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2023年10月29日 愛が結ぶ教会(1)〜4つの愛〜
2023年10月29日 愛が結ぶ教会(1)〜4つの愛〜
コロサイ人への手紙 3章14節 佐藤賢二 牧師
今回から、新しく「愛が結ぶ教会」というメッセージシリーズに入っていきたいと思います。
皆さん、「愛が結ぶ教会」という表現を耳にしたことがあるでしょうか。ありますよね?言うまでもなく、これは本郷台キリスト教会のテーマであり、私たちの目指す教会のあり方を端的に表したものです。
ダイヤモンドチャペルの正面玄関を入ったところに、このようなパネルが設置してあるのをご存知でしょうか。
これが「愛が結ぶ教会」についてまとめたものです。ぜひ、機会があったら、じっくりと見ていただきたいと思います。
私たちの教会の歴史を簡単に振り返るとこのようになるかと思います。まず「愛が結ぶ教会」という土台があり、その上に、「ミッション3000」というビジョンが与えられました。これは、地域のために仕える働きを通して、教会がこの街にとって無視できない存在となるというものです。そして、さらにそれらの土台の上に、「10×10」というビジョンが与えられました。これは、この祝福が、単に1教会の働きにとどまるのではなく、日本全体が10倍の祝福を受けるというものです。
私たちはこのビジョンを受け取って、今10×10の実現のためのブレイクスルーを求めて祈っています。そして、そんな時だからこそ、もう一度「愛が結ぶ教会」という私たちの原点に立ち返る必要があると思わされたのです。ともに主に期待しつつ、主の御声に耳を傾けていきたいと思います。
1. ハンマー投げから学ぶ
さて、皆さん。突然ですが「ハンマー投げ」という競技をご存知でしょうか。いきなり何を、という感じもするかもしれませんが、「ハンマー投げ」とは、約7キログラムの金属球に、約1.2mの丈夫なピアノ線とグリップをつけたものを放り投げ、その飛距離を競う競技です。
実際に競技者がハンマーを投げる時には、通常3、4回まわってから手を離します。その瞬間、競技者の背筋には、何と400kg以上の負荷がかかるとのことなのです。つまり、あの重たい金属球をすごいスピードで遠くまで放り投げるためには、その中心にいる競技者が強靭な肉体を持っていないと、成り立たないスポーツであるということなんです。ハンマー投げと言えば、あの室伏選手を思い起こしますが、まさに強靭な肉体というのにピッタリですよね。彼の最高記録は84.86mで、いまだにアジア記録を保持しているのだそうです。
さて、なぜ投げる時に、それほどの負荷がかかるかというと、そこに強烈な「遠心力」が働いているからです。外へ外へと引っ張られる「遠心力」がかかると、それと同じ力の「求心力」、つまり中心に向かう力が必要になります。これはその中心の1点がブレなければそれで成立するのですが、ハンマー投げのように大きな負荷がかかる場合、軸をぶらさないでいるということは並大抵のことではありません。
「求心力」がなくなると「遠心力」も消滅します。ですから、この軸の部分にあたる競技者が、しっかりと支える力を持っていないと、結局大きな力を発揮することはできませんし、何よりも狙ったところにハンマーを投げることが出来ない訳です。ハンマー投げにおいて、最大限の力を発揮するためには、強い「遠心力」と、それを支える強い「求心力」の両方が必要になる訳です。
2. 突破力をもたらすもの
これは、私たちが現状を打破するブレイクスルー「突破力」を必要としている時、とても大きな示唆を与えてくれる考え方だと思うのです。
「突破力」とは、「遠心力」×「求心力」で表されると言います。この場合、「遠心力」とは、ビジョンに基づいて、外へ外へと広がっていく力のことです。そして「求心力」とは、内側に向かう力、すなわち私たちを「一致」させるものと言うことができると思います。
私たちの教会で考えてみると、ミッション3000や10×10というビジョンのもと、外へ外へと向かう「遠心力」には強烈なものがあると思います。今では、このビジョンを受け取り、立ち上がった一人ひとりによって保育、高齢者や障害者の福祉、スポーツ、教育、学童、ボランティアや避難民支援など様々な働きが始められています。そしてそれぞれが別の法人格を取得し、片手間ではない、地域にコミットした働きとしてそれらに本気で取り組んでくださっているのです。
その中心には、宗教法人としての本郷台キリスト教会があります。でも、従来の「教会」という枠を飛び出して、これらの働き全体を「広い意味での教会」と捉えて、この地域に神様の愛が届けられるようにと、連携しながら熱心に取り組んでいます。
これだけの強い「遠心力」があるのですから、当然そこにはそれを支えるだけの「求心力」が必要になります。では、何がこの「求心力」をもたらすのでしょうか。
先ほど申し上げたように、「求心力」に必要なのは、「一致」です。では、何が一致をもたらすのかと言うと、これは「組織としての一貫性」だと言うのです。つまり、軸がブレないということです。私たちは、様々なビジョンが与えられて、どんどん新しいことにチャレンジし、私たちの組織自体のあり方もどんどん変化しています。しかし、根本的なところにある「私たちは、どんな教会なのか」という部分にブレがあると、「求心力」は弱くなってしまうのです。
では、これから先、どんなに私たちの教会が大きくなり、その働きがさらに多岐に渡っていったとしても、ブレずにいるために必要な、一貫性をもたらすものとは何でしょうか。それが、「愛が結ぶ教会」という「教会としてのあり方」だと思うのです。
これは、今も私たちの教会の中心にあるものです。この点において一致していたからこそ、ミッション3000というビジョンを受け取った時も、安心して外へと広がっていくことが出来たのだと思います。今、私たちに必要なのは、この「広い意味での教会」全体が、「愛が結ぶ教会」として機能していくようになることだと思います。そのようにして、強固な求心力が保たれるなら、私たちはさらに安心して、外に向けて力を発揮していくことが出来るようになります。
皆さん。「教会」とは、私たち一人ひとりの事です。昔から教会にいる方々も、新しく教会に加えられたという方々も、また広がる働きの中におられる方々も、みんなでこの「愛が結ぶ教会」を建てあげていくなら、神様はそれを良しとしてくださり、10×10に向けてのブレイクスルーを与えてくださると思うのです。
3. 愛が結ぶ教会
それでは、今日のみことばをお読みいたします。コロサイ人への手紙3:14です。
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。
コロサイ人への手紙 3章14節
「愛は結びの帯として完全です」とあります。とても素敵な表現です。ここに「これらすべての上に」とありますが、「これらすべて」とは何のことでしょうか。私たちは何の上に、愛を着けるようにと命じられているのでしょうか。直前のコロサイ3:12-13を見てみましょう。
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
コロサイ人への手紙 3章12~13節
教会というのは、実際には普通の人間の集まりです。神に選ばれたと言っても、別に完璧な人や、人間的によく出来た人が集まっている訳ではありません。もちろん、いい人はたくさんいます。でも、みんな弱さがあり、互いに腹を立ててしまったり、いざこざがあったりするのは当然なのです。それが前提なんです。でもイエス様は、そんな私たちを愛し、赦してくださいました。だからこそ、私たちは、この主の姿にならい、互いに忍耐し合い、互いに赦し合うようにと勧められているのです。そして、それらすべての上に「愛を着ける」ということ。第1ペテロ4:8にはこのようにあります。
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
ペテロの手紙 第一 4章8節
ここで、愛は多くの罪をおおうものだと言われています。しかしそれは、罪が見逃されるとか、有耶無耶にされるということではありません。そうではなく、イエス様が私の罪のために十字架で血を流してくださったということを、深く心に刻んでいくということです。だからこそ、私も赦された者として、悔い改め、生きていく方向を変えて歩んでいく。だからこそ、互いに赦し合い、互いに愛し合う者となる。それが、神に選ばれた者たち、すなわち教会の歩みなのです。第1ヨハネ3:16にはこうあります。
キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
ヨハネの手紙 第一 3章16節
私たちは、イエス様の十字架によってこの愛を知りました。だから私たちも、今度は周りの人たちに対して、私たち自身のいのちを用いて、その愛を表していくべきなのです。
「愛が結ぶ教会」という時、それはまず第一に、イエス様の十字架の愛が中心にあるということです。それこそが、私たちに一致をもたらすものであり、それなしでは、私たちはただの罪人の集まりに過ぎません。ですから、そのイエス様の愛に基づいて教会を建てあげていくという事が、まず大前提にあるのです。
4. 4つの愛
そして、そのイエス様の愛を受け取った私たちが、実践するのが「4つの愛」です。それは、神を愛する、人を愛する、地域を愛する、世界を愛するというものです。今日はここで、その1つ1つを取り上げて見ていきたいと思います。
(1)神を愛する
まず第1に、「神を愛する」ということです。神を愛するとは、神を礼拝する者となるということです。ローマ12:1をお読みします。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
ローマ人への手紙 12章1節
私たちは、神様に愛されている者として、自分自身のからだを、聖なる生きたささげ物として捧げることが求められています。そして、それこそが、私たちの捧げるべき礼拝だと言うのです。ですから、私たちが礼拝者として生きるということは、必然的に「自分自身を捧げること」つまり「献身」が問われるということです。
「神を愛する」とは、ひとことで言うと、礼拝を通して「神を神としてあがめる」ということです。私たちは、礼拝のために、1週間のうちの大切な時間を取り分けて、集まって礼拝を捧げます。どうしてもオンラインでの礼拝になってしまうという方も、日曜日はどうしてもこられないという方も、神様のために、特別に時間を取り分けて、ともに礼拝を捧げるということを大切にしていく必要があります。
また、その時間だけ礼拝を捧げれば良いということではありません。私たちは、どんな時でも、どんな場所でも、礼拝者として生きることが求められています。ですから、どんな時でも神様の栄光を表していくことが出来るように、意識して歩んでいきたいと思います。
(2)人を愛する
次に、「人を愛する」ということについて見てみましょう。ルカ15:4をお読みします。
あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
ルカの福音書 15章4節
イエス様は、99匹の羊を野に残してでも1匹を捜し求めるお方です。そして、他でもない私自身が、そのようにして主に捜し求められた一人であることを、まず心に刻みたいと思うのです。
「人を愛する」とは、「一人を捜し求める」ことです。私の身近なところにいる、一人の人の救いのために。大切な家族のために。関わったあの人のために、自分自身を捧げていくこと。そしてまた、救われたあの一人が、確実に主にあって成長していくために、労していくことを求めていきたいと思います。
牧会ファミリーは、そのための大切な受け皿です。今、あなたが属している牧会ファミリーでは、「一人を捜し求める」働きが出来ているでしょうか。あるいは、自分が牧会ファミリーに所属する必要があるという人もいるでしょう。それぞれ、必要な一歩を踏み出したいと思います。
(3)地域を愛する
3番目は、「地域を愛する」ということです。マタイ9:35-36をお読みします。
それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
マタイの福音書 9章35~36節
イエス様は、「すべての町や村を巡って」彼らを憐れまれたとあります。イエス様は、実際に人々の生活している現場に出て行って、その歩みをご覧になり、人々のすべての感情をともに受けてくださったのです。ですから、私たちの教会は、絶対にこの街から切り離された存在であってはいけません。この街とともに歩み、そのようにしてイエス様の憐れみを届けて行かなければならないのです。
「地域を愛する」とは、「地域とともに生きる」ということです。地域の人々と、ともに喜び、ともに痛み涙すること。そして、具体的なニーズに、私たちの精一杯の行いをもって応えていくということです。
ミッション3000で生み出された様々な働きによって、私たちはこのことに取り組んでいます。しかし、これはそのような専門的な働きだけでなく、私たち一人ひとりがいつも意識していくべきことだという事を、常に心に留めていきたいと思います。
(4)世界を愛する
最後に「世界を愛する」ということです。マルコ16:15をお読みします。
それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
マルコの福音書 16章15節
全世界とはどこでしょうか?もちろん、海外など私たちから地理的に遠い場所も指すでしょう。でも私たちが日常的に生活している中にあっても、全く接点のない世界があるということにも気がついていく必要があると思います。
例えば、私はエスペランサに関わるようになって、そこに「スポーツの世界」という、私が過ごしていたのとは違う世界があるのだということを意識するようになりました。その他にも様々な分野での世界が、私たちの身の回りにはたくさん重なり合うようにして存在しているのです。でも私たちは、普通、自分の知っている世界でのみ生活するようになっているのです。
「世界を愛する」とは、「全世界に出ていく」という事です。それは、まずそういう異なった世界に関心を持ち、理解を深めるという所からスタートすると思います。それは、飢餓や貧困で困っている国に対して意識を向ける事かもしれませんし、戦争で苦しんでいる国のことについて知り、祈ることかもしれません。何ができるかは分かりませんが、少なくとも私たちが無関心でいる限り、それ以上神様の愛は広がっていかないのです。
私たちは、世界に50人の宣教師を送り出すというビジョンをもっています。短期宣教に遣わされるということも、大切な経験です。もし神様から志が与えられたならば、福音の架け橋となることができる行動に一歩踏み出していただきたいと思います。
5. 何とかして、何人かでも救うため
さて、ここまで「4つの愛」について一つひとつ駆け足で見てきました。ぜひ、この「4つの愛」をそれぞれ主の前で振り返りつつ、もう一度そこにしっかりと立って歩めるようにしていって頂きたいと思います。
しかし、ことばでこれを伝えるのは簡単ですが、それを実際に実践していくというのは決して簡単ではありません。でも、私たちの教会を建てあげていった先輩たちは、それを喜んで行なっていたように思うのです。そこには、やはり、この「愛が結ぶ教会」という教会のあり方を提唱した、池田博先生の模範があったからこそ、伝わって行ったのだと思わされるのです。
博先生は、この教会に赴任して5年ほど立った時、伝道牧会の行き詰まりから思い悩み、気がついた時には信徒を目の前にして「牧師を辞めさせていただきます」とまで宣言していたと言います。しかし、その経験を通して砕かれた先生は、牧師らしくなければといった自分の殻を破ることができ、「福音のためならどんなことでもしたい、どんなことでもできる」という考えに変えられていったと言います。そこで始めたのが、あの「ちり紙交換」です。
本郷台キリスト教会が、今「地域に仕える教会」としてここまで成長することが出来たのは、博先生のスピリットが土台となっているからです。自我が砕かれ、与えられている自由を用いて、へりくだって人々に仕える。それこそが、私たちの原点であり、それこそが「愛が結ぶ教会」の姿だと思うのです。
今、私たちの教会は、地域への広がりとともに、さらに次の世代へとバトンを受け渡して行こうとしています。今度は、私たちが、同じ姿勢をもって仕え、同じスピリットを流していかなければならないと思うのです。
今、10×10の実現を前に、私たちに問われているのは、私たち自身がそこを担って行こうという覚悟なのではないでしょうか。一人ひとりがそのような意識を持つことで、確実に「求心力」は強められます。そしてそれが「遠心力」と掛け合わされ、「突破力」ブレイクスルーへとつながっていくのです。ともに「愛が結ぶ教会」を、建てあげていくものでありたいと思います。お祈りいたします。