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2023年11月19日 10×10ビジョン礼拝 愛が結ぶ教会(3)〜この土の器をも〜
2023年11月19日 10×10ビジョン礼拝 愛が結ぶ教会(3)〜この土の器をも〜
コリント人への手紙 第二 4章7節 佐藤賢二 牧師
案内にあった通り、今日は10×10ビジョン礼拝です。10×10ビジョン実現の年を目の前にして、私たちがこの一年、どのようにして自分自身をささげ、仕えていくことが出来るのか、ともに主の前に出て、ともに祈り、考え、そして応答していく時としていきたいと思います。
本日のメッセージは、「愛が結ぶ教会」というシリーズの3回目、これで最終回になりますが、タイトルを「この土の器をも」と付けさせて頂きました。「この土の器をも」と聞いて、ピンと来る方もおられると思いますが、これは日本を代表するクリスチャン作家、三浦綾子さんの自伝小説『この土の器をも』から取らせて頂きました。
1. この土の器をも
三浦綾子さんは戦前、小学校の教師として7年間勤務していました。しかし、やがて肺結核と脊椎カリエスという重い病気を発症してしまい、13年間の闘病生活を余儀なくされることになるのです。この苦しみの中、病床でキリスト教に目覚めて洗礼を受け、三浦光世さんと結婚。その後昭和39年、朝日新聞社の募集した1000万円懸賞小説に『氷点』が入選し、斬新な新聞小説として一躍脚光を浴びることになりました。その後、三浦綾子さんは、『塩狩峠』、『道ありき』三部作を初め、深い信仰に根差した小説やエッセイをたくさん執筆し、多くの人たちに慰めと希望と励ましを与えて来ました。そして、この『道ありき』三部作の、第二部として発表されたのが『この土の器をも』という作品です。
『この土の器をも』では、三浦さんが結婚して、1000万円懸賞小説に1位入賞した時のことが書かれています。その中で、夫の光世さんが、入賞の知らせを聞いた綾子さんに対して、このように語るくだりがあるのです。
綾子、神は、わたしたちが偉いから使ってくださるのではないのだよ。
聖書にあるとおり、吾々は土から作られた土の器にすぎない。
この土の器をも、神が用いようとし給う時は、必ず用いてくださる。
自分が土の器であることを、今後決して忘れないように。
非常に印象的な言葉です。誰よりも綾子さんを愛し、誰よりも綾子さんの才能を見抜いて認めていた光世さんです。そんな光世さんが、綾子さんに対して「われわれは土から作られた土の器にすぎない。自分が土の器であることを、今後決して忘れないように」と、語っているのです。それは、単に「調子に乗るな」「傲慢になるな」という事ではなく、「私たちは神様の前にどの様な存在なのか」という事を、愛をもって正しく言い表した、味わいのある言葉だなと思うのです。
皆さん、私たちはある意味、本当に土の器に過ぎません。創世記2:7にはこのように書かれています。
神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
創世記 2章7節
ここにあるように、私たちは、大地のちり、つまり「ただの土くれ」によって形造られた存在に過ぎません。これは、神様が実際に粘土のように土をこねて私たちを造ったという事ではなく、私たちの肉体の成分は、この大地の成分となんら変わりないという事です。ですから、私たちはこの肉体が朽ちたら土に帰るのです。
でも、そんな「土の器」に過ぎない私たちですが、神様は私たち人間に特別に目をとめ、特別な使命と計画を与えてくださいました。「その鼻にいのちの息を吹き込み、それで人は生きる者となった」とあります。これは他の動物にはない、私たち人間についてだけ書かれている記述です。そしてこの「いのちの息」とは、神様の霊のことです。これは、私たちが霊的な存在であり、神様との関係の中に生きる者であるということを表しています。そして人間は、この地上を正しく治め、この地に神様の御心が成し遂げられるために仕える者としての使命を与えられたのです。でも、初めの人アダムとエバは、サタンに誘惑され、自分自身が神のようになろうとして罪を犯し、神様との正しい関係を失ってしまいました。それ以来、私たち人類は、神様から切り離され、自分自身が何者であるのかということすらも見失ってしまったんです。
皆さんは、「あなたは土の器に過ぎません」と言われて、どのように感じるでしょうか。周りには、様々な器があります。木の器もあれば、銀の器も、金の器もある。でも、その中でも「土の器」というのは、不恰好で、傷だらけで、壊れやすく、あまり大切なことには使われない、そんな印象があります。そんな中で、「あなたは土の器に過ぎない」と言われると、「ああ、自分には価値がないのかな」と感じてしまうこともあるのではないでしょうか。「私はもっと見栄えの良い器が良かった。もっと丈夫でしっかりした器が良かった。それが、よりによって土の器なんて。」そう思ってもおかしくないと思うのです。
でも、皆さん。それこそが、サタンの嘘であり、罠なのです。サタンは言います。「お前なんて、価値がない。神は、お前のことなんか、本当は愛してはいない。お前は神に従って生きるのではなく、自分自身で善悪の基準を決めて生きればいい。それこそが自由だ。」でも、そうやって自由になれると思って神様から離れた結果、人間は自分自身を見失い、本当の自由も奪われていってしまうのです。
三浦光世さんが、綾子さんに、「われわれは土から作られた土の器にすぎない。」と言ったのは、私たちに価値がないからではなく、むしろその逆です。「神は、わたしたちが偉いから使ってくださるのではない。この土の器をも、神が用いようとし給う時は、必ず用いてくださる。」これは、神様への深い信頼から出た言葉です。
「神が用いようとし給う時は、必ず用いてくださる。」だから私たちも、「この土の器をも」用いてくださる神様に信頼して、自分自身をおささげしていきたいと思うのです。
第2コリント4:5-7にはこの様にあります。
私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
コリント人への手紙 第二 4章5~7節
ここに「私たちは、この宝を土の器に入れています」と書かれています。私たち自身は、土の器に過ぎないのだけれども、私たちの内側には素晴らしい「宝」があります。それは、力強い神様ご自身が、私たちの心を照らしてくださっているという事実です。皆さん、この天地万物を造られた神様は、「光よあれ」と言って、暗闇の中に光を輝かせられました。その同じ神様が、同じ権威をもって、私たちの心の暗闇に向かって「光よあれ」と声をかけてくださったということなのです。私たちにとってのその光、それはイエス・キリストご自身です。私たちは、イエス・キリストという素晴らしい光を頂いて、この土の器に入れているのです。そして、この測り知れない力が神のものであって、私たち自身から出たものではないことが、明らかになるという目的のためには、むしろ土の器が最適だと言っているのです。
2. 私たちの存在価値
教会は、そんな「土の器」である一人ひとりが、最高に輝ける場所でありたいと思います。つまり、私たち誰もがが、本当の意味で自分の存在価値を実感し、造られた目的に従って、その使命を全うする事ができる場所でありたいと思うのです。教会に来れば、私は本来の自分を取り戻し、本当に自分らしく歩むことが出来る。そのように多くの人が実感できたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。
ミッション3000、10×10が実現した時には、今教会にいる私たちだけでなく、今まで全く教会に来たことがない方々も、たくさんここに集うようになるんです。私たちは「愛が結ぶ教会」として、そのような方々、お一人おひとりが、神様にあって「自分の存在価値」を見出し、本当の意味で充実した人生を歩むことが出来るようにと心から願います。
皆さん、私たちが「自分の存在価値」を実感できるのは、どのような時でしょうか。
少し家内に聞いてみたんですが、「お誕生日に、みんなにおめでとう!って言ってもらえる時」だと言っていました。確かに嬉しいですよね。ぜひ皆さん、誕生日にはおめでとうって声をかけてあげてください。
私は、この「自分の存在価値」を実感できるときというものには、2種類あると思うのです。
(1)愛されているとき
1つ目は、「愛されているとき」、「愛されている」と感じるときです。私たちは、誰かに愛されていることが分かると、生きていくのが嬉しくなり、自分には価値があると感じられるようになります。それゆえに多くの人が、愛されることを求めて、一生懸命自分磨きをして、自分を愛してくれる人との出会いを求めているのです。
でも、残念ながら、人の愛は不完全です。そして条件付きです。ですから、そのような愛を追い求める生き方では、心のどこかでは、いつか自分は愛されなくなるのではないかという不安や恐れがつきまとってしまうのです。そして結局のところ、いつまでたってもその必要は満たされることがなく、その不安を埋めるためにまた一生懸命頑張るというサイクルになってしまうのです。
皆さん。私たちには、どんな時でも変わることのない、無条件の愛が必要なんです。神様は私たちにこのように声をかけ続けてくださっています。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
イザヤ書 43章4節
そして、ことばだけではなく、その愛が真実であることを、行動をもって表してくださいました。天地万物を造られた神ご自身が私たちと同じ人の姿をとって、この地上に来てくださった。そして、私の罪の身代わりとして十字架にかかって死んでくださった。ここに、真実の愛の姿が示されたのです。ですから、私たちは、もう、愛されるために何かをする必要はないのです。ただ、この神様の愛の贈り物を、信仰をもって受け取り、愛されている者として生きることを決意するだけなのです。
でも、私たちには様々な傷があり、すぐにはこの神様の愛を実感できないこともあります。ですから、そのような方々にも神様の愛を届けるために、私たちも精一杯、隣人を愛し、一人ひとりが神様の愛と出会えるように祈りつつ仕えさせて頂くのです。
(2)誰かの役に立っているとき
でも私たちは、ただ一方的に愛されているだけでは、何か物足りないと感じるのも事実ではないでしょうか。心理学者として世界的に有名なアドラーは、「自分が他者にとって役に立っている、貢献していると感じられた時、自分の価値を感じることができる」と言っています。
私たちが、自分の存在価値を実感できる2つ目のこと、それは「誰かの役に立っているとき」です。これは、聖書で語られていることとも合致しています。エペソ2:8-10を見てみましょう。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
エペソ人への手紙 2章8~10節
私たちは、何かをすることによって愛されるわけではありません。私たちは、ただ信仰によって救われるのです。ですから、愛されるために、また救われるために何かをするというのではありません。しかし私たちは、本来神の作品であって、良い行いをするために造られた存在なのです。私たちは、愛されるだけのために生まれたのではありません。愛されている者として、喜びをもって良い行いに歩むようにと造られたんです。ですから私たちが、本来造られた目的に沿って、良い行いに歩む時、すなわち誰かの役に立っている時、私たちは自分の存在意義を感じることが出来る様になるのです。
「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」とあります。神様は、一人ひとりに特別な計画を持っておられて、そのために必要な賜物や能力を備えてくださっているのです。
3. 賜物を用いる
今日は、賜物そのものについて細かく見ることはしません。しかしここでは、賜物をどのように用いていくべきなのかということについて考えてみたいと思います。第1ペテロ4:10にはこのようにあります。
それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
ペテロの手紙 第一 4章10節
ここに「その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」とあります。
(1)賜物は用いなければならない
まず第一に、賜物は用いなければ、意味がありません。イエス様は、タラントの例え話の中で、5タラント、2タラントを預けたしもべたちが、それらを用いて倍にしたのをみて、主人は「良い忠実なしもべだ」と言ったと書いています。一方、1タラント預かって、それを地に埋めて無くさないようにしていただけのしもべに対しては、「悪い、怠け者のしもべだ」と言って激しく怒られました。賜物は、用いなければ意味がないのです。
私たちは、まず自分に賜物として何が与えられているのかという事を見つけなければなりません。そしてそれが分かったならば、その賜物を磨き、正しく用いていく必要があるのです。あなたの賜物を用いる場所はたくさんあります。ビジョン礼拝の応答用紙の中にも、さまざまな奉仕が書かれていますが、ぜひ何かに応答して頂きたいと思います。ひょっとしたら、私の奉仕なんて必要ないと思っておられる方いるかも知れません。でも、そうではありません。これは、そこに人が足りないからということではなく、あなたが用いられることを通して、神様の御業が表されるということなのです。ですから、何に応答すべきなのか、よく祈って考えて頂きたいと思います。
(2)賜物は互いに仕え合うために用いる
第二に、賜物は互いに仕え合うために用いるということです。あなたの賜物は、互いに仕え合い、他者の益となるようにと神様が与えてくださったものです。愛されるためや、自己実現のためではないのです。先ほどのみことばに続けて、この様に書かれています。
語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。
ペテロの手紙 第一 4章11節
ここにあるように、私たちが賜物を用いる目的は、他者に仕えることを通してイエス・キリストが証しされ、父なる神があがめられるためなのです。ですから、私たちは、絶えず土の器としての立場をわきまえつつ、互いに仕え合うために用いていく必要があるのです。
私たちは、今10×10ビジョン礼拝にあたって、主の前に応答をしようとしています。
あなたに与えられている賜物は何でしょうか。
神様は、それをどこでどの様に用いることを望んでおられるのでしょうか。
あなたはそれを通して、どのように神に仕え、人に仕えることが出来るでしょうか。
ともに、主に聞いていきたいと思います。
4. 陶器師の手の中で
さて、最後にもう一つのことをお話ししたいと思います。それは、陶器師なる神様についてです。私たちが「土の器」だという時、その土の器をつくってくださった方が、どんな思いで私たちのことを見ているのか、ということを見てみたいと思います。エレミヤ18:1-6をお読みいたします。
主からエレミヤに、このようなことばがあった。「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。
それから、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──主のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。
エレミヤ書 18章1~6節
私は、いつもこの最後の部分、「わたしがこの陶器師の様に、あなたがたにすることはできないだろうか」という問いかけに、神様の愛と温かさを感じるのです。神様は、私たちのことを、心から愛し、この地上で、最も輝いて歩めるようにと心を砕いてくださっています。そして、どんなことがあっても、神様がなさるすべての事に信頼して欲しいと願っておられるのです。
神様は時々、私たちの人生を粉々にするかのような出来事を許されることがあります。そして、多くの場合、その本当の理由は分からないのです。そのような経験を通して、ある時は、私たちがもっと輝くことが出来るようにと、もっと見栄えの良い土の器に作り替えていただく事もあるでしょう。しかし、またある時は、ただ私たちが砕かれることを通して、神様の栄光を表すようにと、それをそのままにしておかれることもあるのです。そして、気がついた時には、むしろその砕かれた箇所から、神様の光がこぼれ、輝くようになるのです。
ですから、「砕かれる」という経験を恐れないでください。今、まさに痛みの中にあるという方もおられると思います。どうか、どんな状況の中にあったとしても、神様は真実なお方であるということを忘れないでください。たとえ自分の望むような事態にならなかったとしても、私たちはどんな時でも、神様の御手の中にあるのです。主は砕かれたあなたを通して、神様の栄光を表してくださるお方なのです。
私たちは、「土の器に過ぎない」存在です。しかし、そこに神様との揺るがない信頼関係があるならば、それが最高の祝福であるということが分かるのです。
教会は、土の器である私たち一人ひとりが、最高に輝くことが出来る場所であるべきです。主に信頼して、ともに主に、自分自身をおささげしていきたいと思います。お祈りをいたします。