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2024.7.21 主にあって堅く立つ

2024.7.21 主にあって堅く立つ
エペソ人への手紙 6章10~18節 佐藤賢二 牧師

メッセージを読む

2024年7月21日 主にあって堅く立つ
エペソ人への手紙 6章10~18節

私たちはこの数週間、恵賜先生を通して「教会とは」というテーマについて学んできました。「教会とは何か」ということは、私たちにとって非常に大きなテーマです。なぜなら、この時代「教会こそが神様の計画の中心」にあるからです。パウロは、この「教会とは何か」ということについてエペソ人への手紙の中で詳細に述べています。そして、その締めくくりとして書き記した言葉が、今日の聖書箇所になります。エペソ人への手紙6:10-18です。お読みします。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
エペソ人への手紙 6章10~18節

「終わりに言います」で始まるこの箇所は、何か背筋を正されるような響きを持っています。そして、この短い聖句の中に「堅く立つ」という言葉が、3度も繰り返されているのに目が留まります。私たちは、どんなことがあっても揺るがされないように、「堅く立つ」必要があるのです。その事を心に留めつつ、今日は、この箇所から、3つのポイントで見ていきたいと思います。

1. 私たちは霊的な戦いの現場にいる

    1番目のポイントは、「私たちは霊的な戦いの現場にいる」ということです。私たちが、本気で神の御心に従って歩もうとするときに、どうしてもそこには色々な問題が起こってきます。でもそのような時、私たちは、本当に気をつけなければなりません。目の前に見える問題そのものが問題なのではありません。その問題の背後に、私たちを付け狙って攻撃してくる悪しき存在がいること。それに気づかずに、悪魔の策略に翻弄されてしまうことが問題なのです。エペソ6: 12には、こうあります。

    私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
    エペソ人への手紙 6章12節

    悪魔は、実に巧妙です。それぞれの人の弱さや、ちょっとした行き違いなどを利用して、私たちを少しずつ揺さぶってきます。悪魔は身を隠し、嘘をつき、私たちを不安にさせ、落胆させ、頑なにさせ、あるいは高慢にさせ、分断させようとします。悪魔は、私たち一人ひとりが神様から離れて、実り豊かな人生を送れないように攻撃してきます。そして、教会が、この世で力ある働きをすることが出来ないように、攻撃します。ですから私たちは、この霊的な戦いのために、霊的な備えが必要だということです。

    でも、あらかじめ皆さんにお伝えしておきますが、私たちは悪魔を必要以上に恐れる必要はありません。なぜなら、私たちの主イエス・キリストは、すでに悪魔に勝利されたお方だからです。第1コリント15:54b-57にはこうあります。

    「死は勝利に呑み込まれた。」
    「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
    死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
    コリント人への手紙 第一 15章54b~57節

    悪魔は、神の御子を死に追いやれば、自分たちの勝利だと確信していたことでしょう。しかし、実際には、それこそが神のみわざだったのです。イエス・キリストは、死を打ち破り、勝利されました。イエス・キリストの復活は、私たちの勝利のしるしです。イエス・キリストの十字架と復活のみわざによって、私たちはすでに世に勝ったのです。ですから、主にある者は、恐れる必要はありません。

    しかし、侮ってはいけないのです。すでに敗北が決まっている悪魔ですが、最後の悪あがきをして、私たちを何とかして神様の祝福から引き離そうとしてくるのです。それが、この霊的な戦いです。ですから、私たちは敵を見誤ってはなりません。私たちの格闘は、人に対するものではなく、その背後に働いている悪しき力に対するものなのです。

    2. 私たちは主にあって、強められる

    今日2番目のポイントは、私たちは「主にあって」強められるのだということです。エペソ6:10では、「主にあって、その大能の力によって強められなさい」と言われています。霊的な戦いには、主ご自身の力が必要なのです。

    ここで注目したいのは、「主によって」ではなく、「主にあって」と書かれていることです。「主にあって」というのは、私たちが、主と親しい関係のうちに歩む事を指します。私たちは、キリストを離れては、何もすることが出来ません。ですから私たちは、「主のうちにある」ということを学んでいかなければならないのです。

    先日行われたRPGの特別集会で、一つ印象に残ったことがあります。RPGとはリバイバル・プレイヤー・グループ、すなわち「リバイバルのための祈りのグループ」のことです。しかし、講師の先生は、その場でこのRPGをもじって、Receiving Presence Gathering すなわち、「神の臨在を受け取るための集まり」だと表現したのです。神様は、本来どこにでもおられるお方です。でもイエス様は、あえて、2人でも3人でも、わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいると約束されたのです。主の臨在です。臨在というのは、見えない神様が、今確かにここにおられるという実感です。ですから私たちが祈る時、そこに現される神の臨在を受け取るということに、もっと意識を向ける必要があると語られたのです。

    私たちは、神の臨在を受け取るという力を、もっと活性化させる必要があります。小さな祈りの集まりに、また教会で集まって心を合わせて祈る時、神様はそこにいてくださいます。そして、私たちは「主にあって」、その全能なる神の力を受け取っていくのです。エペソ6:18にはこうあります。

    あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
    エペソ人への手紙 6章18節

    私たちは、御霊によって祈り、互いのために、忍耐の限りを尽くして祈る必要があります。祈りの目的は、私たちの願い事を神に無理矢理押し付けることではなく、神と交わり、神の臨在を受け取るためのものです。そして、その力強い臨在があるなら、私たちは主にあって、全能の神の力を受け取ることが出来るのです。

    3. 悪魔の策略に対して堅く立つ

    第3のポイントは、「悪魔の策略に対して堅く立つ」ということです。皆さん、戦いには「戦略」すなわち、勝利のための全体計画が必要です。神様にもその計画があります。以前、私はこのことについて、恵賜先生のメッセージを要約して、このような図にまとめた事があります。

    詳細は、2022年2月13日の礼拝メッセージで語っているので割愛しますが、興味のある方は、YouTube見ることが出来ますので確認してみて頂きたいと思います。これをまとめると、神の計画とは、私たち主にある者たちが互いに愛し合い、祈り、砕かれつつ、「福音伝道」と「神の愛の実践」を通して、この地に神の国が広げられていくことです。

    ここで私たちは、悪魔にも策略があるのだということに、注意したいと思います。悪魔の策略とは、このような神の計画を邪魔する事です。「策略」というのは、人を陥れるための計画や罠のことです。では、どのようにして邪魔をするのでしょうか。

    それは、私たちを「分断」させることによってです。残りの時間を使って、悪魔の用いる3つの分断について、そしてその対処について考えてみたいと思います。

    (1)神様との関係の分断

    まず1番目は、「神様との関係の分断」です。神様から切り離されてしまえば、悪魔にとって私たちは何も怖くありません。ですから、私たちの内側に不信感や落胆を与えて、何とかして神様ご自身に対する信仰・信頼を失わせようと攻撃してくるのです。この策略に対処するには、どうしたらよいでしょうか。エペソ6:16には、こうあります。

    これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます
    エペソ人への手紙 6章16節

    ここに、「信仰の盾」は、悪い者の攻撃から私たちを守ってくれるとあります。ですから、鍵は「信仰」です。ではその信仰を保ち続けるにはどうしたら良いのでしょうか。ヘブル12:2にはこのようにあります。

    信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
    ヘブル人への手紙 12章2節

    どんな状況の中にあっても、信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から、決して目を離さないということ。それに尽きます。イエス様が、どれほど大きなことを私のためにしてくださったのか、その愛を覚え、その愛の中にとどまるということです。私たちが、他のものに目を奪われたり、雑音が気になって、イエス様から目を離すような事があれば、それは、悪魔に攻撃の隙を与えることになります。ですから私たちは、毎日、意識的に神の愛に目を向けていく時間が必要なのです。

    (2)人との関係の分断

    2番目は、「人との関係の分断」です。私たちがキリストを中心として協力するとき、そこに大きな力が働くということを悪魔はよく知っています。ですから、私たちの互いの間に壁ができるようにと、色んなところを攻撃してくるのです。ちょっとした違い、ちょっとした行き違いに目を向けさせ、やがてそれがあまりにも大きくて乗り越えられないような障壁であるように感じさせてしまうのです。

    これは、教会の中でも起こる問題であると同時に、教会同士の間でも起こる問題です。日本は、まだクリスチャン人口が1%にも満たない、最も宣教が進んでいない国の一つです。でも、そんな日本には何と170以上の教団教派があるというのです。別にそれ自体は悪いことではないと思います。

    でも、それぞれの教団が、自分たちのアイデンティティは何かと説明しようとする時のことを想像してみてください。その時は恐らく、他とは違う独自の考えの部分を、自分達らしさとして強調することになると思います。すると、自分たちが大切にしている部分で違う考えの教派や人たちとの間に、だんだんと壁を作るようになっていってしまいます。もちろん、それらの主義主張の一つひとつは大切なことだと思いますし、尊重します。でも、それらは本来、私たちが持っている共通点、最も大切にしているイエス・キリストの福音そのものに比べれば、ほんの僅かな違いに過ぎないのです。だけど敵である悪魔は、それがあたかも取り返しのつかないほどの大きな問題のように感じさせ、私たちが一致して協力できないようにさせてしまうのです。

    では、私たちはどうしたら良いのでしょうか。エペソ4:2-4にはこうあります。

    謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。
    エペソ人への手紙 4章2~4節

    私たちは、一つのからだに連なるキリストのからだです。ですから、違いに目を向けるのではなく、まず一致している部分に目を向けて、そこを出発点として話をするべきです。お互いにひとつ体に属しているのに、手と足が、それぞれの違いで喧嘩するような、そんな馬鹿げたことはありません。ですから私たちは、キリストにある一つのからだに属するものとして、謙遜に、寛容に、愛を持って、平和を保つ努力をしていく必要があるのです。

    (3)神の計画の全体像の分断

    3番目は、「神の計画の全体像の分断」です。先ほども図に出して説明しましたが、神様の計画は、この地に、神の国を広げるというものです。そのための手段としては、福音をことばで宣べ伝える「福音伝道(エバンジェリズム)」と、御心を行う「神の愛の実践(ミッション)」が必要です。

    しかし、私たちの問題は、何か一つの働きの重要性を語られると、途端にバランスを欠いて、全体像が見えなくなってしまうという傾向があるということです。例えば、伝道が大事だ!と言われれば、そればかり取り組むようになり、神の愛の実践が大事だ!と言われれば、そちらの方が大事なような気がして、そればかり取り組むようになってしまうのです。悪魔は私たちのそのような傾向すらも、付け入って、神様の計画の全体像を分断させてしまうことがあるのです。

    本郷台キリスト教会では、「広い意味での教会」という概念で、地域に根ざした関連団体の働きを別法人で立ち上げ、「神の愛の実践」という形で神の国を広げようとしています。そのために立ち上がり、日々労しておられるお一人おひとりの働きに心から感謝します。でも、私たちがここで気をつけなければならないのは、その良い働き自体が目的となってしまわないようにという事です。もちろん、それらの関連団体自体の目的は「その良い働き」だと言うことも出来ます。でも教会は、神の声を聞き続け、神の計画のすべてを行なっていく必要があるのです。色々な違う働きがあります。規模や大きさは関係ありません。でも、私たちは心をひとつにして取り組んでいく必要があるのです。

    ですから、神様がこの働きを、主の教会に託されているということを重く受け止めていきたいと思うのです。神の計画の全体は、何かの目的のために人の考えによって作り出された、専門的な組織のみによっては実現することは出来ません。そこに教会という、互いに愛し合い、神の家族として一致を保ちながら歩むことができる、愛の共同体が不可欠なのです。

    今私たちは、この教会がさらに建て上げられていくために、新しい段階に入ろうとしています。このダイヤモンドチャペルに移ってきてから、すでに24年が経とうとしています。その時点でかなり古い建物でしたが、ここまで用いられてきたことを感謝します。でも正直、もうかなり限界が来ています。ですので、今私たちは、新しく会堂を建て替えるということを、現実的に具体的に検討し始めています。

    もちろん、教会は建物のことではありません。そして、大きい教会、小さい教会、いろんなタイプの教会があるのを、私もいろんなところで見てきました。でも、だからこそ、この本郷台の地に神様が望んでおられる御心はどのようなものかを、しっかりと受け止め、この地に神の国を広げていくことが出来るように、この地にふさわしい会堂建築に、取り組んでいきたいと思うのです。ぜひ、皆さんも祈っていただきたいと思います。

    そして、会堂建築も、地域に仕える働きも、福音伝道すらも、それ自体が目的となって、本末転倒になってしまうことがないように、気をつけなければなりません。

    エペソ6:13にはこのようにあります。

    ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
    エペソ人への手紙 6章13節

    私たちは、神の計画の一部分だけを分断して見るのではなく、「一切を成し遂げて堅く立つことが出来るように」、祈り、取り組んでいく必要があるのです。

    神のすべての武具を身につけましょう。そして、主にあって力を得て、主のために立ち上がりましょう。信仰に堅く立ち、どんなときにも、目を覚まして、御霊によって祈り続けましょう。忍耐の限りを尽くして、ともに祈り、格闘していきましょう。主の教会は、この世界の希望です。ともに、愛のうちに主の教会を建てあげていきましょう。

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