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2024年5月5日 喜びをもって生きる②
2024年5月5日 喜びをもって生きる②
ヨハネの福音書 15章11節 池田恵賜 主任牧師
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2024年5月5日 喜びをもって生きる②
ヨハネの福音書 15章11節 池田恵賜 主任牧師
今年、本郷台キリスト教会に与えられた「よろこび ひろがる リバイバル」の標語から、特に「よろこび」にフォーカスを当てています。
先週は「喜び」という感情には2種類あって、1つは「自分の願いが満たされることによって与えられる喜び」で、もう1つは「神が満たしてくださる喜び」だとお話ししました。そして「神の満たしてくださる喜び」は、私たちの決断によって与えられるもので、その喜びは、私たちの置かれた環境や状況によらずに私たちの内で満ちあふれ、周りに広がっていくということを、使徒8章のエルサレムから散らされた人たちの行動を通してみてきました。
さて、今週はもう少し「神が満たしてくださる喜び」について深めてみたいと思います。なぜ、神が満たしてくださる喜びをもつとどんな状況でも喜べるのか、本当にそんなことができるのかと疑問に感じる方もいると思います。
ですから、今日はまず私たちが「どんな状況でも喜べる」という根拠から見ていきましょう。
それはゼパニヤ書3:16-17に書かれています。
“その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。あなたの神、【主】は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。”
ゼパニヤ3:16-17
ここに「主はあなたのことを大いに喜び、……喜ばれる」とあります。「神が私のことを喜んでくださる」。これが、私たちがどんな状況でも喜べる理由です。
これはゼパニヤ書に書かれているみことばですが、ここでゼパニヤ書の全体像を簡単にみておきましょう。ゼパニヤはエレミヤと同時期に活躍した預言者で、ユダ王国がバビロンに捕囚される40-50年前から預言者として活躍していました。ゼパニヤ書は3章20節までの短い預言書ですが、そのうちのほとんど、3章8節まではユダ王国と周辺諸国に対する神の裁きが書かれています。しかし、突然3章9節以降に、何の前触れもなくユダに対する救いが預言されているのです。これは、神が裁くだけの神でなく救いを用意してくださる方であること、そして、この救いは神の一方的な恵みであることを暗示しています。絶望の真っ暗闇の中、突如として語られる救いのメッセージ。それは、まるで「現状がどのようなものであっても決して失望することなく神に希望をおきなさい」という神から私たちへのメッセージでもあるかのようです。
このゼパニヤの預言の中に、神がご自身の民をどのように見ておられるかが語られているのです。「主はあなたのことを大いに喜ばれる」と。神様はあなたのことを喜んでおられるのです。
1. あなたを喜ばれる神
みなさんどうでしょうか。「神があなたのことを喜んでいる」と聞いて、実感があるでしょうか。素直にその言葉を受け止めることができるでしょうか。「いやいや、そんな価値は私にはありません」とか、「私は、あの人みたいに神様に従えていないし、何度も神様を裏切ってしまったから、神様に喜ばれる資格なんてありません」と思ってしまう人の方が多いのではないでしょうか。
しかし、「神が私のことを喜ばれる」と言うとき、それは「私の存在を喜ばれる」ということなのです。「あなたが何かをしでかしたから神はあなたを喜ばれない」とか、逆に「あなたが何かをしたから喜ばれる」というのではありません。そのままのあなたを、あなたの「存在そのもの」を神様は今喜んでおられるのです。そして、これが、私たちがどんな状況でも喜べる理由なのです。
「何か喜んでいる人の近くにいると自分まで嬉しくなる」という経験はないでしょうか。
あるとき、私が保育園のあに顔を出したとき、一人の園児が近寄って来て、きっと誕生日にもらったであろうおもちゃを見せてきて「これもらったの」と言って、喜んでいる姿に触れて、私にまでその喜びが伝わって来て、心が温まったことがありました。
私が神と交わるとき、神様は私の存在を心から、掛け値なしに喜ばれるのです。そして、その喜びが私にも感化を及ぼすのです。
2. イエスの喜び
この喜びはイエス様においても同じです。
イエス様は「神と人との断絶した関係が回復される」という喜びがあったからこそ、十字架の苦しみを乗り越えることができました。ヘブル12:2です。
“信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。”ヘブル12:2
十字架に架けられてから3日後、よみがえられたイエス様は、初めに会ったマリアに第一声でこのように声を掛けられました。マタイ28:9です。
“すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。”マタイ28:9
「おはよう」。これは、イエス様流の「ウィットに富んだ」挨拶です。新改訳2017の注釈付きの聖書を持っておられる方は下の注釈を見ていただくと、こう書かれています。別訳「喜びがあるように」。ここで使われている「カイロウ」というギリシヤ語は「おはよう」、「こんにちは」という挨拶以外に「喜べ」とか「喜びがあるように」という意味があります。
「喜び」とともに十字架の死を乗り越えたイエス様が、死を打ち破った後、最初に出会ったマリアに「喜びがあるように」と言われたのです。
この日、まさにイエス・キリストの十字架と復活によって神と人との間を妨げていた罪と死の壁が取り払われ、人は自由に神と交われるようになったのです。「このことをわたしは喜んでいます。あなたがたにも同じ喜びがあるように」と、イエス様は語られたのです。
私がどんな状況にいるときでも、神は私の存在そのものを喜び、何の隔たりもなく私とともにいられることを喜ばれているのです。神のその喜びが私にも伝わって私も喜ぶ、「神の喜びが私の喜びとなる」。これが「神の与える喜びは、私の置かれている状況に左右されない」という理由です。
3. 父なる神が喜ばれることを喜びとする
このことを踏まえて、今日のメッセージの後半に入っていきましょう。後半の中心テーマは「父なる神が喜ばれることを喜びとする」ということです。
ヨハネ15章から見ていきたいと思いますが、時間の都合もあるので、ポイントとなる聖書箇所をいくつかピックアップしてみていきましょう。まずヨハネ15:1です。
“わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。”ヨハネ15:1
ここで、イエス様は「ぶどう園のたとえ」をします。父なる神様がぶどう園を所有する農夫で、イエス様がまことのぶどうの木です。とても有名な箇所ですが、これは「最後の晩餐での一幕」ということを心にとめましょう。イエス様が十字架に架けられる前の晩、この地上での最後の夜の出来事です。ここでイエス様が語ったことは、いわば弟子たちへの遺言的な意味合いをもちます。
イエス様は、この話をしたあと15節でこのように語っています。
“わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。”ヨハネ15:15
「父から聞いたことをすべて、あなたがたに知らせた」というのです。その最後に話した「ぶどう園のたとえ」には、当然、神からの大きなメッセージが込められているのです。この「ぶどう園のたとえ」の意味を完全に知るためには、旧約聖書から見ていかなければいけません。神様は旧約において、たびたびイスラエルを「ぶどう畑」と表現しています。
イザヤ5:1-7を読んでみましょう。
“「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。さあ、今度はわたしがあなたがたに知らせよう。わたしが、わがぶどう畑に対してすることを。わたしはその垣を取り払い、荒れすたれるに任せ、その石垣を崩して、踏みつけられるままにする。わたしはこれを滅びるままにしておく。枝は下ろされず、草は刈られず、茨やおどろが生い茂る。わたしは雨雲に命じて、この上に雨を降らせないようにする。」万軍の【主】のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴。”
イスラエルは「主のぶどう畑」と言われています。そのぶどう畑の主人は「父なる神様」です。神様はそこから良いぶどうを得ようとして、石を取り除き、耕し、良いぶどうを植えたのに、そこからできたのは酸いぶどうだったのです。だから主人である神様は、このぶどう畑をしばらくの間、荒れるに任せたのです。
しかし、時が来て、ついに神様はそこに「イエス・キリスト」というまことのぶどうの木を植えられました。
この「主のぶどう畑」のストーリーは、神とイエス・キリストだけでは完成しません。ぶどう畑の主人である神の目的はあくまで「良いぶどうの収穫」だからです。ぶどうの実はぶどうの枝からなります。そして、枝は「私たち」です。ヨハネ15:4-5を読みましょう。
“わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。”ヨハネ15:4-5
ぶどうの木だけで実は結べませんが、ぶどうの枝だけでも実はなりません。枝は幹に繋がってはじめて実を結べるのです。しかし、枝である私たちは自分の努力で実をならせて、結果を評価してもらおうとする傾向にあります。枝が自分の力で実を結ぶことができないのは明らかですし、神様もそんなことを求めているのではありません。
4. キリストに繋がること
枝である私たちが力を注ぐべきは、キリストに繋がることです。それは「信仰」と「祈り」と「みことば」によります。どんなときもイエス様への信仰をもつこと、イエス・キリストの御名で祈ること、みことばに聞き従うことによって、イエス様と繋がるのです。
そしてイエス様に繋がった私たちが実を結ぶために、大切なことをイエス様は命じられました。それがヨハネ15:17に書かれています。
“あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。”
イエス様に繋がった私たちが互いに愛し合うときに実は結ばれるのです。この直前のヨハネ13:34-35でも、イエス様は弟子たちに新しい戒めとして「互いに愛し合うこと」を命じておられます。
農夫である父なる神の喜びは「ぶどう畑に良い実を実らせること」です。それは、ぶどう畑に植えられたイエス・キリストに、枝として繋がった私たちが互いに愛し合うことによって結ばれる実です。その実を神は喜ばれるのです。イエス・キリストと繋がったいま、私たちは神の喜びを受けるだけでなく、自分たちから能動的に神を喜ばせることができるようになったのです。
さらに「喜び」という視点でヨハネ15:7-8にも目をとめてみましょう。
“あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。”ヨハネ15:7-8
「私たちが求めるとき、それはかなえられる」とあります。これは「祈り」のことです。祈りが応えられることを通して、私たちの喜びはさらに大きくなるのです。あなたの祈りの時間は「喜びのとき」となっているでしょうか。
これらの「ぶどう園のたとえ」をイエス様は、私たちの喜びが満ちあふれるために話したと語っておられます。ヨハネ15:11です。
“わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。”ヨハネ15:11
キリストに繋がること、神に祈り求めることが、私たちが神の喜びに満たされる秘訣です。農夫である父なる神の喜びは、私たちがキリストと繋がって実を結ぶことです。私たちの存在そのものを喜んでくださる神様を喜び、農夫の喜びを私たちの喜びとするために、互いに愛し合い、実を結ぶ人生を送りましょう。
神がこの教会に送られた一人ひとりを愛し、教会が置かれたこの地域を愛していきましょう。私たちが実を結ぶことで父なる神は栄光をお受けになるのです。
「神の喜びが私の喜びとなる」ということと、「父なる神が喜ばれることを喜びとする」ことによって、私たちは喜びの人生を送ることができます。