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2024年1月28日 よろこび ひろがる リバイバル②

2024年1月28日 よろこび ひろがる リバイバル②
ヘブル人への手紙 12章1〜3節 池田恵賜 主任牧師

先週からリバイバルについて考えています。今日はリバイバルを「日本宣教の歴史」という視点から見ていきましょう。

1. 日本宣教の歴史から考えるリバイバル

日本に初めてキリスト教が伝えられたのは1549年です。「以後よく広まるキリスト教」の語呂合わせで覚えている人も多いでしょう。イエズス会のフランシスコ・ザビエルがマレーシアの港町マラッカで出会った日本人ヤジロウを伴って鹿児島に上陸したのが始まりです。

ヤジロウは鹿児島出身の下級武士で、若い頃に殺人を犯し、港に停泊していたポルトガル船に乗り込み、マラッカに逃げたのでした。その船内で船長から福音を聞き、マラッカでザビエル神父に罪の告白をするように勧められていたのです。その後、ヤジロウはザビエルから洗礼を受け、ザビエルはヤジロウから日本語を学び、日本宣教への思いを固くしたのでした。そのザビエルとヤジロウ一行が日本に来たのは1549年8月15日でした。

8月15日というと、現代の日本人にとって意味深い日です。1945年8月15日は終戦の日です。日本が第二次世界大戦で負けた日です。そして、日本に福音が初めて伝えられたのも8月15日だったということです。ここに何らかの繋がりがあるのか考えてみました。すると一つのことに思い至りました。

日本の敗戦は天皇の「人間宣言」にも繋がっていきます。ザビエルが日本に福音を伝えに来た1549年当時は、織田信長が「天下統一」を目指していた時期です。そして時代は、織田信長から豊臣秀吉、徳川家康と続きます。さらに明治、大正、昭和の天皇と、日本のトップに立ったリーダーたちは、自ら望んだかどうかは分かりませんが、神格化されました。そのように考えると、日本に最初に福音が伝えられた1549年8月15日から、第二次世界大戦で敗戦した1945年8月15日までの約400年間、日本は「神ならざる者を神としてきた国」ということになります。

その間、権力者はある時はキリスト教を取り込んで政治的に利用したり、またある時はスケープゴートとして差別し、迫害したりしてきたのです。新潟聖書学院の院長をしている中村敏先生は、その著書「日本キリスト教宣教史」の中でこのように言っています。

「国家による統制を強化するために、その時代の権力者が常に用いる手段として「スケープゴート」(いけにえのヤギ)というものがある。「スケープゴート」とは、本来悪くないにもかかわらず、人々の憎悪を身に受けて追放される役目を担うものである。ローマ時代のキリスト教がそうであり、ヒトラー時代のドイツでのユダヤ人がそうであった。徳川時代のキリスト教も、まさにこのスケープゴートであった。

ただ批難され、追放される存在があまりにも弱すぎては、この役目を果たせない。日本に来たキリシタンには、スペインやポルトガルという強国が背後に控えており、十分スケープゴートになり得た。

こうした日本の神国思想を背景とする支配者の宗教統制の論理は、徳川時代だけで終わらなかった。明治以降1945年まで、日本は現人神である天皇をいただく神国とされ、この神国思想と相容れないキリスト教その他の宗教が弾圧されたのである。」

(「日本キリスト教宣教史」中村敏 いのちのことば社)

日本に福音が伝えられてからの400年の内かなりの期間、福音は締め出され、クリスチャンは迫害を受けてきたのです。そのような中で、日本宣教の扉が開かれるために用いられた人たちに焦点を当てて見ていきましょう。

まず日本宣教の扉が開かれる時代背景を押さえておきましょう。18世紀から19世紀にかけて欧米諸国は市民革命や産業革命を経て、大きな変化を遂げていました。その間、日本は鎖国している状態でした。当時、イギリスやアメリカでは霊的なリバイバルが起き、クリスチャンたちの信仰が熱く燃やされているときでした。一方、産業革命の中で蒸気船が開発され、それにより海上交通が飛躍的に発展したので、世界宣教にそれまで以上に目が向けられた時代でもありました。長い間、鎖国していた日本は、欧米のクリスチャンにとって祈りの対象となる国でした。

2. M.C.ペリー

そんな中、マシュー・ペリー提督がアメリカ大統領の親書を携えて、4隻の軍艦いわゆる「黒船」を率いて神奈川県の浦賀沖に来航します。敬虔なクリスチャンであるペリー提督は「日本の開国は、日本宣教の扉を開く光栄ある仕事だ」と考えていました。浦賀沖に停泊した最初の日曜日1853年7月10日、午前10時30分、日本で初のプロテスタントの礼拝が甲板上に集まったペリー提督を始めとした海兵たちによってささげられました。その日、歌われた讃美歌5番の讃美の歌声は海岸にまで届いたと言われています。その後、ペリー提督は210年にもわたり鎖国政策をとってきた日本の開国という困難な事業をやり遂げます。

3. T.ハリス

ペリーの後を受けて1856年に初代駐日公使となったタウンゼント・ハリスも熱心なクリスチャンであり、「日本宣教を前進させる」という使命をもって着任しました。彼は江戸幕府との交渉を前に、日記にこのように書き記しています。

「今こそ、日本でのひどいキリスト教への迫害に対して最初の一撃が加えられるのだ。
神の祝福によって、私が日本との交渉に成功するならば、私はアメリカ人のために日本に教会を設立する権利と、彼らの信仰活動の自由を断固として要求するつもりである。私はまた、踏み絵の慣習の廃止も要求する。私はキリストの福音を再び日本に広めるための仲介者となることを光栄に思う。」(「日本滞在記」T・ハリス)

そして、ハリスは幕府と数十回に及ぶ交渉を粘り強くこなし、この困難な交渉をやり遂げたのです。これにより1858年、日米修好通商条約が結ばれました。その第八条にて日本にいる在留外国人の信教の自由が保障されたのです。それは、すなわち禁教下ではありますが、欧米からの宣教師たちにとって「日本に来るための道が開かれたこと」を意味するのです。

この扉が開かれたことによって、数々の優秀な宣教師たちが来日することになります。今日は特にその中の一人を紹介したいと思います。それは本郷台キリスト教会から一番近い大学の一つ、明治学院大学の創設者であるヘボン博士です。

4. J.C.ヘボン

ヘボン博士は1815年にペンシルバニア州に生まれます。敬虔なクリスチャン家庭に生まれた彼はプリンストン大学でラテン語、ギリシア語、ヘブル語を学びます。さらにペンシルバニア大学で医学博士の資格を取得します。その後、開業医として働きますが、大学時代に経験したリバイバルのときに与えられた「海外宣教師になる」という夢が捨てられず、結婚後に医院を閉じ、医療宣教師として中国に向かいます。

しかし、その道は多くの困難が伴いました。中国に向かう船上でヘボン夫人は流産してしまいます。さらに、その後シンガポールで生まれた長男も、生まれて数時間で亡くなってしまうという悲しみを経験します。やっとの思いで中国にたどり着き、奉仕を始めたとき夫人の健康が悪化し、ヘボンは志半ばで夫人と2才になる次男サムエルを連れてアメリカに戻ることにします。

その後、彼は中国での医療経験を活かしニューヨークで開業医となって大きな成功を手にします。ヘボンは、その当時を振り返って「非常に裕福な暮らしをしていた」と言っていますが、そんな彼が44才になった1859年に、ペリーやハリスの報告を通して日本が開国し、宣教の扉が開かれたことを知ります。兼ねてから「福音がまだ伝えられていない国で神のために仕えたい」と願っていたヘボンは、ニューヨークでの医師の働きを辞め、夫人を伴って日本へ渡る決心をします。しかし、それは同時に年老いた父親と14才になる一人息子サムエルをアメリカに残していくことを意味していました。ヘボンは、この時の苦悩を後に弟に宛てた手紙の中でこのように記しています。

「これが私の遭遇する最初の別離であり、最も耐えがたい試練でもあります。ほとんど胸も張り裂けんばかりの悲しみでありました。しかし私は、主なる神を信じております。」
(ヘボンの手紙)

主からの使命をいただいたヘボン博士は大きな犠牲を払って日本にやってきたのです。そして、まだ禁教下であった日本で、まず彼は医療活動を通して日本人に認知されていきました。そのかたわらで、日本語を学び、辞書を作り、聖書を翻訳し、やがて1880年に日本語の新約聖書を、続いて1887年に旧約聖書を出版しました。

ヘボンがどのような人物であったかを表すエピソードが残されています。

ヘボンがあるとき、日本人の青年をお手伝いさんとして雇ったところ2週間後に急に辞めると言ってきました。「何かあったのか」と聞くと、「自分はある藩の武士で、スパイとしてこの家の内情を探り、隙あらばあなたを切り殺すつもりでいた」とのこと。しかし、ヘボンが非常に親切で、仁義道徳をわきまえていたため「殺すのに忍びなくなった」と言うのです。そして、自分の考えが間違っていたのが分かったため「お手伝いの仕事を辞めて、国に帰ることにした」と言うのです。

実際、ヘボンの例に限らず、初めは警戒していた日本人たちが宣教師たちの人格に触れて感動し、入信するということが度々起こっていったそうです。日本宣教の初期に送られてきた宣教師たちは、本当に日本と日本人を愛していました。まるで、神がご自身の日本人に対する愛を彼らの中に注がれていたかのようです。

ヘボンとともに初期の日本宣教を担ったブラウン宣教師は、亡くなる前年まで日本で聖書翻訳をし、病のためにやむなくアメリカへ帰国することになったときに「我に百の命を与えよ。我はことごとくこれを日本に与えんと欲す」と言ったそうです。彼は帰国した翌年、日本の新約聖書完成の報を聞きながら天に召されたそうです。

5. 日本初のプロテスタント教会設立

あるとき、横浜に送られてきていた宣教師たちによって、日本のための祈祷会がもたれました。それは1871年のクリスマスから72年の新年にかけてなされた「初週祈祷会」という祈り会でした。これは「福音同盟会」という1846年に立ち上げられたプロテスタント教会の国際連合機関の呼びかけによる祈祷会です。その初週祈祷会で宣教師たちは、日本人の救いのために熱心に祈っていました。宣教師から英語を習っていた何人かの青年たちが、その姿を見て祈祷会に加わってきました。そして、青年たちはそこで聖霊に触れられたのでしょう。「自分たちも日本の旧暦での新年に合わせて、初週祈祷会をもちたい」と願い、祈祷会をもったそうです。そのときの祈り会の様子を宣教師がこのように母国に報告しています。

「集会は驚くほど盛んになり、何週間も続き2月末までにいたりました。1~2週間後、この国の歴史で初めてのことですが、彼らは祈祷会で膝をかがめて、感動しつつ、その顔は涙にぬれながら神に祈ったのです。神がかつて初代教会と、また使徒たちを取り巻く人々に御霊を賜ったように、日本にも御霊を与えてくださいと。これらの祈りは熱烈そのものでした」
「日本プロテスタント伝道史-明治初期諸教派の歩み(上)」G.F.フルベッキ

そして、この祈りの結果1872年3月10日、日本最初のプロテスタント教会「日本基督公会」が誕生したのです。この教会は現在も「横浜海岸教会」として活動しています。

この時、江戸に近い横浜では宣教師も多く、キリスト教に対する弾圧も緩やかであったようですが、なお禁教下での厳しい時代でもありました。それは日本基督公会発足時に加わった11名の受洗者の内、2名は仏教側から潜入したスパイであったことからも分かります。

この時期に日本は不平等条約改正の交渉のため、右大臣である岩倉具視を特命全権大使とする遣欧米使節団をヨーロッパ、アメリカに派遣します。

当時、日本人に対してキリスト教を厳しく禁じた高札のことが宣教師を通して欧米の教会に知らされ、多くのクリスチャンたちの間で祈りの課題となっていました。そこで日本にいた宣教師たちは「福音同盟会」のロンドン本部に手紙を送り、日本の実情を訴えて、この使節団の訪問の機会を捉えて何らかの働きかけをするように要請しました。

そのように多くのクリスチャンの祈りがささげられる中、使節団は行く先々で日本の宗教政策に対する非難を受け、ついに1873年(明治6年)に、政府は日本人に対してキリスト教を禁じた高札の撤去を全国に布告したのです。これにより、江戸幕府から260年続いたキリスト教禁制の時代が終わったのです。

日本で信教の自由が認められた背後には日本を愛した宣教師や、多くのクリスチャンたちのとりなしの祈りがあったことを覚えたいと思います。ですから、いま私たちがウクライナや紛争の起きている地域の平和のため、また信教の自由が脅かされている国々のために祈ることは大切なことです。

ここでみことばを開きましょう。ヘブル12:1-3です。

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。
ヘブル12:1-3

私たちを雲のように取り巻いている証人たちの中には、かつて日本宣教の道が開かれるために命をかけた宣教師たちもいます。また見たことも、行ったこともない遠い日本という国を覚えて祈ってくれた人々もいるのです。

私たちは自分の力だけで今ここに立っているのではないのです。また自分のために立っているのでもないことを覚えましょう。信仰の先輩たちがイエス様から目を離さずに、与えられた使命を果たし、信仰のバトンを私たちに手渡してくれたように、私たちもこの時代にあって、神によって遣わされた場所で、神から与えられた使命を果たし、次の世代にバトンを渡していくのです。そのようにして、時代を超えて神のみこころがこの国に成し遂げられていくのです。

6. この国の王は

もう一点、最後に短くお話ししておきたいことがあります。1873年に、日本人に対するキリスト教禁制は解かれましたが、はじめにお話したように日本は1945年の終戦まで人間を神としている国でした。福音が伝えられて以来400年間、神以外のものを神と告白してきたのです。それが変わったのは戦後です。今から約80年前です。しかし、天皇が神でなくなったとしても、その後、経済・お金や、仕事や、その他のものが神になって私たち日本人の心を占めているのではないでしょうか。この80年間、依然として、日本人は神以外のものを神としているのではないかと思うのです。

ここに至るまで沢山のクリスチャンの血が流され、涙の祈りや多くの犠牲が払われてきた中で、私たちはいま、信仰を大胆に告白できる時代に生かされているのです。私たちは、いまこそ「この国の王はイエス様です」と宣言するときではないでしょうか。

「イエス様が王だ」ということは、その国をイエス様が治めておられるということです。この神の統治は、私の内側から始まります。「イエス・キリストは私の人生の王です」と告白し、心のあらゆる部分を神に明け渡し、神の愛があなたを癒し、あなたのすべてを満たすようにしていただきましょう。そして、その愛が満ち溢れるとき、あなたから始まってあなたの周りにいる兄弟姉妹にも神の愛が現われ、広がっていくのです。

イエス・キリストの愛が、私の心を治め、教会を治め、地域を治め、日本を治めていくことを高らかに宣言していきましょう。

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