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2023年3月26日 キリストの心を心とする(6)〜生きた信仰〜

2023年3月26日 キリストの心を心とする(6)〜生きた信仰〜
ルカの福音書 17章5~6節 佐藤賢二 牧師

今日は、「キリストの心を心とする」というシリーズの第6回・最終回として、「生きた信仰」というテーマでメッセージを取り継がせて頂きます。「信仰」とは、すなわち信じること、そして信頼するということです。この「信じる」ということには、計り知れない大きな力があります。

皆さんは、先日行われたWBCワールド・ベースボール・クラシックをご覧になったでしょうか。侍ジャパン・日本代表は決勝戦でアメリカを下し、見事優勝を果たしました。普段私はそこまで野球に関心を持つことはないのですが、やはり準決勝9回裏での逆転劇、また決勝での大谷の活躍などを見て、とても心が熱くなりました。そして今、この日本代表を率いた栗山監督がとても注目されています。インターネットで彼のことばが紹介されていて、それがとても心に響きましたので、まず、ここで紹介させていただきたいと思います。

「こうなったらいいな」ではなく、「絶対になる。こうなる」と考える。
「こうなる」という前提があってはじめて、一体どうすればそうなるんだろうと考えられるようになる。
「こうなったらいいな」と思って考えるのと、「こうなる」と信じて考えるのでは全くプロセスが変わってくる。
「そこにたどり着くために、今日自分は何をすればいいのか」といった具合に発想も変わってきて、そこに知恵が生まれるのだ。
『「最高のチーム」の作り方』栗山英樹より

つまり、なんとなく「こうなったらいいな」と思うことと、「絶対になる。こうなる」と信じることとの間には、大きな違いがあるということなのです。そして、実際に栗山監督は、「絶対にこうなる」と信じて、選手たちのことも信じて、信頼してチームづくりをしてきたというのです。

1. 「信じる」ことの力

皆さん、「信じる」ことには力があります。そして、何かの成功を収める人というのは、必ず、自分には出来るということを信じて取り組んでいるのです。

では、私たちは、何を根拠に信じるのでしょうか。単なる積極思考で「できる、できる」と言っても、結局そこには限界があります。それでは、一部の強靭なメンタルを持った人だけが、信じ続けることができるのでしょうか。自分は何か困難なことがあると、すぐに心が折れてしまう。だから、信じ続けるなんてことは出来ない、そんな風に感じる人もいるかもしれません。

でも私たちには、私たちを造られた神様、私たちのことを今も愛し、私たちの人生を祝福で満たしたいと願っておられる神様がいるのです。このお方に目を留める時、私たちには、信じ続ける力が与えられます。なぜなら、神様ご自身が「出来る」と言ってくださっているからです。自分には力がないと感じる時でも、神様が約束してくださっているから「出来る」。そう信じて、立ち上がることが出来るのです。

皆さんの中に、今日何かに行き詰まっていると感じる人はいるでしょうか。そういう人は、ぜひ神様に目を向けてみてください。神様は、あなたに「信じない者」ではなく、「信じる者」になってほしいと願っています。そして「信じる」なら、道は開かれるのです。

今日はご一緒に、この「信じる」ということについて、つまり「信仰」について、聖書が何と言っているのか、ともに学んでいきたいと思います。まず今日の聖書の御言葉を1節だけ、見ていきたいと思います。ルカの福音書17:5です。

使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください。」
ルカの福音書 17章5節

ここで使徒たちとありますが、これはイエス様の弟子たちのことです。彼らは、彼らの師匠である主イエス様に、「私たちの信仰を増し加えてください」と、お願いしているのです。

2. 「もっと信仰があれば」という願い

弟子たちはきっと「自分には信仰が足りない、もっと信仰があれば」という風に、感じていたのだと思います。皆さんも、彼らと同じように「もっと信仰があれば」と思うことはないでしょうか。

「私にもっと大きな信仰があったら、もっと大きなことが出来るのに。」
「私にもっと大きな信仰があったら、もっと力強く歩むことが出来るのに。」

イエス様の弟子たちも同じでした。そして弟子たちは、イエス様と過ごす中で、余計にそのように感じることがあったのだと思います。なぜなら、イエス様は様々な奇跡を行いましたが、その度に「信仰」の大切さを語っていたからです。

  • ある時、長年の病を抱えた一人の女性が、イエス様の服の裾にでも触れればきっと救われると信じて触れた事がありました。その時、イエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言ってその人を癒されました。
  • またある時は、目の見えない物乞いが「私を憐んでください。目が見えるようにしてください」と叫び求めた事がありました。その時イエス様は「あなたの信仰の通りになれ」と言って、その盲人の目を開かれました。
  • また別の機会には、4人の人たちが、中風という重い病気で苦しむ友人のために、群衆をかき分け、無我夢中でイエス様の元に連れてきたことがありました。するとイエス様は、彼らの「信仰」を見て、この病人を癒されました。

この様に、イエス様が何か奇跡を行う時には、多くの場合人々の信仰が関係していたのです。そんなイエス様を身近で見ていた弟子たちですから、信仰こそが、神様の力を引き出す鍵だということに、気がついていたのだと思います。だからこそ彼らは、「私たちの信仰を増し加えてください。そうすれば、もっと素晴らしいことが出来るに違いない」と思って、イエス様に懇願したのだと思います。

実際、私たちにとって、信仰は、神様とともに歩む上でなくてはならないものです。ヘブル人への手紙11:6にはこのように書いてあります。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
ヘブル人への手紙 11章6節

私たちは、信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神様は、私たちが、信仰を持って、信仰によって歩むことを喜ばれるのです。キリスト教というのは、何かルールや戒律に縛られて生きることではありません。そうではなくて、生きた神様との関係のことを言うのです。そして、神様との関係を深めていく、すなわち神様に喜んでいただくためには、この「信仰」が不可欠だと言っているのです。

3. からし種ほどの信仰

さて、そんな弟子たちの願いに、イエス様はどのように答えられたのでしょうか。先ほどのルカの福音書17:5と、続く6節をお読みしたいと思います。

使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください。」すると主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。
ルカの福音書 17章5~6節

ここでイエス様は、弟子たちの「信仰を増し加えてください」という要求には、直接答えておられません。

しかし、その代わりにイエス様は、「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば」十分だと答えておられるのです。皆さん、「からし種」ってどんなものかご存知でしょうか。英語で言うと、マスタード・シードです。この「からし種ほどの信仰」というのは、どのぐらいの信仰なのでしょうか。今、からし種の写真を出してもらいます。これがからし種です。

ものすごく、ちっちゃいです!事実、「からし種」とは、もっとも小さいものの例えとして、用いられています。でもイエス様は、こんな「からし種ほどの信仰」で十分だと言っておられるのです。これはどういうことなのでしょうか。なぜ「からし種ほどの信仰があれば」、とイエス様はおっしゃっているのでしょうか。

(1)サイズではなく「あるかないか」が問われる

まず第1に、信仰とは、サイズではなく「あるかないか」が問われるということです。私たちは、あの弟子たちと同じように、自分には信仰が足りないと感じることがあります。でも、イエス様は、信仰は大きさではないよと教えてくれるのです。信仰というのは、私たちが一生懸命努力して増し加えられるような性質のものではありません。「信仰」とは、「あるかないか」のどちらかなのです。

神様は、無から有を、何も無いところから有るものを生み出す事が出来る、唯一のお方です。神がこの天地を創造された時、神はことばを用いて、何も無いところから、あらゆる物を生み出させました。神が「光よあれ」と言えば光が出来、「草花を芽生えさせよ」と言えば草花が生え、「生き物が生じよ」というと、あらゆる生き物がこの地に生み出されました。神様は、自分のことばを決して疑ったりはしません。神様は、それこそ信仰をもって、ことばによって世界を造られたのです。その神様が、私たちに「神ご自身の信仰」を贈り物として、私たちに与えてくださるのです。私たちが、神を信じるということ自体、神様のみわざであり、神様からの贈り物です。誰でも、聖霊すなわち神ご自身によらなければ、イエスを主と告白することはできないとあります。ですから、私たちが「信仰」を持つということ自体、人の力によるのではなく、神様からの恵みの賜物なのです。神を信じる者には、その「信仰」はすでに与えられているのです。

そしてイエス様は、信仰のサイズではなく、あなたにすでに与えられている「からし種ほどの信仰」の中にある力に、目を留めなさいと言っておられるのです。

(2)「生きた信仰であるか」が問われる

からし種ほどの信仰とは何でしょうか。それは第2に、その信仰が「生きた信仰であるか」が問われるということです。

「からし種」というのはとても小さいです。しかし、見た目は同じかもしれませんが、同じサイズの砂や砂利とは決定的に違う点があります。それは、その中にいのちが宿っているということです。「からし種ほどの信仰」というのは、「いのちがある信仰」ということが出来ます。からし種というのは、とても小さいけれど、生長するとどんな野菜よりも大きくなって木となり、鳥が巣を作るほどになります。そして私たちは、種を蒔けば、生長して大きな木となるということを、当たり前に信じる事ができます。それと同じように、「からし種ほどの信仰を持つ」というのは、信じたことが当然実現すると当たり前に信じる心の態度という事が出来るのではないでしょうか。

ではどのようにしたら、それが当たり前だと信じられるのでしょうか。どうしたら、私たちの信仰を「生きた信仰」とすることが出来るのでしょうか。ここでは、「生きた信仰」のために、私たちの出来ることを3つのポイントで考えてみたいと思います。

生きた信仰のために(1):神様の約束のことばを握りしめる

まず第1のポイントは、「神様の約束のことばを握りしめる」ということです。私たちの信仰は、単なるポジティブ・シンキングではなく、神様の約束のみことばに根差した物です。ですから、まず神様が私たちの人生に対して、どのような約束をしてくださっているのかということを知り、それを自分のものとしてしっかりと握りしめる必要があります。ローマ10:17にはこうあります。

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
ローマ人への手紙 10章17節

ここにあるように、私たちの信仰は、キリストについてのことば、すなわち聖書のみことばを聞くことから始まります。皆さん、聖書は神様からのラブレターです。聖書の中には、神様がどれほど私たちのことを愛しておられるのか、そしてそれゆえにどれほど素晴らしい計画をもっているのかということが書かれているのです。神様は、聖書の中でたくさんの素晴らしい約束をしてくださっています。でももし私たちが、せっかくもらったラブレターを読まなかったら、何の意味もありません。ですから、毎日少しずつ聖書を読んだり、礼拝でこの様にしてみことばに触れたり、小グループで聖書を学んだり、いろんな方法で、聖書のみことばに触れ続ける必要があるのです。神様のことばは、生きていて、力があります。みことばによって、私たちの信仰は養われ、強められ、生きたものとなります。どんな方法でも構わないです。ぜひ、神様のみことばに触れ続け、心が神様の約束で満たされ続ける方法を見つけていきましょう。

生きた信仰のために(2):明確に思い描いて祈る

第2のポイントは、「明確に思い描いて祈る」ということです。今、私たちの教会では、関連団体を通じて地域に仕える様々な働きを行なっています。でもそれらは、もちろん初めからそこにあった訳ではありません。今、ここに一つの画像を出していただきます。

これは、1998年のリーダーシップ研修会で話し合ってまとめた本郷台キリスト教会の将来像です。この時には、まだこのダイヤモンドチャペルも存在しませんでした。もちろん、野七里グラウンドやクリスタルチャペルもありません。でも、その当時の教会員が集まって、それぞれが見させられている地域のニーズを持ち寄っていった時、地域に仕える教会としての将来ビジョンをこの様に思い描いたのです。そして、このビジョンが共有された時、私たちは祈りました。具体的に思い描いて祈ったのです。するとどうでしょう。1999年、このダイヤモンドチャペルが与えられ、そこを皮切りに、保育、スポーツ、障害者、教育、福祉など様々な取り組みがスタートし、ここで描いたビジョンはほとんど実現したのです。

今、私たちには10×10というビジョンが与えられています。10年で10倍の祝福が注がれるというビジョンです。これは、人間の計画や努力によってできることではありません。でも、ぜひそれが実現した時のことを、明確に思い描いて祈って欲しいのです。思い描くのが難しいという人がいたら、ぜひ日本の10倍以上のクリスチャンがいる国に行って頂きたい、実際にそこで礼拝に参加してみて、その様子を目に焼き付けていただきたいのです。そしてそれは私たちのビジョンを広げ、私たちの信仰の助けになります。私たちが、それを明確に思い描くことが出来るなら、それは確実に実現するのです。マルコ11:24にはこの様にあります。

ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
マルコの福音書 11章24節

明確なビジョンを思い描くこと、そして信仰によってすでに得たと信じて祈るなら、その通りになると神様は約束しておられるのです。

皆さん、祈りには力があります。私たちは願い求めているものをまるで目の前に見ているかのように思い描いて祈り、そして確信が得られるまで祈り抜いていこうではありませんか。

生きた信仰のために(3):信じた通りに行動する

「生きた信仰」を持つための、第3のポイントは、「信じた通りに行動する」ということです。1859年、チャールズ・ブロンディンという綱渡りの達人が、ニューヨーク・タイムズに一本の広告を出しました。「ナイアガラの滝に一本の綱を通して、そこを渡る」高さは50m、長さは335mの細い綱です。

当日、約5000人の見物人が訪れ、彼は集まった観衆を前にして問いかけました。「私がこの綱を無事に渡って帰ってこられると信じる人は何人いますか?」観衆は拍手で彼を信じることを示しました。そして、彼は見事に綱の上を渡って帰ってきました。そして、彼はまた観衆に問います。

「今度は、私が無事、手押し一輪車を押して渡って帰ってこられると信じる人は何人いますか?」観衆はまたも拍手で彼を信じることを示しました。そして今回も彼は、細い綱の上を無事、手押し一輪車を押して帰ってきたのです。そして、彼はまた問います。

「私が誰か人を背負って、この綱を渡って帰ってこられると信じる人は何人いますか?」観衆はまたも拍手で彼を信じていることを示しました。手押し車を押して帰って来られたのだから、彼なら、人一人くらい背負って歩けるだろう、彼らはそう思ったのです。それを受けて、ブロンディンは、さらに続けて問いました。

「では、あなた方のうち、誰が私の背中に乗りますか?」これにはさすがに誰も応えませんでした。先ほどの5000人のうち、ほぼすべての人が彼を信じていると言ったにもかかわらず、彼の背中に乗りたいと答えた人は、誰もいなかったのです。しかし長い沈黙の後、たった一人だけ、5000人の観衆の中から名乗り出た人がいました。ブロンディンの親友のハリー・コルコードです。

そして、ブロンディンは親友のハリーを背中に担ぎ、見事ナイアガラの上に架かる綱を渡り終えたのです。さて私たちは、この5000人の観衆と、ブロンディンの親友ハリーのどちらに似ているでしょうか。5000人の観衆は、彼ならきっと出来るだろうと信じていました。でも実際に信じた様には行動しなかったのです。でも、親友のハリー・コルコードは違いました。彼を全面的に信じ、そして信じた通りに行動したのです。

私たちはどうでしょうか。神様に対して、私はあなたのことを信じますと言っていながら、実際には信じたように行動していないということはないでしょうか。本当に信じるというのは「行動」を伴うことなのです。何も、出来ないことを、盲信して行いなさいということではありません。何のトレーニングもなしに、私はこの綱を渡れると信じて渡っても、とても残念な結果になるでしょう。でも、出来ると信じることなしに、また信頼して行動に移すことなしに、決して結果を得ることはできないのです。せっかく、自分の手の中に「からし種」を持っていたとしても、実際にその種を蒔かなければ、収穫を得ることは出来ないのです。

私たちの信仰が、本当に「生きた信仰」となるためには、第1に「神様の約束を握り締め」、第2に「明確に思い描いて祈り」、第3に「信じた通りに行動する」必要があるのです。

さて、私たちは「キリストの心を心とする」というタイトルでこのメッセージシリーズを学んできましたが、最後に今年の標語のみことばに目を止めたいと思います。イザヤ61:1です。

神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。
イザヤ書 61章1節

今、神である主の霊が私たち一人ひとりの上にあります。神様は、私たち一人ひとりにキリストの心を与えてくださり、キリストの心とともに私たちを遣わしてくださるのです。どこに遣わされるのでしょうか。弱っている人、心の傷ついた人、問題のある所です。私たちはそこで共に涙し、とりなして祈り、イエス様の愛と憐れみが注がれるための管となることが出来るように、へりくだって仕えるのです。

そして、神様はあらゆる問題の中にあっても、必ず脱出の道を備え、将来と希望を与えてくださるということを信仰によって宣言し、この世界にイエス様を証ししていく使命が与えられているのです。主に信頼し、キリストの心とともに、信仰のステップを踏み出していくお互いでありたいと思います。

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