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2024年5月12日 栄光の奥義
2024年5月12日 栄光の奥義
コロサイ人への手紙 1章27節 木島浩子 伝道師
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2024年5月12日 栄光の奥義
コロサイ人への手紙 1章27節 木島浩子 伝道師
「母」という漢字にある二つの点は、子どもにおっぱいを与える乳房です。子どもが胎内にいるときも、母体の栄養が、優先的に回されるので、つわりでろくに食べられなくとも、子どもは栄養失調になりません。細胞自体、母が子を「生かす」仕組みなのです。
古い言い方ですが、「女は弱し、されど母は強し、ということばがあります。
モンゴルのウランバートル、というところに住んで直ぐの頃、国は自由化されたばかりで、物資が不足しており、日々の食糧は配給でした。私が配給を受ける列に並ぶと、金を持っている外人は来るな。母国で食べろ、と罵声が飛びました。やっと、番が来た、と思ったら無視されて後ろの人にパンが渡る、ということもあった。それでも列にしがみついたのは、私が母だったからです。お母さんがパンをもらってくれる、と信頼している子供を、背中に負ぶっていたからです。
「日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りを、あの頃ほど真剣に覚えたことはありません。今日も本当に厳しい状況で、命を懸けて祈っている母がいることを想います。
モーセの母と同じように
旧約聖書にモーセという指導者が出てきます。どうして育ったか。エジプトは、奴隷のイスラエルに男の子が生まれたらナイル川に投げ込め、と命じました。支配の力を保つためです。しかし、モーセの母は、ファラオの命令に背く力がありました。巨人のような腕力ではない。戦略でもない。
彼女は身ごもって男の子を産み、その子が可愛いのを見て三ヶ月間その子を隠しておいた。
出エジプト2:2
かわいいのを見て、です。無心におっぱいを吸う唇、ふんふんと呼吸する鼻にナイルの水が容赦なく入って沈んでいく。そう考えただけで、はらわたがよじれるようで、自分が引きちぎられた方がよっぽどましと思えるのです。まして愛の神さまは、そんなことを黙って見ていられるはずがないと信じる強さがあった。隠された子は3か月後、籠でナイルを漂い、何と、エジプトの王家に届きます。
ファラオの娘は母親に言った「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう。」
出エジプト2:9
奴隷はもう隠れる必要はありません。ファラオから養育費を取り、やがてモーセを中心に国ごと出エジプトするのです。
今、主は、同じように「わたしに代わって乳を飲ませてください。わたしがその代価を払いきった」と、語っておられます。
天のことを知る霊による知識
人はもともと神さまの子どもです。本当の親である造り主を、ダビデ王は、このように告白しました。
あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。私は感謝します。あなたは奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私の魂は、それをよく知っています。私が隠れた所で造られ地の深い所で織り上げられたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが記されました。私のために造られた日々がしかもその一日もないうちに。
詩篇139:13~16
あなたは、自分が霊的な存在だ、ということをご存じですか。
人は、普段考えたり、知ったり、感じたりする領域とは別に、天のことを知る霊を持って生まれています。天のことを知るには、神から知識を受けなければなりませんが、人の罪が、神との間に入り、隔ての壁となってしまいました。
人が罪を犯した日、主は言われました。
あなたは顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土に帰るのだ。
創世記3:19
私たちが知る、死の姿です。ただ、これが神のみこころの全貌ではありません。やがて人類にはっきり開かれる奥義があったのです。
この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
コロサイ1:27b
ルカ3:23に、イエス・キリストが人として来られた系図があります。
「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、……」、全部はたどりませんが、一番初めまの人まで遡るとアダムの名があります。死の定めを受け取った人です。キリストは、アダムが神から断ち切られた罪の結果をすべて引き受けるため、人として十字架の刑罰を受けました。この方がよみがえられた造り主なる神との関係が回復したのです。
アダムにあってすべての人が死んでいるようにキリストにあってすべての人が生かされる。
Ⅰコリント15:22
これが、隠されていた奥義、栄光の望みです。そう。知っている、と言われる方は多いでしょう。ただ、天の知識は、神の愛の深みから語られています。主イエスを救い主として迎えると、聖霊さまという、神の知識や出来事をすべてご存じのお方が、その人のうちに来られ、隠されていた神の心を開示されるのです。それで人は「真の知識」を理解します。求めるにしたがって、さらに深くです。
しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。それを神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。
Ⅰコリント2:9
……私たちはこの世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。
Ⅰコリント2:12
復活の主との出会い
復活の御身体で主が、マリアに語られた福音を聞きましょう。
「…私の兄弟の所に行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
ヨハネ20:17
使徒たちが目で見た十字架は恐怖の刑罰でした。しかし主は、恐れている使徒のところに行って慰めなさい、とは言われない。わたしの兄弟たちのところ。神についても、「わたしの父でありあなたがたの父」、と語られました。
罪が赦され、滅び失せなかったという事実だけでも、どれほどのことなのか。さらには主が、あなたはわたしの兄弟、全知全能の神はあなたのお父さんなんだよ。完成した神の国に、あなたはわたしと一緒に住むんだよ、と言われたのです。
この愛を、そうなのか、と完全理解できるでしょうか。使徒たちも初めこの世のレベルで受け止めたようで、すぐにこんな質問をします。
使徒たちは一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ、イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」イエスは彼らに言われた。いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
使徒1:6
天には、すでに人に開かれたものと、まだ隠されているものがあります。人が受けるに最もふさわしい時期があるのです。十字架の救いも、はじめは隠されていました。もし、十字架が私たちの救い救いであると、最初からはっきりしていたとしたら。闇の力も当然知って、イエスを十字架につけたりはしなかったでしょう。むしろ必死で止めたはずです。
救い主が預言通りベツレヘムに誕生したという情報を得たとき、サタンは恐れました。救い主が人類の光となると知って、赤子のうちに葬らなければと考えました。失敗すると今度は、あらゆる手管で十字架に追いやりました。イエスの死は闇の勝利だと確信していたからです。しかし、闇は光に打ち勝たなかった。死は勝利にのまれてしまったのです。
復活の証人の務め
復活の証人の務めは、こんなにも大切な働きです。神さまの愛によって開示されたことを、聖霊と一緒に、告知していくのです。天の知識に開かれた使徒たちは、人々を次々いのちに移しました。皆は生まれたばかりの乳飲み子のようにみことばを受けました。
ちょうどそのころのことです。
そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。そこで十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばを後回しにして食卓のことに仕えるのは良くありません。そこで兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。
使徒6:1
十二人は、食卓の奉仕がみことばの奉仕に劣ると言ったのではありません。証人としての働きが急務だったのです。当時、夫に先立たれた女性は、収入を得る手立てがありませんし、福祉も整っていませんから、別の家族や親族に頼るしかなかったわけです。キリストを信じたら、親類、縁者からも迫害されそうだ、と考える人も多かったでしょう。乳飲み子を連れ、配給に並ぶお母さん、伴侶を失った女性を受け止める側にも、真の知識をしっかりと語る必要があった。同時に知識が実践となり、文化の壁を超えてキリストの愛が届くように働きは広がったのです。
七人のリストの最初に書かれたステパノは、民衆や律法学者たちの陰謀で、石打の刑に処せれます。モーセと神を攻撃した、と告発されたのです。他者を生かすはずの人が冤罪で死刑になる。人の目には当然理解できないことです。
敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のためにたいへん悲しんだ。
使徒8:2
配給係をともにした6人も本当に驚き、悲しかったでしょう。
人生で、悲しかった体験は、と聞かれたら、別れの体験をあげる人は多いかと思います。特に、「死別」です。親しい人を葬る時、なぜ、悲しいでしょうか。すべてが土に帰るからではなく、愛が残るからだと思います。顔を思い出し、まだ愛する。ぬくもりを思い返し愛があふれる。交わした会話や、またあのことを一緒にしようと言った約束が果たせないままだから、愛が涙になるのです。そうしたとき人は、この世にある、どんなものをもってしても、埋まらない領域が自分のうちにある、という感覚を知ります。
エルサレムも、ユダヤも、そしてサマリアも、そんな感覚に渇いていたでしょう。
散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、彼が行っていたしるしを見て、彼が語ることに関心を抱くようになった。
使徒8:4~6
ここでのしるしとは、信じた人の身体が癒され、福音のいのちに生き始めた変化です。霊のいのちは変化をもたらします。それに対して死は変質をもたらすだけです。悲しみの霊を放置すると絶望に変質するし、希望も人の意志だけが握っていればやはり、絶望に変質します。一方で、主を信じたあの人の変化はどうだろう。人々は天のいのちの方に惹かれていったのです。
ピリポは、この結果を見て、感謝したでしょう。その先もずっとサマリアでみことばを伝えようとは思わなかったでしょうか。多くの者が奥義に開かれたならそれは働く者の冥利に尽きます。ところが神さまの計画は違いました。
世の常識を超えた神の計画
「そこは荒野である」、とわざわざ書くのは、何のために行くのかわからないような場所、という意味です。主はたった一人のエチオピア人を愛して、リバイバルに沸き立つ町から証人を引き抜いたのです。
ピリポの足跡をたどると、彼が従順だとか、臨機応変だということとは別の、存在そのものが見えて来る気がします。人が宇宙に存在する価値は、その人が神に勝ち取られることにあって自分が何かを勝ち取ることにはない、と分かります。
ステパノ殺害には、サウロという青年の存在がありました。この青年にも福音が届きました。
使徒21章には、サウロ、後の神の器パウロの、3度目の宣教旅行が記録されています。
私たちはツロからの航海を終えてプトレマイスに着いた。そこの兄弟たちにあいさつをして、彼らのところに一日滞在した。翌日そこを出発して、カイサリアに着くと、あの七人の一人である伝道者ピリポの家に行き、そこに滞在した。
使徒の働き21:7
迫害の首謀者と、迫害を受け、散らされた者。双方が兄弟となって主をたたえているのです。これほど世の常識を超えた、愛の限界を超えた食卓があるでしょうか。大切な友人が死んだのは、こいつのせい。かつて、あなたの友人を殺したのは私。二人がなぜ、一つとなれるのでしょう。聖徒たちが受け継ぐ者がどれほど栄光に富んだものかが分かったのです。
放蕩息子のたとえの示すもの
イエスさまはルカ15章で、ある兄弟のたとえ話をされました。お金を使いまくって放蕩する弟息子を痛み、生きているのか、どうしているのかと身もだえする親がいます。兄は、父の涙を知りながら、弟を捜しに行かない。ボロボロになって戻った時にもおかえりすら言いません。弟を迎える父とも会いたくないのです。弟が赦せないことをしたからです。赦されないだろうと弟も知っているからなかなか帰れなかった。
イエスさまはどんなタイミングでこの話を切り出されたのでしょう。
さて、取税人たちや、罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
ルカ15:1
罪人との食事に文句を言った人がいた。パリサイ人、律法学者たちです。
イエスさまの時代は、ローマがユダヤを占領していました。ローマはユダヤを治めるために、一人のエドム人を王として立てました。有名なヘロデ大王です。王の立場をもらった彼は、帝国に阿り、帝国推奨のヘレニズム文化をユダヤに持ち込みました。その勢力に反発したグループがパリサイ派です。モーセの神に従わないものはユダヤから排除せよと、厳しい態度を取っていました。サウロもこのパリサイ派に属し、イエスを神としたステパノたちを迫害したのです。後に彼は言います。
覆いは除かれる
しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。
Ⅱコリント3:14
今、私たちが神のことばとしているのは聖書全体ですが、当時はモーセの書いた部だけ分でした。しかしいつの時代もことばとなられた神ご自身が、いのちです。心に覆いが掛かると、文字は読んでも、いのちに触れられません。自分だけで捉えることばは変質します。パリサイ人にとっては、聖書は人を縛る命令の書でした。またある人は、聖書の言う救いや希望が、何度も聴いたものとなり、自分の内側に影響を及ぼさない、と感じられるかもしれません。
もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを置いているのなら、私たちはすべての人の中で最も哀れな者です。
Ⅰコリント15:19
パウロもそうでした。超エリートとして極めた学問の知識は、彼を生かしませんでした。イエスこそキリスト、我が主、パウロはこの方に立ち返りました。覆いが取り除けられて、初めて知った。罪人のかしらである者をキリストは兄弟とぶことを恥とはせず、お帰り、良く帰って来たと言われる。自分にそんな資格があるなんて。神の御子が十字架に架かるほどの愛を受ける価値があるなんて。
神の国の食卓の、あなたの席を、主は整え終えられました。罪の身代わりに十字架に架かり、完了した、と宣言されました。
今、日本も、キリストの宣言のただ中にあります。近隣諸国の人たちを蹂躙し、戦下で虐待、殺戮を繰り返した日本を、シンガポールの人も台湾の人も韓国の人も、中国の人も、愛する兄弟を捜索するように、食を断ち、今日はあの被災地、明日はここ、と都道府県名をあげ祈っている。これは普通のことではありません。ヨーロッパ諸国も同じです。自分の国の働きを中断してでも、日本に来ます、という連絡が世界から届いて、来月再来月の週末がどんどん埋まって調整が必要なほどなのです。万軍の主の熱心でなくて、どう説明できるでしょうか。一人一人が抱き込んでいる虚しさに完了した、という知らせが届くときです。
あなたが生まれたことには、あなたも知らない意味があります。天の知識が開示されればされるほど、それは明らかにされます。あなたが本来のいのちに立ち返ると、キリストを通して次の人、また次の人と、いのちはつながっていくのです。
主の御名を信じ、いのちに生かされていきましょう。