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2024年7月7日 教会とは⑤

2024年7月7日 教会とは⑤
使徒の働き5章12〜16節 池田恵賜 主任牧師

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2024年7月7日 教会とは⑤
使徒の働き5章12〜16節 池田恵賜 主任牧師

ある牧師先生は「聖書は2つの言葉でできている。それはComeとGoだ」と言いました。

「Come」

「Come」。それは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」というイエス様のことばに表されている「福音」のことです。福音はすべての人に開かれていて「来なさい」と、私たちを招いているのです。

「Go」

そして「Go」。これは「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と言われたイエス様の大宣教命令を指しています。神様は、イエス様の十字架の死と復活によって完成した福音を宣べ伝えるように聖霊を送り、教会を建て上げたのです。

「ComeとGo。聖書は2つの言葉からできている」とはよく言い当てているなと思います。

そして、この「ComeとGo」、つまり「福音と宣教」は、まさに使徒の働きの中心テーマです。このように聖書全体から見ても、使徒の働きは「神のご計画の集大成が描かれている」と言えます。ですから、私たちは「使徒の働き」を通して、現代にも通じる「教会に対する神のみこころ」を知ることができるのです。さて、ここまで1ヶ月にわたり使徒の働きを通して「教会とは何か」ということを考えてきました。今日も、神が求めておられる「教会の在り方」について考えていきましょう。

今日は「福音と喜び」ということを見ていきましょう。

福音が広がった原動力

ペンテコステのあと、福音は各地に広がり、教会が建て上がりました。教会と言っても、まだこの当時、専用の教会堂を建てていたわけではありません。信徒たちはユダヤ教の会堂や集会所に集まったり、あるいは信徒の家を開放した家の教会に集まったりしていたのです。

建物も、経済的な基盤も、しっかりとした組織もありません。しかし、教会は確実に広がっていきました。その原動力となったのが、ペンテコステのときに救われた人たちです。彼らは迫害を受け、エルサレムを追われましたが、そのことに不平、不満を言ったり、悲観したりすることなく、福音を伝えながら歩いたのです。使徒8:4を読んでみましょう。

散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。”使徒8:4

さらに、使徒11:19-21も読んでおきましょう。

“さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。”

福音はアンティオキアで異邦人にも伝わり、更に大勢の人たちが救われていったのです。これも迫害により散らされた人々が原動力となったのです。彼らはユダヤ人でしたから律法に関するある程度の知識は持っていたでしょう。しかし、福音を伝えるための専門の学びを受けたわけではありません。それでも彼らは救われた喜びを語らずにはいられなかったのです。

そして、彼らの喜びは本物でした。彼らは信仰ゆえに迫害され、住む場所を追われましたが、その程度では彼らの喜びは取り去られなかったのです。不平、不満を抱えたままでは福音は広がりません。福音を伝える側が喜んでいるからこそ、その喜びが伝搬していくのです。

福音が伝えられたサマリアの町の様子が、使徒8:8でこのように書かれています。

その町には、大きな喜びがあった。”使徒8:8

町全体に広がるほどの喜び。彼らがもっていた喜びはそれほどの影響力があったのです。初代教会では、このようにして福音とともに喜びが広がったことを覚えましょう。

2つのグループ

(☆)一方、使徒の働き5:12-14では、福音が広がった時の様子がこのように書かれています。

さて、使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われた。皆は心を一つにしてソロモンの回廊にいた。ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた。そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。”使徒5:12-14

パッと読むと「ん?」と「?」がいくつか出てくるような文章です。「ほかの人たちはだれも彼らの仲間に加わろうとしなかったが、主を信じる者たちはますます増えた」とは、いったいどういうことだろうかと考えてしまいます。私もいくつかの注解書を読みましたが、統一した見解はありませんでした。

そこで私は考えました。考えた中で「きっとここには2つのグループがいたのだ」と思うようになりました。

1つ目のグループは、少し外側に立って遠目でイエスの弟子たちを観察している人たちです。彼らは深入りしないように適度な距離を取っていましたが、「イエスの弟子たちはいいことをしているではないか」と尊敬していたというのです。しかし、決して弟子たちの仲間に加わろうとはしなかったのです。

2つ目のグループは、素直に主を信じてクリスチャンとなり、弟子たちの集まりに加わっていった人たちです。

仲間に加わろうとしなかった人たち、また仲間に加わった人たち、何がこの2つのグループを分けたのでしょうか。そして、もし、あなたが2000年前のその場にいたら、どちらのグループにいたと思うでしょうか?

この2つのグループを分けたもの、私はそのヒントが、続く5章15節以降に書かれているのではないかと思います。使徒5:15-16です。

そしてついには、病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせて、ペテロが通りかかるときには、せめてその影だけでも、病人のだれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレム付近の町々から大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を連れて集まって来た。その人々はみな癒やされた。”

ここには病を癒やしてもらったり、悪霊を追い出してもらったりした人たちの様子が書かれています。彼らはみな困難、苦しみ、問題を抱えていた人たちです。あるいは、そのような人たちの家族や関係者、彼らの面倒を見ていた人たちです。本人たちの苦しみを見て、何とかならないかと、エルサレムにいるペテロのところにまで連れてきたのです。

そして「その人々はみな癒やされた」とあります。彼らは苦しみから解放されたのです。きっと、そのような人たちが主を信じて、弟子たちの仲間に加わっていったのだと思います。

困難は喜びに変わる

福音は喜びとともに広がっていきました。その喜びは、迫害や他の何をもっても取り除かれなかったのです。自分や家族を苦しめていた問題、困難が福音によって解決したからです。だから、これだけの勢いをもって福音は広がっていったのです。そして、福音にはそれだけの力があるのです。

ですから、今日私は「問題・困難を抱えている人は幸いです」と言いたいのです。教会は福音の力によってあなたの問題が解決されるところだからです。2000年前に初代教会の周りにいた人たちが体験した福音の力は、少しも薄まることなく、現代にまで続いています。

教会は、いまも人々に希望と癒やしと解放を与える場所です。あなたの抱えている問題は解決されます。あなたもあなたの家族も喜びに満ち溢れるようになります。そのことを信じましょう。

一番の問題

そのために、私たちは一番大きな問題を解決しなければいけません。私たち人間が共通して抱えている一番大きな問題、それは「私たちを造られた神様との関係が切れてしまった」ということです。

神様は、私たちを造り、私たちのことを何よりも大切にして、愛に満ち、いつも私たちに最善を用意してくださるお方です。しかし、私たちはこの神様に背を向けて、無視して生きてきました。「私は自分の人生を自分の思ったように自由に生きるんだ」という考えは、「神なんて必要ない」と言っているのと同じです。

そのように生きることを「罪」と言います。「罪」をもったままで生きている人は神から遠ざかるのです。そして、その先にあるのは永遠の滅びです。私たちは地上で生きている間に、私を愛しておられる神との関係を回復させる必要があります。なぜなら、神様こそがすべてのものの「いのちの源」であるからです。

救いのメッセージと悔い改め

ペテロはこのことを、イエスを十字架につけた人たちに向かって語ったのです。使徒2:36です。

ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。”使徒2:36

これを聞いた人たちはどうしたでしょうか。ペテロに対してキレて逆上したでしょうか。いいえ、彼らはペテロのメッセージに心を動かされたのです。使徒2:37です。

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。”使徒2:37

ペテロのメッセージを受け止めた群衆は精神的に追い詰められました。「私たちが救い主を殺してしまったのか。それなら私たちはいったいどうしたらいいんだ」。そう思った彼らはペテロたちに「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ねたのです。

ペテロの答えはこうでした。使徒2:38-39です。

そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」”使徒2:38-39

ペテロは「悔い改めて、バプテスマを受けなさい」と勧めました。救い主を十字架につけた人々にも救いがあったのです。福音は英語で「Good News(良い知らせ)」と言います。「どのような人にも救いの道が開かれている」というのが福音、良い知らせです。

私たちに語られている福音のメッセージ

私たちもペテロが語ったように、私を造ってくださった神様との関係を切って、神様を無視し、神様に背を向けて歩んできたのは「私の罪です」と認めて、悔い改めるところから始めなければいけません。

そのようにして、人間にとって一番大きな問題である「神様との関係」を修復したならば、神様は他のあらゆる問題も解決してくださいます。神とあなたの関係が回復し、あなたの内に聖霊なる神様が住んでくださるのです。聖霊なる神様はいつもあなたとともにいて、助けてくださるからです。そこには喜びがあります。その喜びをあなたから取り去るものはこの世に存在しません。そして、その喜びが福音とともに広がっていくのです。

広がってはいけないもの

しかし、喜びが広がっていくときに決して広がってはいけないものがあります。神様はそのことを教えるために厳しい対応もされています。使徒の働き5章にはアナニヤとサッピラという夫婦が登場します。この夫婦はささげた献金の額を偽って報告したため死んでしまいました。使徒5:1-5です。

ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。”使徒5:1-5

このあと妻のサッピラも「ささげたものがすべてだ」と言って、同じように「息が絶えた」と書かれています。ペテロが語っているように彼らの財産は彼らのもので、土地を売った後も自由に使ってよかったのです。すべての献げなかったことが問題なのではなく、神の前に嘘をついたこと、神を欺こうとしたことが罪なのです。このように嘘や欺きというものは絶対に広がってはいけないものです。

さらにアナニヤとサッピラの他にも、サマリアの町でシモンという人物が使徒たちから「御霊を与える権威」を金で買おうとしてペテロに戒められます。使徒8:18-23です。

シモンは、使徒たちが手を置くことで御霊が与えられるのを見て、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置く者がだれでも聖霊を受けられるように、その権威を私にも下さい」と言った。しかし、ペテロは彼に言った。「おまえの金は、おまえとともに滅びるがよい。おまえが金で神の賜物を手に入れようと思っているからだ。おまえは、このことに何の関係もないし、あずかることもできない。おまえの心が神の前に正しくないからだ。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈れ。もしかしたら、心に抱いた思いが赦されるかもしれない。おまえが苦い悪意と、不義の束縛の中にいることが、私には見えるのだ。」”使徒8:18-23

シモンの中には悪意や欺瞞、正しくない心がありました。このようなものも決して広げてはいけないものです。教会には、福音とそれに伴う喜びがあります。しかし、そこに人間の欲がくっつくことがあるのです。それらは取り去られなければいけません。どうしたら良いでしょうか。使徒6章で教会の中で問題が起きた時、使徒たちはこのように言いました。使徒6:2-4です。

そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」”使徒6:2-4

ここで大切にされているのは、祈りとみことばです。そして御霊と知恵に満ちることです。教会の中にいつも祈りとみことばがあり、御霊と知恵に満ちた人々がいることが大切です。そうするときに教会は世に対して、しっかりと向き合い、困難、苦しみを抱えている人々に癒しと解放、喜びを与える存在となるのです。

かつて初代教会がそうであったように、私たちもこの時代、横浜に、この日本に建てられた教会として、福音の喜びを広げる教会として用いられるように、祈り求めていきましょう。

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