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2024年9月8日 イエスの十字架①〜裁きの十字架、闇から光へ〜
2024年9月1日 イエスの十字架①〜裁きの十字架、闇から光へ
マルコの福音書 15章33~34節 池田恵賜 主任牧師
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2024年9月1日 イエスの十字架①〜裁きの十字架、闇から光へ
マルコの福音書 15章33~34節
先週まで2週間お休みをいただき、ありがとうございます。「先生、休み中は休んでください」と言われるので、隠れるようにして教会に来ていました。休み期間中、私を見かけたという方は「あくまで私の幻を見た」ということでお願いします。
さて、いよいよ「いのりば」が行われる9月です。「いのりば」までの主日礼拝にどのようなメッセージを語ったら良いのか、主の前に祈りつつ、休みの期間を過ごしていました。9/29-10/5までの「いのりば」、そして同じ9/29から始まる「日本のための40日の祈りと断食のとき」について、9月5日の木曜祈祷会で(私の幻が)メッセージしていますので、教会員の方は聞いておいてください。神様への期待をもって備えていきたいと思います。
さて「いのりば」までの期間、導かれたメッセージテーマは「イエスの十字架」です。イエス様の十字架に関して様々な側面から見ていきたいと思います。十字架というのは、私たちクリスチャンにとって「神の愛の象徴」でありますが、今日はあえて「裁きの十字架」という側面に光を当ててみましょう。
十字架はキリスト教会のシンボルで、今でこそアクセサリーとしても人気のあるデザインですが、本来は処刑のための道具です。しかも、十字架は最も残忍な処刑方法です。
十字架に生きたままの死刑囚の体を釘で磔にして、目立つところに立てて、見せしめとして殺すのです。その磔方も残虐です。十字架の横木に両腕を開いた状態で、手首の骨の間に釘を打ちつけます。十字架刑による遺体と思われる遺骨が発見されたとき、その足のかかとの骨に釘が刺さっていたそうです。手のひらや足の甲だと体重がかかったときに肉が割けて、体が十字架から落ちてしまうのでしょう。わずか数本の太い釘で、体が十字架に固定されるように磔にします。寝かされた状態で釘を打たれ、その十字架が立てられたとき、自分の全体重が両手と足にかかるのです。そのため肩が外れ、脱臼すると言います。
十字架に架けられた人がどのようにして死に至るのか研究されてきました。それによると、人は生きるために呼吸しなければいけませんが、十字架に架けられた状態では胸が圧迫されて、横隔膜の動きが極度に悪くなるそうです。そうすると段々と呼吸が浅くなって、体に酸素が行き渡らなくなります。そのため、ときに深く呼吸をする必要があります。深く呼吸するには、全身に走る激痛と、釘の痛みに耐えながら、懸垂をするようにして自分の体を持ち上げなければいけません。それには相当の体力と気力が必要です。十字架に架けられた者は、体力が奪われていく中で、最後には自分で呼吸することすら放棄して、窒息死するのです。そこに至るまで長い場合で、数日かかる人もいたそうです。
その間、全裸で、痛みと苦しみと辱めに耐えながら必死に呼吸するのです。中には、失血死やショック死する人もいただろうと言われています。このように十字架刑は歴史的に見ても残虐な処刑方法で、当時、主にローマ帝国に反逆する人たちに対して行なわれ、そのような者たちが続いて起きないように「見せしめ」の意味が込められていました。人類の救いのために来られたイエス様が受ける刑としては、あまりにも残酷すぎる刑だと言えます。
更に十字架に架けられる前に、イエス様は39回ものムチ打ち刑を受けており、背中は皮が割け、肉が飛び出すような状態になっていました。十字架の横木は「30kgはあった」と言われていますが、それを自分で担いで処刑される場所まで歩かされるのです。しかし、それもできないほどにイエス様は弱られていました。何度も倒れ、やっとゴルゴタの丘に着き、マルコの福音書によると、午前9時に十字架に架けられ、午後3時には息を引き取られたのです。
木にかけられた者
なぜ、イエス様はこんなにもむごたらしい刑で死ななければいけなかったのでしょうか。詳しくは来週見ていきたいと思いますが、これらはすべて「神様のご計画」によるものでした。イエス様は十字架に架けられる必要があったのです。ガラテヤ3:13を見てみましょう。
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
イエス・キリストは、私たちのために「のろわれた者」となられたのです。確かにイエス様は祭司長、律法学者たちの妬みから不当な裁判を受け、ローマの極刑である十字架刑に処せられました。ヨハネの福音書を見ると、彼らはピラトに「自分たちは誰をも死刑にすることを許されていない」と言って、ローマの法の下での裁判を要求していますが、その後、自分たちの律法に基づいてステパノを石打ちの刑で処刑しています。
ですから、単に「イエスを殺す」という目的なら、石打ち刑でも良かったのです。しかし、そうではなく、祭司長、律法学者たちは、わざわざローマから派遣された総督ピラトに訴え出て、ローマの法律でイエスを裁き、十字架刑で処刑しました。それはイエスを見せしめにして、木にかけて殺し、律法に照らし合わせても「のろわれた者である」と言いたかったからなのです。しかし、これも神のご計画でした。
のろわれた者となられたイエス
「木にかけられた者はのろわれた者である」。これは律法の定めた規定です。「イエス・キリストが十字架で死なれた」というのは、「イエス・キリストは私たちのために人となられて地上に来られた」ということだけでなく、「私たちのためにのろわれた者となってくださった」ということなのです。そして、それは「私たちを律法ののろいから贖い出すためだ」と聖書は教えています。
つまり、私たちは律法に照らし合わせたとき「のろわれた者」なのです。イエス様の十字架を信じる者は、誰でもまずこのことを受け入れなければいけません。その「のろわれた」私たちを救い出すために、イエス様は「のろわれた者」として十字架に架からなければならなかったのです。
神に見捨てられたイエス
更に、イエス様は十字架で、このように叫ばれました。マルコ15:33-34です。
さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」これは「三位一体の神」として決して切れない関係であった、「子なるイエス様」と「父なる神様」の関係が切れたときに、イエス様の口から発せられたことばです。要するに神様との関係が断絶したときのイエス様の叫びです。これが「罪人」として神の前に立ったときのイエス様に対する「神の裁き」でした。未だかつて誰ひとりとして経験したことのない裁きです。現在に至るまで、唯一、イエス様だけがこの裁きの座に着かれたのです。このときのことを、神様はアモスの口を通してこのように預言させています。
アモス8:9-12です。
その日には、──【神】である主のことば──わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたの歌をすべて哀歌に変える。すべての腰に粗布をまとわせ、頭を剃らせる。その時をひとり子を失ったときの喪のように、その終わりを苦渋の日のようにする。見よ、その時代が来る。──【神】である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことの飢饉である。彼らは海から海へと、北から東へとさまよい歩く。【主】のことばを探し求めて行き巡る。しかし、それを見出すことはない。
アモス8:9-12
イエス様の十字架は過越の祭りのときに行われたので、まさに祭りは「喪のとき」となりました。そして「白昼に地を暗くする」とあるとおり、昼の12時から3時まで闇が全地をおおったのです。「ひとり子を失ったときの喪のように」とあります。これは、ひとり子イエス・キリストを十字架に架けるしかなかった「父なる神の苦悩」を書き記しているように思えます。11節、12節の「主のことばを聞くことの飢饉」とは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエス様の姿と重なります。
アモスはこの預言を当時のイスラエル王国に対してしたのですが、この預言はイエス様の十字架のときの預言でもあり、それだけでなく終末のときの預言ともなっています。つまり、人類はやがて「主のことばを求めても与えられない」という暗闇を経験することになるのです。
暗闇に来られたイエス
さて、イエス様は人となられてこの世に来てくださっただけでなく、木にかけられて「のろわれた者」となられ、「父なる神に見捨てられる」という誰も経験したことのない暗闇、絶望を経験されました。なぜでしょうか。この問いに対する答えが分からなければ、私たちは十字架を本当の意味で理解できないのです。
イエス様がここまでの経験をされた理由、それは、これが神から離れた人間が行き着く先だからです。神から離れた者が全員、経験しなければいけない暗闇、絶望を、イエス様が経験されたのです。私たちは本来、自分の犯した罪のゆえに木にかけられてのろわれ、さらし者にされ、創造主なる神から見放されて何の救いもない絶望に落とされなければならないのです。しかし、愛なる神は罪を犯した私たちに「救いの道」を与えるため、イエス・キリストを人としてこの世に遣わされたのです。Ⅰコリント15:22を読んでみましょう。
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
アダムの系譜に入られたイエス
初めの人「アダム」が罪を犯したため、アダムの系譜には死が入りました。この死の系譜に「いのち」をもたらすために、イエス・キリストはその系譜に加わる必要がありました。それがクリスマスです。処女マリアの胎を通して「人として生まれる」という奇跡によって、イエス・キリストはアダムの系譜に連なったのです。ルカは、その系譜を記しています。そして、罪のない人生を歩まれたイエス様が十字架に架かられるのです。律法においてのろわれた者として処刑され、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、神からの拒絶も体験されて死なれたのです。この死を通してイエス様は、「罪ある人間が死ぬとどうなるか」を明らかにしてくださいました。しかし、それだけではありません。
罪なき者が「罪ある者」として裁かれるなら、それは冤罪です。そして、そのような判断をした者の罪となります。この場合、それは神です。しかし、神はイエスへの裁きにおいて間違いを犯したわけではありません。Ⅰペテロ2:24aを読んでみましょう。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。
イエス様自ら、罪人の罪を背負われたのです。イエス様には罪がありませんでしたが、私たちの罪を背負われて、「罪人」として神の裁きの座に着かれたのです。そして、神もそれを良しとされたのです。Ⅱコリント5:21です。
神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。
Ⅱコリント5:21
つまり、地上で唯一、罪のない人生を送られたイエス様は、わざわざ罪人の罪を背負い、罪人として神の裁きの座に出て裁かれたのです。そして神もまた、それを是としてイエス様を裁かれたのです。それは「神にとってふさわしい行動だった」と聖書は教えます。ヘブル2:10-11を読んでみましょう。
多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。
神の愛の対象として造られた「人」を救い出すためにイエス・キリストを身代わりとすることは、この天地を造り治めておられる「神にとって正しいことだった」と聖書は教えているのです。私たち人間は、救われるために必ずイエス・キリストの十字架を通る必要があります。そして、十字架を通るとき、人となられたイエス様のへりくだりを知るのです。それだけでなく、木にかけられてのろわれた者として裁かれなければいけなかったのは私だったと、神の裁きの座で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、造り主なる神との断絶を絶望して叫ばなければいけなかったのは私だったと気づかされ、悔い改めに導かれるのです。イエス・キリストが私に代わってのろわれた者となり、神に見捨てられたことを十字架を通して私たちは知るのです。
11節にある「聖とする方」とは、イエス様のことです。「聖とされる者」は、私たちです。「みな一人の方」の「一人の方」とは、アダムのことです。イエス様も人としてアダムの系譜に入ったからこそ、私たちを兄弟姉妹と呼んでくださるのです。11節の最後、「こう言われます」の次が気になりますね。これは今日のメッセージの最後に開きます。
暗闇から光へ
その前に、イエス様が叫ばれた「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」ということばに、もう少し注目しておきましょう。これは詩篇22篇にあることばです。詩篇22:1-3を読んでみましょう。
わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。
私を救わず 遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
わが神 昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。
夜にも私は 黙っていられません。
けれども あなたは聖なる方 御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。
これは、ダビデによる詩篇ですが「メシア詩篇」とも呼ばれています。ダビデは自分の経験を詩として詠んでいるのですが、それがメシアであるイエス・キリストのことも指しているのです。
1-2節で、神を呼び求めても応えられない苦しみが書かれています。私たちも、祈っても祈っても神を感じることができないときがあります。私たちが神を呼び求めても応えられない理由、それが3節に書かれています。ここは第3版のほうがイメージしやすいので3節を第3版でお読みします。
けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
詩篇22:3
神は聖なるお方です。だから罪があるとき、その罪が仕切りとなり、声が届かないのです。イエス様は十字架で「罪人」として、神の裁きの座に着かれました。ですから、罪が仕切りとなって神との関係が断ち切られ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。イエス様が体験されたように、神との関係が断絶したとき、そこには絶望や苦しみしかありません。しかし、詩篇22篇は苦しみだけでは終わりません。22節以降を読むと、調子が変わります。22-24節を読んでみましょう。
私は あなたの御名を 兄弟たちに語り告げ 会衆の中で あなたを賛美します。
【主】を恐れる人々よ 主を賛美せよ。
ヤコブのすべての裔よ 主をあがめよ。
イスラエルのすべての裔よ 主の前におののけ。
主は貧しい人の苦しみを蔑まず いとわず 御顔を彼から 隠すことなく
助けを叫び求めたとき 聞いてくださった。
詩篇22:22-24
ここには、十字架を通って救いの道が開かれた後の「神との関係」が記されています。「主を恐れる人々よ 主を賛美せよ」と命じられています。
ここで、先ほどのヘブル2章の続きを読み進めてみましょう。ヘブル2:11-12です。
聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう。」
ヘブル2:11-12
この12節のことばは、詩篇22:22の引用です。「罪人」として神の裁きを受け、十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだイエス様の孤独な叫びは、いまやキリストの十字架によって救われた多くの人々の讃美の歌声と変えられるのです。十字架を通った先に勝利があります。
このヘブルの箇所をよく読んでみると、「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう」とあります。この「わたし」とは、イエス様のことです。また、70人訳聖書で「会衆」という言葉には「エクレシア」というギリシア語が使われていて、それは「教会」のことです。つまり、私たちが教会で讃美をささげているとき、イエス様がそこにいて「神の素晴らしさを証しし、ともに賛美している」というのです。
そして詩篇22:3によると、父なる神様もまた「私たちの賛美を住まいとしておられる」と書いてあります。讃美の中に聖霊なる神様も、イエス様も、父なる神様もご臨在くださっているのです。だから讃美には力があり、癒やしがあり、解放があるのです。そして讃美をささげるとき私たちは神の臨在に触れて感動するのです。
かつて光の世界にいたアダムはサタンに誘惑され、罪を犯し、暗闇の世界に落ちました。しかし、イエス様は、私たちを暗闇の世界から光の世界へ救い出すために、一番の暗闇を経験してくださったのです。このイエス様の十字架を通って、私たちは光の中に入れられたのです。二度と暗闇の世界に落ちることはありません。そして光を与えられた私たちは、暗闇となったこの世界に対して「光輝く存在」としていま生かされているのです。
十字架を通った私たちはイエス様の十字架による勝利を宣言し、救い主イエス様を、私たちを愛しておられる神様を心から讃美し、与えられた光を輝かせていきましょう。