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2024年7月28日 祈りを教えてください

2024年7月28日 祈りを教えてください
ルカの福音書 11章1節 佐藤賢二 牧師

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2024年7月28日 祈りを教えてください
ルカの福音書 11章1節 佐藤賢二 牧師

今年、私たちは「よろこび、ひろがる、リバイバル」というテーマをいただいて、この地にリバイバルが与えられるようにと祈っています。主は私たちの祈りを、一つも地に落とすことなく、聞いてくださるお方です。そして、霊的な温度で言うと、今もうあと一歩というところまで来ているように思うのです。しかし、そうなるとそれを妨げようとする悪しき力も強く働いて来ます。先週も話しましたが、これは霊的な戦いだからです。ですから私たちは、目を覚まし続け、失望することなく、ますます熱心に祈り続け、ともに主のみわざをあがめさせて頂きたいと思います。

そんな中、今主は私たちの思いを遥かに超えて、世界的に用いられている器を、次々とこの本郷台の地に送ってくださっています。金曜日には、スティーブン・ヤング師とマット・マートン氏を迎えての講演会、そして昨日と今日は、ビル・ウィルソン師を迎えてのセミナーと合同礼拝を捧げられるという、普通では考えられない恵みが与えられています。主の目は、確実に、今ここに注がれています。その霊的な祝福を、一つも漏らさないように、受け止めさせて頂きたいと思うのです。

さて、今日のメッセージは、そんな中、先日行われた「RPG祈りのリバイバル特別集会」で教えられたことをもとに語るようにと示されています。RPG(リバイバル・プレイヤー・グループ)は、台湾のリバイバルの原動力となった祈りのムーブメントです。そして、このムーブメントは、今回私たちがお迎えした国際祈祷学院の講師の先生方の教えを受け、その炎を燃やし続けるためにと形作られたものだというのです。

ですから今、私たちも、RPGという祈りの形式だけでなく、その祈りの原点になるものを、御言葉からしっかりと受け取っていきたいと思います。それでは、今日の御言葉をお読みいたします。ルカ11:1です。

さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
ルカの福音書 11章1節

イエス様は、祈りの時間をとても大切にしていました。そして弟子たちは、イエス様が祈る姿を見て、聖なる飢え渇きが与えられたのです。もちろん、弟子たちは、それまでも祈りを知らなかったわけではないでしょう。弟子たちも祈ってはいたんです。でもイエス様の祈りは、明らかに自分たちの祈りとは違う。私も、このように祈る者になりたい。そう感じて、この弟子は思わず「私にも、祈りを教えてください」と求めたのだと思うのです。

1. 祈りを教えてください

皆さんにも、同じような経験があるでしょうか。誰かが祈っている姿に触れ、そのたたずまいを見て、聖なる飢え渇きが与えられる。思い返すと、私はまだ大学生ぐらいだった頃、早天祈祷会で登喜子先生が祈る姿に触れたときに、衝撃を受けたことを思い起こします。その当時は、御言葉の分かち合いをした後、各自が会堂でひざまずいて自由に祈っていました。すると、登喜子先生が個人の祈りの中で、まるでイエス様が、そこにおられるかのように、親しく、麗しく会話をしている姿を目の当たりにしたのです。そして、そこにあらわされている、圧倒的な主の臨在を覚えて、これが祈りか!と思ったのです。そして、私にも聖なる飢え渇きが与えられました。

それ以来、少しずつ、「祈る」ということを学び、祈りの中に主のご臨在と力を体験することもできるようになってきました。しかし、正直、今でも私自身はそのような祈りとは程遠く、今でも「祈り」という、真に霊的な働きに対して苦手意識があります。

でも今、もう一度主の前に「私に、祈りを教えてください」という、切なる願いが与えられています。皆さんはどうでしょうか。祈りにおいて、もっと成長したい、もっと力強く祈れるようになりたいと思わないでしょうか。ある意味、あの弟子の祈りのように、「私に、祈りを教えてください」という、祈りほど、シンプルで力強い祈りはないかも知れません。ですから、今、私たちもともに祈り求めていきたいと思います。「私に、祈りを教えてください」

2. 主の祈りの型にならう

さて、この「祈りを教えてください」という祈りに応えて、イエス様が与えてくださったのが、「主の祈り」です。「主の祈り」はこのルカ11章と、マタイ6章に出て来ますが、これらは2つの違った状況で語られたものです。ここでは、マタイ6:9-13を見てみたいと思います。

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』
マタイの福音書 6章9~13節

そして、聖書の脚注を見ると、後の写本にて以下の一文が加えられたとあります。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。

これは、マタイの原本にはなかったけれど、イエス様自身が祈ったと考えられる根拠がいくつもあるようです。ですので、これを含めた祈りを「主の祈り」として、私たちは告白しています。

しかしそれは、私たちが毎週の礼拝で、その祈りの言葉そのものを告白するためのものにとどまりません。そうではなく、むしろ「主の祈り」は、主が教えてくださった「祈りの型」「祈りのパターン」だと言うことが出来ます。なぜなら、ルカ11章では「こう言いなさい」と語られているのに対し、マタイ6章では「こう祈りなさい」と教えられているからです。

そして、この「祈りの型」には、鍵となる7つの要素があります。イエス様は「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と言われましたが、そこにはこれらの7つの部屋があるとイメージしてみてください。それがこちらです。

1番目の部屋は、関係。「神の愛を受け取る」部屋。
2番目は、礼拝。「主の御名を掲げる」部屋。
3番目は、統治。「御国の拡大を宣言する」部屋。
4番目は、神の子であること。「私たちの必要を求める」部屋。
5番目は、交わり。「関係を修復する」部屋。
6番目は、導き。「悪や罪と闘う」部屋。
7番目は、所有。「主に栄光をお返しする」部屋です。

これら一つひとつを見ていきたいと思います。

(1)神の愛を受け取る

第1番目は、「神の愛を受け取る」部屋です。私たちは、この祈りの家に入ったら、まずこの部屋に入り、「私たちの父よ」と祈ります。そしてまず初めに父なる神の愛を受け取るのです。私たちの祈りは、すべてこの父なる神様との愛の関係を知るところから始まります。

この「祈る方との関係」というのは、とても大切です。放蕩息子のことを考えてみてください。父の財産を食い潰して、我に返った放蕩息子がお父さんのもとに帰る時、彼は本気で「もう息子と呼ばれる資格はありません」と思ったんです。でも、一方の父親の方は、どんな時でもその両手を広げ、愛する息子が帰ってくるのを、今か今かと待っていてくださいました。そしてついに父の元にゆっくりと歩いてくる息子の姿を見て、お父さんの側から駆け寄って、「愛する我が子よ」と言って抱きしめてくれたのです。無条件の愛です。これが父なる神様の姿です。

私たちは、キリストにあって「父よ」「愛するお父さん」と呼びかけることが出来ます。そして、そこで父なる神様の「愛する我が子よ」という語り掛けをしっかりと受け取るのです。なぜならその関係こそが、祈りを単なる宗教的な義務から、喜びの交わりへと引き上げていくものだからです。

(2)主の御名を掲げる

第2番目は、「主の御名を掲げる」部屋です。聖書には神様の名前が非常に多く記されています。ユダヤの文化では、名前はその実質を表すと言われています。ですから、主の御名を掲げる、高く上げるということは、主のご性質をあがめ、宣言すると言うことなのです。

いくつか例を挙げてみましょう。主は、「わたしはある」と言われる方です。「不思議な助言者」「力ある神」「永遠の父」「平和の君」です。「羊飼い」であり、「インマヌエル(ともにいてくださるお方)」です。また「慰め主」「癒やし主」であり、何よりも私たちの「救い主」です。

神はただお一人ですが、多くの名前が与えられていることには意味があるのです。私たちは、自分の状況に相応しい神の御名、神のご性質に焦点を合わせ、その御名をあがめ、高く掲げることで、祈りがその高みへと引き上げられていくのです。

(3)御国の拡大を宣言する

第3番目は、「御国の拡大を宣言する」部屋です。「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈ることは、この地における神のご計画を祈り、宣言することです。まだ、神の御心のなされていない所を覚えて、御心がなされるようにと祈るということは、私たちの使命なのです。

また、御国のために祈るということは、聖霊の働きのために祈ることでもあります。ローマ14:17には、「神の国は・・・義と平和と聖霊による喜びだからです」と書いてあります。人々が罪を自覚し、悔い改め、救いの喜びにあずかることは、聖霊の働きそのものなのです。リバイバルのための祈りも、この御国の拡大に含まれます。

(4)私たちの必要を求める

第4番目は、「私たちの必要を求める」部屋です。私たちは、ここで父なる神の子供としての特権を用いて、私たちの必要を具体的に求めることが出来ます。

私たちの必要というのは、「日毎の糧」と「赦し」です。そこには、あらゆる物質的、経済的、感情的、霊的なニーズが含まれます。神様は、私たちの必要を満たしてくださるとともに、「赦し」という形で、私たちのうちから不要なゴミを取り除いてくれるのです。

(5)関係を修復する

第5番目は、「関係を修復する」部屋です。ここは、私たちが人を赦す宣言をするところです。イエス様から受け取った赦しによって、私たちも赦しを与えることが出来ます。

その結果、私たちの間にある隔ての壁が砕かれ、「関係の修復」という恵みをいただくことが出来ます。私たちは、この地に「平和」と「和解」をもたらす存在となるのです。

(6)悪や罪と闘う

第6番目は、「悪や罪と闘う」部屋です。私たちの大きな敵は2つあります。それは、「罪」と「悪魔」です。私たちは霊的な戦いのうちにあります。ですから、私たち自身が、足元をすくわれることがないように罪と戦い、物事の背後にある悪魔の策略に立ち向かう必要があるのです。

(7)主に栄光をお返しする

第7番目は、「主に栄光をお返しする」部屋です。私たちは、これまでの部屋で様々なものを受け取ってきました。それら全てを受け取った上で、「これらすべてはあなたのものです。あなたがすべての栄光をお取りください」と言って主にお返しするのです。

イザヤ書の御言葉に、私たちは「主の栄光のために創造された」とあります。私たちの祈りが聞かれること自体、主の栄光です。しかし私たち自身が、意識して「すべての栄光は主です」と告白し、主に栄光をお返しして歩む必要があるのです。

さて、今まで見てきた7つの部屋を思い起こしてみてください。皆さんが、一番時間をかけて過ごしているという部屋はどこでしょうか。逆に、自分が最も時間をかけていない部屋はどこでしょうか。神様は、どの部分にもっと時間を費やすようにと語っておられるでしょうか。それぞれ、主に探っていただきたいと思います。

かつての私を振り返った時、私の祈りはこんな感じでした。

まず、この祈りの家に来たときに、1番目の部屋で父なる神様が迎えているにもかかわらず、そこでほとんど時間を過ごすこともなく、2番目、3番目の部屋もすっ飛ばして、すぐに第4の部屋に入るのです。

そして、「神様、私にはあれがありません。あれが欲しいです。お金が足りません。あわれんでください。」と、ひたすら自分の必要ばかり求めてしまっている。その上、自分の本当の必要というのがよく分かっていなくて、祈りが支離滅裂だったように思うのです。祈りのリストや、祈祷課題を用いて祈る時であっても、基本的には、日毎の糧を与えてくださいという祈りであることに、変わりありません。そしてそれが終わると、第5の部屋、第6の部屋、第7に部屋もすっ飛ばして、「じゃあ、神様、よろしく!」と言って、祈りの家から出てしまう。私の祈りは、本当にそんな感じでした。

皆さんはどうでしょうか。主の祈りを、「祈りの型」として用いるとき、私たちの祈りは豊かにされます。

講師の先生は、1時間祈る時には、それぞれの部屋で10分ずつ過ごすことを目安に祈っていると言っていました。この1週間の中で、私もそのような時間をとってみました。それはとても素晴らしい時間でした。ぜひ、この「主の祈りの型」を皆さんの祈りの生活に生かしていっていただきたいと思います。

3. 孤児の霊を打ち砕く

さて最後に、私たちの祈りの生活の敵となるものについて考えてみたいと思います。それは、「孤児の霊」です。孤児の霊というのは、霊的な父親がいないかのように振る舞ってしまうことです。私たちは、イエス・キリストを信じて、神の子どもとされました。ですから、もう孤児ではありません。それなのに、霊的な孤児であるかのように感じさせようとする、悪しき霊です。

悪魔が私たちの心に、様々な嘘を吹き込み、私たちを神の愛から引き離そうとするのです。私たちは、もっと神の子どもらしく、神の子どもとして祈るべきです。ローマ8:15には、このようにあります。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
ローマ人への手紙 8章15節

イエス様は、いつも父なる神様と一緒でした。だから、この地上での歩みにおいても、「アバ、父」と親しく呼びかけ、いつも交わっていたのです。そして、神様は、このイエス様と過ごす親密さを、私たちにも与えてくださるというのです。

子どもとして、何のためらいもなく、お父さんの元に飛び込んでいき、お父さんの愛を思う存分受け取ることが出来るのいうのは、素晴らしい特権です。

私の娘たちは、時々、私にピッタリとくっついてきて「ねえ、パパー。・・・大好き!」と言ってくれることがあります。私は嬉しくなって、「そう、ありがとう。パパも大好きだよ。」と答えます。またある時は、「ねえ、パパー。・・・ギューして!」と言ってきます。かわいいでしょ?そういう時は、もちろん思いっきりギューってしてあげます。しばらくすると「充電完了!」とか言って、満足そうにしているのです。

そうやって素直にお父さんとの関係を求め、そこに憩い、満たされることが出来るというのは、本当に素敵だなと思うのです。まあ私に対して、いつまでそんな風にストレートに表現してくれるかは分かりませんが、天のお父さんともそのようにして時間を過ごすことを学んで、神様の愛をいっぱい受け取れるようになってくれればいいなと思うのです。

自分は神の子どもだという確信をもって祈る祈りは、単なる物乞いのような祈りとは、まったく質が異なるものになります。

いや、私は自分のお父さんに対して、そのような関係が持てなかったという人も多いと思います。私もそうです。私の場合、別に関係が悪かったわけではありませんが、そんな風に素直にその関係の中に憩い、素直に自分の願いを伝えることは出来ませんでした。

でも神様は、私たちの本当の父となってくださったのです。イエス・キリストを通して、父なる神様との交わりが回復させられたのです。私たちは、皆、父なる神様との親しい交わりと、そこからくる祝福を受け取ることが出来るのです。必要のある方は、ぜひこの第1の部屋で、ゆっくり時間を過ごしてみてください。

神様の愛に思いを向けて、主よあなたを愛しますと告白していきたいと思います。

そして、あなたの喜びが私の喜びですと宣言していきましょう。

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