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2024年4月7日 希望を与える一致を目指して

2024年4月7日 希望を与える一致を目指して
ローマ人への手紙 15章13節 池田恵賜 主任牧師

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2024年4月7日 希望を与える一致を目指して
ローマ人への手紙 15章13節 池田恵賜 主任牧師

来週、私は金ジングク・鈴木まどか夫妻の石巻オアシス教会の牧師就任式のため石巻に行きますので、本郷台では木島浩子伝道師がメッセージを取り次いでくださいます。再来週は、佐藤牧師がメッセージを取り次いでくださる予定ですので、私の新しいメッセージシリーズは4月28日からにしたいと思います。

今日はローマ人への手紙14章、15章から「教会の一致」ということをテーマに見ていきましょう。メッセージタイトルは「希望を与える一致を目指して」とさせていただきました。

1. ローマ教会のスタート

まずメッセージのはじめに、簡単にローマ教会の背景を押さえておきましょう。

ローマ教会といっても現代の教会のように十字架を掲げた礼拝堂が建っていたわけではありません。正確に言うと、ローマにある家の教会です。救われた人たちが家々を開放して、そこに人々が集まって来ていたのです。

使徒2章にあるペンテコステの日に、エルサレムに巡礼のために来ていたローマ在住のユダヤ人が救われて、始まった集まりがローマ教会の起源ではないかと言われています。

ペンテコステの出来事がAD30年前後で、パウロが「ローマ人への手紙」を書いたのがAD57年頃とされていますので、パウロが手紙を書いた時点でローマの教会は設立から30年近く経っていることになります。今年、私たちの教会が創立60周年を迎えるので、その半分くらいと考えると、この時点でローマ教会もそれなりの歴史を重ねていたことが分かります。

当時、ローマは世界の中心でしたから、そこにあるローマ教会も当然いろいろな人たちが集う多様性に富んだ教会だったと考えられます。

特にAD49年頃、ローマ皇帝クラウディウスはローマに住むユダヤ人たちをローマから追放しています。その5年後、AD54年にクラウディウスが死ぬと、ユダヤ人たちはローマに戻って来られたようですが、その間、ローマ教会を支えていたのはユダヤ人ではなく、異邦人クリスチャンたちでした。

5年というのは、それなりに長い期間です。ユダヤ人クリスチャンのいない5年間で、ローマ教会内も様々に状況が変化したのではないかと思います。

その後、ローマ教会では異邦人クリスチャンのグループとユダヤ人クリスチャンのグループの違いが明確になっていったようです。そして、その状況を聞いたパウロは、彼自身はまだローマ教会に行ったことはありませんでしたが、彼らに手紙を書くことにしたのです。

2. 多様性のある教会

さて、ここまでローマの教会の背景を簡単にみてきました。ローマの教会は様々ないきさつから、多様性をもっていました。教会の中に「多様性がある」ということは、教会の中に「違う考えや意見を持つ人たちがいる」ということです。

しかし、それは自然なことです。人はそれぞれ年齢も違えば、性別や人種、経験、趣味も違うからです。ですから、みんなが同じ意見を持つことの方が不自然です。一つの教会の中に、違う考えや意見があるのは当然なのです。

ただ、「意見が違うから私は協力しない」とか、「私は考えの違う人を受け入れたくない」となると、これは問題です。違う意見の人を排除していくなら、その人は独裁者になるか、孤立していくかのどちらかになるからです。教会の働きが広がって、教会に様々な背景の人たちが集うようになり、違う意見を持った人たちが出てきて、多様性が生まれたときに、どのようにその多様性に向き合っていくかはとても大切です。

ローマの教会では、安息日や祭りを守ることについて、また市場に出回っている偶像にささげられたかもしれない肉を食べることについて、そのことを気にする人たちと、気にしない人たちがいたのです。おそらく気にしていたのはユダヤ人クリスチャンのグループで、気にしなかったのは異邦人クリスチャンのグループだったのでしょう。

パウロは、もしそれが教会の一致を根底から揺るがすような大問題でないのなら、それぞれの確信に従って歩みなさいと勧めています。ローマ14:5,6です。

ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

「安息日を大切にしている人は安息日を礼拝の日とし、どの日も大切だと考える人はどの日も主への礼拝の日としている。食べ物についても、食べる人も食べない人も神に感謝しているのだから、それで良い」と、パウロは言うのです。

そして続けて、「より信仰の強い人が、弱い人を思いやるように」と、このように言っています。

ローマ15:1です。

私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。
ローマ15:1

パウロは、ここで「力のある者たち」、「力のない人たち」という言葉を使っています。これは信仰のことを言っているのですが、パウロは「教会の中に強い人と弱い人がいる」というのです。

仮に「みなさん、教会の中を強い人と弱い人のグループに分けてみましょう」と言われたら、みなさんは何を基準に分類し、自分をどちらのグループに入れるでしょうか。

信仰歴の長い人、古くからの教会員、意見の強い人、よく奉仕をしている人などが強いグループで、そうでない人が弱いグループでしょうか。弱いグループは少数派で、力が弱いでしょうか。現代はマイノリティ、少数派の意見も尊重される時代ですので、単純に「少数派=力が弱い」とは言い切れません。

あまり「教会の中で線を引く」というのは良いこととは思いませんが、パウロがあえてそうしたのは、そこにもっと大きな問題が潜んでいたからです。それは「意見の違う人を裁く」という問題です。

3. 意見の違う人を裁くな

このことに関してパウロはとても厳しく指摘しています。

ローマ14:2-4節10節13節をお読み致します。

ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。ローマ14:2-4

10節 それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。

13節 こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。

パウロはこのように言って、他人を裁いている人を厳しく戒めています。イエス様ご自身もマタイ7章で「人を裁くな」と仰っています。それは、私たちが他人の非を責めるとき往々にして自分が見えなくなってしまっているからです。言葉を変えて言うと、私たちが人を責めるとき、自分を棚に上げて、自分の勝手な判断で相手を裁いてしまっているのです。だから、相手を責めようとする人に、「他人の目の中の塵を取ろうとする前に、まず自分の目の中の梁を取り除きなさい」と、イエス様は言われたのです。この梁とは、裁縫で使う細い針ではなく、家を支えている太く大きな梁のことです。そんなものは到底、目に入らないのですが、相手を責めようとするとき、それほど私たちは自分が見えなくなっているというのです。

4. 裁きは一致を壊す

他人を裁こうとする前に「まず自分が何者であるのかを知りなさい」と、聖書は教えています。私たちは自分の間違い、失敗、罪のすべてをイエス様の十字架によって赦された者であるという事実を脇に置いて、他人を裁く者であってはいけません、というのです。

これはとても大切な真理です。なぜなら、裁きは一致を壊すからです。

私たちは、人を裁くよりももっと大きなことのために赦され、生かされているのです。パウロはそのことをこのように表現しています。ローマ14:20aです。

食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。

「神のみわざ」とは、滅びに向かっていた罪人がキリストによって救われ、神の民とされ、この地で神の民が、神のみこころを行なうことによって、神の国の支配が広げられていくことです。この神のご計画は、イエス・キリストの再臨の時に完成します。救いはイエス様の十字架で完成しましたが、神のご計画はまだ完成していないのです。

この神のご計画は、いま聖霊によって教会に託されています。私たち一人ひとりはこの神のご計画の中、救われているのです。教会の中で他の人と意見が食い違うとき、この神の大いなるみわざ、ご計画を台無しにするほどの大きな問題なのかをよく考えなさいというのです。

5. 多様性にどう向き合うのか

教会に多くの人が集うようになり、教会の中に多様性が生まれてきたとき「意見の違う人とどのように向き合うのか」ということは、予め考えておくべきことだと感じます。

小さな問題に思えても放置したり、無視したりするのはよくありません。人は大きな石ではなく小さな石につまずくからです。

ここで意見が違う人への対応について3つ考えてみましょう。

1つは「意見の違う人たちを切り捨てる」という対応です。

これは決して、建設的な解決方法とは言えません。そのような対応をしていたら、教会はどんどん先細りになっていってしまいます。どんなに良い働きをしていても、意見の合わない人というのは常に出てくるものだからです。

それでは、次の方法はどうでしょう。2つ目は「妥協する」ということです。

相手の考え、意見に納得しないけど事を荒立てたくないので黙っておく、表面上は従っておくというやり方です。これもあまり良い解決方法ではないと思いますが、実際には、このように解決している場合が多いのではないでしょうか。しかし、そこに本当の一致は生みだされません。

そこで第3の方法です。それは「愛をもって一致を目指す」ということです。

そして、これが聖書が勧めている方法です。ローマ15:1-3にこのように書かれています。

私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。
ローマ15:1-3

私たちは自分を喜ばせるべきではなく、隣人を喜ばせるべきであって、キリストを模範とするように勧められています。「自分ではなく隣人を喜ばせる」と聞いて、みなさんどう思われるでしょうか。「そんなことできない」、「なんで自分が我慢しなければいけないのだ」と思われるかもしれません。「自分の喜びのために生きてなにが悪い」と思うことでしょう。

6. 信仰による喜び

しかし、今日の結論のみことばを先に開いておくと、そこに「信仰による喜び」という言葉が出てきます。ローマ15:13です。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。
ローマ15:13

「喜び」と「信仰」がくっついているのです。みなさんは「信仰による喜び」を味わったことがあるでしょうか。喜びに「信仰」がついているということは、未だ成し遂げられていないことを「信じて喜ぶ」ということです。

この喜びはイエス様の生涯を通して表されています。ヘブル12:2です。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
ヘブル12:2

「信仰による喜び」とは、神のみこころが成し遂げられたときの様子を信仰によって先取りして喜ぶことです。そして、その喜びはイエス様に十字架の苦しみを乗り越える力を与えました。同じように私たちにも目の前の困難を乗り越える力を与えるのです。それは、自分の喜びのために生きる生き方よりも、もっと確かな歩みを私たちに与え、隣人を喜ばせる生き方となるのです。

7. 忍耐と励まし

さらにパウロは、聖書のみことばが私たちに困難を乗り越えるのに必要な「忍耐と励まし」を与えると教えています。ローマ15:4-5です。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。
ローマ15:4-5

そして、みことばを通して与えられた忍耐と励ましは、私たちを一つにし、神をほめたたえさせるのです。続くローマ15:6です。

そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。
ローマ15:6

考えも意見も違う私たちが、聖書のみことばから忍耐と励ましをいただき、十字架を見上げて、神のみわざをほめ歌うとき一致が与えられます。そして、私たちが一致したとき、違いは争いのもとではなく、神の愛の広がりとなっていくのです。

多様性に対する答えは、妥協の中にではなく愛の中にこそあるのです。

8. 違いは広がりである

「違いは広がりである」と考えると、教会の持つ可能性にワクワクしてきます。今日の中心聖句であるローマ15:13には、希望の神が信仰と聖霊によって、私たちに「喜びと平安を与えてくださる」とあります。これは異邦人クリスチャンのグループとユダヤ人クリスチャンのグループの間に様々な意見の食い違いがあったローマの教会に語られた言葉です。この言葉が語られたローマのクリスチャンたちが一つとなって晩年のパウロを支えるのです。

私たちもイエス・キリストの十字架を見上げて、違いを責める生き方から、違いがあっても主をほめたたえる生き方を選びましょう。そうするなら、どんなに教会が増え広がっても、希望と、喜びと、平安が満ちあふれる教会となり、それが地域に対して証しとなるのです。

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