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2024年1月14日 10×10の祝福②
2024年1月14日 10×10の祝福②
イザヤ書 32章15節 池田恵賜 主任牧師
今年、教会に与えられたみことばに目を留めています。先週は、新年礼拝に加えて、能登地震のことがあり、聖餐礼拝でもあったので、用意していた1つのメッセージを半分にしてお話ししました。ですから、今日のメッセージは先週のメッセージの後半部分となります。まず先週のメッセージを振り返っておきましょう。先週は、今年のみことばから私が語られたことを中心にお分かちしました。先週のメッセージのポイントは大きく分けて3つです。
1つ目は、10×10というビジョン(10年で10倍の祝福が日本に与えられるというビジョン)は、今年のみことばに当てはめると「森の恵み」だということです。
そして「森の恵み」というのは、人の計算によって計れるものではなく、計算できないほどの神の恵みであるということです。果樹園というのは、いわば労した者が報われる世界です。それに対して「森」は労していない者も恩恵にあずかれる世界なのだというのが2つ目です。
そして3つ目のポイントは、そのような恵みがもたらされるように、私たちは他の人の収穫のために蒔く者とされるということです。これは私たちに「水の上にパンを投げる」ような信仰を要求します。自分の計算ではなく神のみこころに従う信仰をもつということです。ここまでが先週お話ししたことです。
さて、そしてこの続きであるメッセージ後半部分に入る前に、いま私が神様から語られていることを少しお分かちしたいと思います。私は1月9日~11日まで「ラブジャパン・祈りのサミット」の集会のために長崎に行ってきました。これは、シンガポールのリバイバルが「牧師の悔い改めと一致から始まった」と聞いて、日本のリバイバルを願って始めたものです。今回は60名程の牧師・献身者の方々が日本各地から集まってくださり、とても良い祈りと交流のときとなりました。みなさんの背後のお祈りを感謝いたします。
その中で改めて、いま日本という国が世界から注目されていることを感じました。祈りのサミットの期間中、何人かの宣教師と話したのですが、彼らはそれぞれ母国でのビジネスや宣教の働きがうまくいっているときに、神様から「その働きを止めて日本に行きなさい」という語りかけを受けて、その声に従って日本に来たそうです。そして、日本の中でも教会が一つもない町や、クリスチャンが少ない町に敢えて行って伝道しているというのです。
あるシンガポールの実業家はシンガポールで、5人で始めたユースの働きが1年後になんと5000人になり、自分でも何が起きているのか分からないほど祝福されたそうです。しかし、その後、神様から「日本の若者が孤独で居場所がないから、日本でビジネスをしなさい」との語りかけを受け、日本に来たと証ししてくれました。そのような証しを聞きながら、神様は10×10の祝福のために、既に日本に働き人を送っておられるのだと感動しました。
もちろん、本郷台でも主の働きは進められています。マーティ宣教師夫妻は、2024年以降も引き続き日本に残る決心をしてくださいました。2024年が近づいてきていた昨年末に、私からマーティに「日本に残って働きを続けて欲しい」とお願いしようと考えていたら、マーティもちょうどその頃、神様から日本に残るように語られていたというのです。そして、夫婦で祈って「神様の導きに従いたい」と決心してくださいました。マーティ宣教師夫妻の献身と日本への愛に心から感謝いたします。
また、祈りのサミットでYWAMの働きに関わっておられる牧師先生から「本郷台キリスト教会はYWAMと地域教会がコラボしている非常に良い例だ」と感謝されました。これは理解して受け入れてくださっている教会員のみなさんとともに、へりくだってよく仕えてくれているYWAMの宣教師たちの働きの故であると感じています。YWAMの宣教師であるヒューゴ、アンドリュー、サラにも感謝します。
祈りのサミットの中で、日本の別の地域に遣わされている宣教師から、「なぜ本郷台はこんなにも多くの宣教師と良い関係を保ち、働きが進んでいるのですか?本郷台に遣わされている宣教師たちと話すとみんな喜んで奉仕しているのが伝わってきます。その秘訣は何ですか?」と質問されました。私はしばらく考えた後、「神様が素晴らしい宣教師たちを送ってくださっているからです」と答えました。ビラとトリシア、ジョーさん家族の働きにも感謝いたします。
また、私たちはこのような祝福を受けるだけでなく、働き人を送り出す側にもなる必要があります。教会として、この4月から金ジングク・まどか宣教師家族を2年間、石巻オアシス教会に派遣することに致しました。石巻への召しに応答した金一家一人ひとり(ジングク兄、まどか姉、ジュンくん、レイちゃん)の献身に感謝するとともに、みなさんにもぜひ祈っていただきたいと思います。また、趙先生はオアシス教会牧師をジングク・まどか夫妻に委ねて、本格的に牡鹿半島での宣教に専念することになります。ぜひこのことも覚えてお祈りください。
なぜ世界各地からこのような素晴らしい神の器たちが送られて、主の働きが成されているのでしょうか。それは「10×10の収穫」のためです。神様は私たちの祈りに応えて収穫のための働き人を送ってくださっているのです。ですから、私たちも送られてくる働き人を待つだけでなく、自分自身が収穫のための働き人として整えられるように、またそのような働き人を育てる者と変えられるように祈り求めていきましょう。
さて、ここから先週のメッセージの後半部分に入りたいと思います。まず、今年のみことばイザヤ32:15を読みましょう。
しかし、ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる。
イザヤ32:15
前回は「森」から始めて「果樹園」のことを考えてみました。しかし「森」も「果樹園」も、「荒野」から始まっていることに今日は目を留めましょう。荒野とは、皆さんがイメージするとおり何の実りも期待できない場所です。雨が降らず、渇いた土地で、種を蒔いても、水をやっても、すぐに枯れてしまうような土地です。荒野からは何の良いものも期待できないのです。
1. 荒野からのスタート
ひょっとすると、今日、いま自分の心が「荒野のような状態だ」と感じておられる方もいらっしゃるかもしれません。命を生み出すどころか、自分が生きるだけで精一杯と感じている方、何をやってもうまくいかず、生きるのに疲れてしまっている方。これからどうやって生きていこうか心配や不安でいっぱいな方。自分の将来に希望をもてずにいる方が、この中にいらっしゃるかもしれません。
そのような方は是非、今年のみことばをしっかりと握ってください。
しかし、ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる。
イザヤ32:15
神は、荒野を「実り豊かな土地」に変える力を持っておられるのです。私たちが、これまでどのような荒野の人生を送ってきたとしても、神はあなたのこれからの人生を果樹園のように、森のように、恵みと祝福で満ちたものに作り変えることができるお方です。この神に目を向けて、この神の声を聞いて、この神のことばに信頼して歩んでいきましょう。
そして、また自分の心だけでなく、日本も霊的に「荒野だ」と言われています。しかし、そのような日本が果樹園となり、森と見なされるほど豊かな祝福を受けるようになることを信じましょう。「神様は私の人生を祝福してくださる。神様はこの日本を祝福してくださる」と、信仰をもって告白していきましょう。
2. 二十六聖人の殉教
先ほど祈りのサミットで長崎に行った話をしましたが、長崎で二十六聖人記念館に行ってきました。今回で3回目ですが、行くたびに深い感動を覚えます。今回改めて日本という国がどのようなところを通って今があるのか、私たちの「霊的なルーツ」みたいなものを深く考えさせられました。
今から約430年前の1597年2月5日、当時、秀吉によりキリスト教に対して禁教令が出され、大阪、京都で18人の日本人信者と6人の宣教師、合計24人が捕らえられ、1ヶ月かけて寒い冬の中、長崎まで歩かされました。幕府は「辛い目に合わせて脅せば、何人かは脱落して信仰を捨てるだろう」と思っていましたが、むしろ、その道中で彼らの世話係として付き添った者たちも信仰を表明して、その行列に加わり26人となったのです。一行の中には12才の少年もいました。そして、彼らは長崎で十字架に架けられて殺されました。
なぜ長崎だったのでしょうか。当時、九州に一番多くキリシタンがいたからです。その場所で十字架に架ければ、見せしめとなって「人々は信仰を捨てるだろう」と幕府は考えたのです。しかし幕府のその目論見は見事に外れました。そして、それ以降、幕府はキリシタンを十字架で処刑することを止めたのです。なぜなら、十字架に架けられた26人のキリシタンたちは、イエス様と同じ刑に処せられることを誇りとし、決して信仰を捨てませんでした。そして、その姿を見ていた他のキリシタンたちの信仰までもが燃やされたからです。この時の26人のキリシタンたちが、後に「二十六聖人」と呼ばれることになったのです。
二十六聖人の一人、パウロ三木は十字架上で「みなさん、私は何の罪も犯していませんが、ただ主イエス・キリストの教えを説いたということで死ぬのです。私はこの理由で死ぬことを喜びとし、これは神が私に授けたもうた大いなる恵みであると思っています。いまこの最後のときを前にして、皆さんを欺こうとは思いませんので聞いてください。人間の救いのためにはキリストの道以外他にないと断言します。そして、キリストは『敵、および自分に害を加えた者を赦すように』と教えています。ですから、私は太閤様と、この私の死に関わったすべての人を赦します。太閤様に対して憎しみはありません。むしろ、太閤様を始めすべての日本人がキリスト信者になることを切望いたします」と、語ったのです。彼が十字架で死んだのは33才の時でした。彼はイエス様と同じ年齢で十字架にかかれることを、むしろ感謝していたと言われています。
その後、日本は250年にわたり鎖国をします。そして1867年、江戸幕府が終わる頃、日本と条約を結んだ国々から再び宣教師が送られてきます。その中の1つ、フランスのパリ宣教会は宣教師を送り、大浦天主堂を建てました。そのことによって、そこに250年間、信仰を守ってきた「潜伏キリシタン」たちがいたことが明るみに出ます。しかし、キリシタン禁制を引き継いだ明治政府によって彼らは捕えられ、3394名が流刑、島流しとされます。そして、流刑地で拷問を受け662名が命を落とします。その流刑地の1つが岡山県でした。キリシタンが拷問を受け、処刑された県内7か所には現在すべて教会が建っているそうです。信仰ゆえに流された血、献げられた涙の祈りは神様に覚えられているのです。神様はそれらを決して無駄にはなさいません。
日本はローマに次いで2番目に殉教者が多い国です。この日本は、わずか150年前まで「イエス・キリストを信じる」と言ったら拷問を受け、信仰を捨てなければ殺されるという国だったのです。そして、そのような時代に「死んでも信仰を守り抜いた信仰者たち」がいたのです。そのような方々の血が流され、パウロ三木のような方々の命がけのとりなしの祈りがあり、現在の日本のキリスト教会があることを覚えたいと思います。「森の恵み」というときに、かつて荒野であった時代に命がけで信仰の戦いを戦い抜いた人たちがいたことを忘れてはいけません。私たちが自由に神様を礼拝できる時代を過ごせている背景には、そのために命を懸けた人々がいたのです。
3. 私たちの流す血とは
そして現在の私たちもまた、次の世代のために血を流す必要があると思うのです。私たちの流す血とは何でしょうか。ヘブル12:4には、このように書いています。
あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。
このみことばは、私たちが「罪から聖められること」、「神が用いることのできる器となること」、「自分の願いの実現のためではなく、神のみこころに生きる者となること」を教えているのではないでしょうか。私たちが流す血は、罪からの聖めのためであり、神と繋がるためなのです。そしてそれは、私たちがこの地で神のみこころを成し遂げることに繋がっていくのです。
イザヤ32:15によると、荒野が果樹園、そして森となる前に「いと高き所から私たちに霊が注がれる」とあります。荒野の状態の私たちに聖霊が注がれるのです。聖霊が注がれたときに、まず起こるのは「私たちに罪が示される」ことです。神から離れている心、思いが明らかにされるのです。それが聖霊のご性質であり、私たちは罪を持ったままでは神の祝福を受けることができないからです。
私たちに聖霊によって罪が示されるのは、私たちが裁かれるためではなく、私たちの罪が赦され、聖められるためです。罪が聖められて、初めて私たちは聖霊によって神と繋がり、神のみこころを知ることができるようになるのです。さらに、イザヤ32:15で、聖霊は「私たちに注がれる」とあります。キリストの愛の共同体である教会に聖霊が注がれて、教会が聖められるとき、教会に神のみこころが示されるのです。そのとき、荒野が果樹園に、果樹園が森と見なされるようになるのです。
私たち一人ひとりがキリストのみからだなる教会の1つの器官として、次の世代に繋がる祝福のカギを握っています。私たちは決して一人で奮闘するのではありません。聖霊なる神様が私たちを罪からきよめ、一つとしてくださり、神の用意しておられる祝福へと導いてくださるのです。
そのようにして今年、標語である「よろこび ひろがる リバイバル」が実現されていくことを願っています。