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2023年12月10日 クリスマスの奇跡② 〜ヨセフの物語〜
2023年12月10日 アドベント第2週 クリスマスの奇跡②〜ヨセフの物語〜
マタイの福音書 1章18~25節 佐藤賢二 牧師
先週から、私たちは「クリスマスの奇跡」というテーマでみことばを学んでいます。前回は「マリアの物語」と題して、あの「受胎告知」の場面から神様の「恵み」について考える時を持ちました。今日は第2回目として、「ヨセフの物語」に焦点を合わせてみたいと思います。
皆さん、よくご存知だと思いますが、私には三人の娘がいます。実は第1子が生まれる前、私は家内によくこんな事を言っていたんです。
「出来ることなら、自分が妊娠して、お腹を痛めて赤ちゃんを産みたい」(笑)
ちょっとおかしいんじゃないかと思うかもしれませんが、気持ちとしては本当にそうだったんです。もちろんそこには、自分が家内の身代わりとなって痛い思いを引き受けてあげたいという、優しい思いやりの気持ちもなくはなかったんですが、それが理由ではありません。どちらかというと、子をお腹に宿し、だんだんとお腹が大きくなって自分の体にも生活にも変化が生まれ、陣痛・出産の苦しみを経て、新しい命と向き合うことが出来るということが、羨ましいと感じたんです。なぜなら、それだけの期間をお腹の赤ちゃんと一心同体で過ごしたら、生まれて来る子供に対しての愛着もすごいだろうなと思ったんです。だから、どちらかと言うと、妬みなんです。まあ、お腹を痛めて赤ちゃんを産んだからと言って、必ずしもみんながみんなすぐに親としての自覚が持てる訳ではないと言うことも分かります。ただ、私はリアルにちゃんと親としての自覚が持てるか、自信がなかったのかも知れません。
だから、せめて、どうしても出産には立会いたいと思っていました。でも、家内は里帰り出産で大阪にいたためタイミングが合わず、残念ながら立ち会うことが出来なかったんです。ショックでした。そして、急いで新幹線に乗って現地に向かおうとしている中、生まれたばかりの娘の写真が送られてきました。でもその写真は、なんだか自分とは全然似ていないように思えたんです。ますます不安になりました。でも、その生まれたばかりの赤ちゃんと対面した時、そして実際にこの腕に娘を抱っこした時に、神様は、ああやっぱりこの子は自分の子なんだって思えるようにしてくれました。そればかりか、神様は私の思いに配慮してくださったのか、その後娘はびっくりするほど私に似た姿になっていったんです。ちなみに、2番目と3番目の娘の時は、助産師を呼んで自宅で出産したんです。ですから、立ち会うことが出来たどころか、そのすべてのプロセスを共有することができて、とっても感謝でした。
ちょっと変な話をしてしまいましたが、もし共感できるという変わった男性がおられたら、ぜひ今度語り合わせていただきたいと思います。
話を本題に戻しますが、女性にとっては、妊娠・出産というのは、すべて自分の身体に起こることですから、嫌でも実感として感じることが出来るものだと思うのです。でも、男性にはそれがありません。それゆえに、別の戦いがあるということなのです。マリアは御使いのお告げに、はじめは驚きました。でも実際に自分のお腹の中で子供が成長していくのを実感しながら、確かにこれは聖霊による子なのだ、神のことばは真実なんだという思いを深めていくとが出来たと思うのです。自分が潔白であるということは、マリア自身が一番よく分かっていました。ですから、これが神様のわざ以外あり得ないということは、少なくとも彼女にとっては疑いようのないことだったからです。でも、ヨセフはどうでしょうか。ヨセフはそうではありません。マリアの言うことを信じたくても、「ひょっとしたら・・・」と、その疑いを消し去ることは難しかったのではないかと想像するのです。そして、マリアのお腹が大きくなるのを見るにつれて、そんな葛藤も大きくなっていったのではないかと思います。
今日は、そんなヨセフの姿から、ともに学んでいきたいと思います。それでは、今日の聖書箇所をお読みいたします。マタイの福音書1:18-25です。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。
マタイの福音書 1章18~25節
ここは、「ヨセフへの受胎告知」とも言われる場面です。マリアに御使いが現れてくださったのと同じように、しばらく後になって、ヨセフの元にも御使いがやってきて、同じことを告げるのです。探してみると、ちゃんと「ヨセフへの受胎告知」をモチーフとした絵画もありましたので、ここで一つ紹介したいと思います。
これは、フィリップ・ド・シャンパーニュという方が書いた「ヨセフの夢」というタイトルの絵です。マリアからの告白を受け、思い悩み、眠っているヨセフの元に、御使いが夢で現れたという場面です。ヨセフは大工でしたので、足元には大工道具が描かれています。また、ここにはマリアも描かれていて、御使いはマリアの方と、天の方を指差し、お腹の子は、聖霊による子なのだということ示している様子がわかります。ここでヨセフは、マリアと同じように、生まれてくる子が救い主なのだと告げられます。そしてヨセフは、この夢を見た後、マリアを正式に妻として迎え入れ、子を産むまでは彼女を知ることがなかったと書かれているのです。
今日は、この箇所から私が示されたことを3つのポイントで見ていきたいと思います。
1. 正しい人の悩み
第1のポイントは、「正しい人の悩み」ということです。マタイ1:19には、このように書かれています。
夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
マタイの福音書 1章19節
ここに「夫のヨセフは正しい人」であったとあります。皆さん、「正しい人」とはどういう人のことを言うのでしょうか。この時代、イスラエルの人たちにとっての「正しさ」とは、すべての命令と掟を、「落ち度なく」、「非難されることなく」守ることでした。ですから、間違ったことを何事もなかったかのように受け入れることはできません。ゆえにヨセフも、マリアの妊娠を無視して、有耶無耶にすることは出来なかったんです。
でもヨセフは、ただ単に律法的な正しさのみを求めて、それで良しとするような人ではありませんでした。人の罪を断罪して、形式的に律法を守ってさえいれば満足するような、冷たい人ではなかったんです。もし、そうだったら、確実にマリアを姦淫の罪で訴えていたと思うのです。
イエス様は、自分を「正しい」とするために、形式的に律法を守っている人たちを、「わざわいだ、偽善の律法学者」と痛烈に批判しています。形式的な「正しさ」の追求は、いつしか神様の御心から遠く離れていってしまう危険性があるのです。そこに、神様が愛されている「人」がいるという視点が抜け落ちているからです。実際に、律法学者たちは、姦淫の現場でとらえられた女をイエス様の前に引きずり出して、「モーセの律法によれば、この女は石打ちにするようにと命じられていますが、あなたは何と言いますか」とイエス様に挑戦したんです。それは、イエス様が愛と赦しとを述べていたからです。そして、それをイエス様を訴える口実としようとしたのです。そんな彼らには、この目の前にいる女の人の人格など、これっぽっちも目に入っていませんでした。
では、私たちが追求すべき、本当の正しさとは、何でしょうか。それは「神の義」と「神の愛」の狭間で、自分も心砕かれて、真の正しさ、神の御心を求めて苦しむことなのではないかと思うのです。詩篇34には、このように書かれています。
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ
霊の砕かれた者を救われる。
正しい人には苦しみが多い。
しかし 主はそのすべてから救い出してくださる。
詩篇 34篇18~19節
ヨセフは、悩んだ挙句に「マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」とあります。ヨセフがそう思ったのは、自分が恥をかくからでも、自分の家に傷がつくからでもありません。マリアがさらし者になることがないように、マリアが姦淫の罪に問われることがないように、ただマリアへの愛のゆえに、そう思ったのです。そこには、ヨセフ自身が被る犠牲もありましたが、それが、ヨセフの精一杯の正しさであり、愛だったと思うのです。
「正しさ」というのは、いつも割り切れるものではありません。自分の側の正義や正しさばかりを主張していては、争いはいつまでたってもなくなりません。本当の正しさと言うのは、義と愛との間で、自ら苦しむものだと思うのです。
それこそが「平和の君」と呼ばれるイエス様の姿です。イエス様は、人の罪を、どうでも良いこととして見逃すことは出来ませんでした。でもだからといって、簡単に断罪して裁き、人が滅んでいくのを望まなかったんです。そこでイエス様は、「神のあり方を捨てられないとは考えないで」、人として生まれてくださいました。そして、人の罪をその身に背負い、十字架にかかって死んでくださったのです。それがイエス様です。
そこに愛があるからこそ、正しい人は悩みます。そしてそれは、イエス様の姿を反映しているのです。
2. 人に委ねられた預言
第2番目のポイントは、「人に委ねられた預言」ということです。聖書の預言は、必ず実現します。でも、それがどのようにして実現するのか、私たちには見当もつかないようなこともあります。そして、時にはその預言の実現が、実は私たちの選択にかかっているということもあるのです。私たちには自由意志が与えられていますが、その背後にも神様がおられる。そういう奇跡を私たちは、体験するのです。マタイ1:22-23を見てみましょう。
このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
マタイの福音書 1章22~23節
これはイザヤ書7章のみことばの引用です。「処女が身ごもっている」ということは、通常はあり得ないことですが、これは「救い主が誕生する」ということのしるしでした。ですから、マリアとヨセフがこれを受け入れて、無事にその子供を産むというのは、この預言の成就に不可欠だった訳です。でも、ヨセフがマリアを受け入れて結婚するかどうかということには、もう一つ、大切な預言の成就がかかっていたのです。イザヤ9:6-7をお読みします。
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
イザヤ書 9章6~7節
ここには色々なことが書かれていますが、注目したいのは、こうして生まれるみどりごが、「ダビデの王座に就く」ということです。他の預言も併せてみると、救い主は、ダビデの子として、すなわちダビデの家系に生まれるのだということが、分かるのです。
マタイの福音書の初めの部分には、イエス・キリストの系図が書かれています。そして、その1章1節には、確かにイエス・キリストが約束された救い主であることを強調するために、このように書かれています。
アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。
マタイの福音書 1章1節
そして、ずらっといろんな人の名前が羅列された後、1章16節にはこのように書かれているのです。
ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。
マタイの福音書 1章16節
皆さん。イエス・キリストは、ヨセフとは直接の血のつながりはありませんが、ヨセフの子として生まれてこなければならなかった理由がここにあるのです。ヨセフが、マリアを正式に自分の子として迎え入れたことによって、この系図が不思議な形で繋がったのです。
預言の成就の多くの部分は、私たちの自由意志に委ねられています。もし、ヨセフがマリアと結婚することを選ばなくても、マリアは男の子を産むことはできたでしょう。それだけでも「処女が身ごもっている」という、預言は成就します。でも、それだけでは、救い主が「ダビデの子孫として生まれる」という預言は成就しません。ですから、ヨセフの決断は、神のことばの成就に不可欠だったのです。ヨセフ自身は、恐らくそこまで考えてマリアを受け入れた訳ではないと思います。でも私たちが、真摯に神の御心を求め、神の意志に従おうとする時、神と人との共同作業で物事は進んでいくのです。
神様は、人間の意志とは別に、神の御心を実現しようとはなさいませんでした。私たちの自由意志による決断が、結果として神の預言、神の計画の一部となるというのは、何と不思議なことでしょうか。私たちの決断の背後に、常に主がおられるということを意識していきたいと思うのです。
3. 神がともにおられる
3番目のポイントは、「神がともにおられる」ということです。生まれてくる子供は「インマヌエル」と呼ばれる、それはすなわち「神が私たちとともにおられる」というという意味であると言われています。今日、神様は、私たちの毎日の生活の中で一緒にいてくださるお方であるということを、もう一度覚えたいと思います。
聖書の中で、「神が私たちとともにおられる」というのは、一つのしるしとして、いろんな人物に繰り返し語られてきました。燃える柴の中でモーセに神の使いが現れ、イスラエルの民をエジプトから導き出すように命じた時、恐れるモーセに対して、神様はこのように語っています。
神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」
出エジプト記 3章12節
また、モーセの後を継いでイスラエルのリーダーとなったヨシュアに対して、ヨルダン川を渡って約束の地に入るように命じた時、神様はこのように語っています。
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。
ヨシュア記 1章9節
「わたしがあなたとともにいる。」これはいつも、神様が何か大きな使命を、主のしもべに与えたとき、「恐れるな」という思いとともに与えられた主の約束であることが分かります。主が与えてくださる使命は、あまりにも大きくて、私たちはとても自分では行うことが出来ず、恐れるのです。でも、私たちは、それを決して一人で行うのではない。その使命を託してくださった方が、私たちとともにおられて、事を成し遂げてくださるという事なのです。
インマヌエル。主が私とともにいてくださる。ともにいてくださる神様は、どんな時でも、私たちを助けてくださいます。でもそれは、ただ単に、神様が私を助けてくださるというだけに、とどまるものではありません。それでは、私たちが自己中心なままで、神様は自分のやりたいことを助けてくださるというだけの理解で終わってしまうかもしれません。
神がわたしたちとともにいてくださるということは、神様が、神様ご自身の働きをわたしたちとともに成し遂げたいと願っておられるということなのです。マタイ28:19-20にはこのようにあります。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
マタイの福音書 28章19~20節
私たちには、あらゆる国の人々を弟子とするという使命が与えられています。そして、その実現のために、神様は世の終わりまで、いつも私たちとともにいてくださると、約束してくださっているのです。神様はその使命を、教会を通して、私たち一人ひとりと共に、実現したいと願っておられます。
主のみこころを成し遂げるために、主に信頼して、恐れずに、従っていきたいと思います。インマヌエルの主が、いつも私たちとともにいてくださるのです。お祈りをいたします。