たれるたびに、それらがイエス様の背中に突き刺さり、肉が裂け、えぐり取られていきました。見るに耐えないような、身体的苦痛をイエス様はお受けになったのです。イエス様は、私のために罵られてくださいました。人々から唾をかけられ、あざけられました。「お前が神の子なら、自分を救ってみろ」と馬鹿にされました。でも、イエス様は、そんな精神的な苦痛も、黙って受け切ってくださったのです。
なぜでしょうか。なぜ、そんなにまでして、苦しみを耐え抜いてくださったのでしょうか。イザヤ53:3-5にはこのように書かれています。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
イザヤ書 53章3~5節
これは、神様がどのようにして私たちを救うのかということを記した、驚くべき預言のことばです。皆さん、イエス様の苦しみは、私たちが、癒され、救われるためだったのです。私たちが十字架を見上げるとき、そこには、私たちの罪のために身代わりとなって苦しんでくださったイエス様の愛が見えるのです。その打ち傷のゆえに、私は癒されました。その打ち傷のゆえに、あなたは癒されたのです。
十字架は、あなたへの愛のしるしです。今日はまず、そのことをしっかりと心に刻みたいと思います。
2. 復活は希望のしるし
第2のポイントは、「復活は希望のしるし」だということです。
私は、まだ神様を知らなかった高校生の頃、このように考えたことがあります。「良いことをしても、悪いことをしても、どうせ人は皆、同じように死んでしまう。だとしたら、良いことをすることに何の意味があるのだろう。何かを一生懸命やることに、一体何の意味があるのだろう。」
もし私たちが、この地上の命にだけ目を留めているなら、それはとても虚しい人生だと思います。なぜなら、結局はすべて死で終わってしまうからです。でも聖書は、この世界には、「永遠」という視点があるということを教えてくれています。そして、人は誰でも、そのことを、心の奥底で感じ取って生きているのです。だからこそ、人間は、色々なことに意味を求めます。目的を求めます。自分はただ偶然にここに存在すると言って、割り切って考えることなどできないのです。イエス様は、自らの復活を通して、この地上に「死」で終わらないいのちがあるということを、はっきりと示してくださいました。イエス様は十字架にかかられた後、三日目によみがえられました。それから40日間弟子たちとともに過ごされた後、天に昇って行かれました。そして、イエス様は今も生きておられるのです。イエス様はヨハネ11:25でこのように宣言しています。
わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
ヨハネの福音書 11章25節
イエス様ご自身が、よみがえられた、いのちの源です。ですから、私たちはイエス様とつながることを通して、肉体の死で終わらないいのち、永遠のいのちを得ることが出来るのです。このいのちは、霊的ないのちです。このいのちは、神様とともにある豊かないのちです。そこには、意味があり、目的があります。私たちは、イエス様と共に、復活のいのちに預かり、この「永遠のいのち」に生きることが出来るのです。
イエス様の復活は、確かに私たちが「永遠のいのち」に生きることができるという希望です。復活は、希望のしるしなのです。
3. 信仰は勝利のしるし
第3のポイントは、「信仰は勝利のしるし」だということです。
イエス様の十字架と復活は、聖書に記されている「歴史的事実」です。でも、それを単に知識として頭で理解するだけでなく、私たちはそれを自分のこととして、信仰によって受け止める必要があるのです。
私は、高校生の時にクリスチャンになりました。アメリカのアラバマ州という所に1年間留学する機会があり、そこで神様を信じる決心をしたのです。もう30年以上も前のことです。留学先が決まった時、私はなぜか教会のユースパスター(若者担当牧師)の家にホームステイすることになりました。先ほども言った通り、我が家は未信者の家庭でしたので、それはとても不思議な導きでした。でも私はアメリカに着くなり、彼にこう宣言しました。「私はこれからの国際人として、キリスト教については知っておきたいけど、絶対にクリスチャンにはなりません。」
それからしばらくの間は、アメリカ人の友達の温かさもあって、とても充実した日々を過ごしていました。でも私はそこであることで行き詰まるのです。それは、失恋でした。まだ若くて感受性も高く、純粋だった私は、そのことを通して、文字通り三日三晩泣き続けたのです。その時に私は思いました。「こんなに辛いんだったら、いっそのこと死んでしまおうか。」でも心の中で、もう一人の自分が言うのです。「いや、流石に死ぬのは違うだろ。」じゃあ、なぜ死んではいけないのか。それには生きる目的があるからではないか。私の周りにいるクリスチャンたちは、生きる目的を持っているように見える。もし、それが得られるのだったら、私もクリスチャンのようになりたい。そんな風にして、神様のことを求め始めるようになったのです。
そんなある時、教会のユースグループで、アラバマ州南部にあるGulf Shoreという大変美しい海岸に行ってリトリートを行う機会がありました。満点の星空の広がる美しい浜辺で、講師の先生がこのように言いました。「今日は、目を開けて祈ろう。神様が造られた、この美しい自然を見て感謝しよう。」私は、確かにこんなに美しい自然が、偶然に出来たなんて考えられないと思いました。次の日、そこで私は、ホストファーザーと砂浜に座って話をしました。彼は砂浜にハートを書いてこういうのです。
「Kenji、君の心の中には、たくさんの良いものがある。英語を話したり、音楽をしたり、ユーモアがあったり、いろんな良いものがある。でも、どうしても、自分では埋めることができない空洞があるんだ。それを埋めることが出来るのは、Kenjiの罪ために十字架で死んでよみがえってくださったイエス様だけなんだよ。
だからイエス様に、自分の罪を告白して、イエス様あなたを信じます、この心にお迎えしますと祈れば、イエス様はKenjiの心に入り、満たしてくれるんだ。今、一緒に祈らないか?」そこで私は彼に導かれるままに、一緒に祈りました。気がつくと、私はなぜだか分からないけれど、泣きじゃくっていました。神様が、直接、私の心に触れてくださったのだと思います。そして、まだ分からないことだらけでしたが、確かに、その瞬間を境に、私の人生の中で、何かが変わったのです。
その時からイエス様は、片時も離れることなく、私と共に歩んでくださっています。第1ヨハネ5:4-5には、このようにあります。
神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
ヨハネの手紙 第一 5章4~5節
信仰とは、イエス様がなされたことに対する、私たちの応答です。そしてイエス様を、神の御子として信じる信仰こそが、世に打ち勝った勝利のしるしなのです。
イエス様の十字架は、愛のしるしです。
イエス様の復活は、希望のしるしです。
そして、私たちの信仰は、世に打ち勝った勝利のしるしなのです。
今日、このイエス様を、心にお迎えしましょう。イエス様はあなたの人生に入り、ともに歩んでくださるのです。最後にもう一つだけみことばをお読みして、お祈りをいたします。ローマ10:9です。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
ローマ人への手紙 10章9節
お祈りいたします。