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2024年9月22日 イエスの十字架③〜赦しの十字架、悔い改めに導く神の愛~

2024年9月22日 イエスの十字架③〜赦しの十字架、悔い改めに導く神の愛~
ルカの福音書 23章34節 池田恵賜 主任牧師

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2024年9月22日 イエスの十字架③〜赦しの十字架、悔い改めに導く神の愛~
ルカの福音書 23章34節 池田恵賜 主任牧師

いよいよ来週から「いのりば」が始まります。リバイバルのために、「一致」と「悔い改め」をテーマに首都圏の牧師先生たちも協力してメッセージを取り次いでくださいます。最新情報はホームページ、またはチャペル後方の掲示をご覧ください。会堂に来られた方は、出席できる時間帯に参加シールを貼ってください。

また、この日から「日本のための40日の断食と祈りのとき」も始まります。これはアメリカに本部を置く団体から呼びかけられた祈りのムーブメントですが、いま世界各国から「日本のために祈るときが来た」とのビジョンを受け取った祈りの勇士たちが立ち上がっています。インド、ミャンマー、パキスタンやインドネシアといった迫害のある地域のクリスチャンたちも立ち上がり、日本のためにこの期間祈ってくれます。このとき、日本からも多くの祈り手が起こされて、神の御手が動き、リバイバルが起されるように祈りましょう。

かつて初代教会に聖霊が下り、使徒たちを通して「癒やしとしるしと不思議」が行われたように、現代の日本においても、同じ神様が臨在され、「癒やしとしるしと不思議」がなされ、神の御名が崇められるように、具体的に祝福を思い描いて、祈り求めましょう。ぜひこの祈りのときに期待して、家族や牧会ファミリーのメンバーだけでなく、職場の仲間や友人を誘って参加しましょう。1人で受け取るにはもったいないほどの神の豊かな恵みが用意されていることを感じています。ぜひ、この祈りに加わってください。主が一人ひとりに素晴らしいみわざを成してくださるように祈ります。

さて「イエスの十字架」をテーマに見ていますが、今日は「赦しの十字架」ということに焦点を当てていきましょう。まず初めに十字架で語られたイエス様のこの祈りに目を留めましょう。ルカ23:34aです。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」”ルカ23:34a

これは、あまりにも有名なイエス様のとりなしの祈りです。このイエス様のとりなしの祈りがなければ、私たちが救われることはありませんでした。それほど大きな意味をもつ祈りです。「赦し」というテーマですが、今日は少し自分のことから話したいと思います。

私はいま本郷台キリスト教会の代表役員のほかに、2つのNPO法人の代表理事、一般財団法人の理事長、そして社会福祉法人の理事長をしています。他にもいくつかの団体の理事や評議委員をさせていただいていますが、やはり理事の一人というのと、理事長というのでは責任の重みが違います。理事長は様々な事案の最終決断をしなければいけません。またいろいろと起きてくるトラブルの対処もしなければいけません。現在のところ、私の理事長としての働きの半分近くはトラブル対応です。うまくいっている働きに関しては、あまり私のところにまで回ってきません。責任の伴う重要な判断や、現場ではどうしようもなくなったトラブルが私のところに回って来るのです。トラブルと言っても様々です。人間関係のトラブル、ご近所とのトラブル、怪我をさせたというケースから、役所の指導が入ったなど、いろいろな案件に対応しなければいけません。お互いの言い分を聞いて仲介したり、しかるべきところに相談したり、お願いや謝罪をすべきところには頭を下げて回るのです。大変でもありますが、このような働きをしていなければ出会えなかった方々がたくさんいます。そして、そのような方々と関わる中で、本郷台キリスト教会とその働きの多くはクリスチャンであろうとなかろうと「たくさんの周りの方々に助けられ、支えられている」ということを感じています。

私が責任者としていつも心にかけているのは「神のみこころは何か」ということです。そして、いつも自分の責任範囲を履き違えないように気を付けています。働きが小さくて、自分一人でできていた時は、自分一人の責任で良かったのですが、働きが広がり、様々な方々が関わるようになるとそうはいきません。私の責任の範囲も広がっていくのです。私は、私が責任をもつ団体でともに働いている方々の働きに対しても責任を負う立場にあるのです。このことをいつも心に刻んでいないと、自分の知らないところで起きたことに対して「自分のせいではない」と責任逃れをするようになってしまいます。私は立場上、人に謝ることも多いのですが、人から謝られることもあります。人に赦してもらう立場、そして人を赦す側の立場、どちらも多く経験していると思います。そのような経験からいろいろと教えられてきました。

一番大きな学びは「感情に拠り頼むなら、赦すことは難しい」ということです。例えば、あなたが何か損害を被って、相手から謝罪を受け、損害に対する弁償がなされたとしましょう。あるいは相手のせいで怪我をして、相手から謝罪を受けて、怪我も治ったとしましょう。しかし「相手のことを感情的に赦せない」というケースがよくあるのです。私たちの感情は揺れ動くので、感情に基づいて赦すというのは難しいのです。

神の赦し

ここで神様に目を転じてみましょう。「神様が赦す」というのは、どういうことでしょうか。イザヤ43:25を見てみましょう。

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。”イザヤ43:25

神様が「赦す」というとき、それは「相手のしたことを思い出さない」ということなのです。聖書を読むと神様は感情を持っておられるお方だと分かります。もちろん神様は私たちのように歪んだ感情を持つお方ではありません。神様があなたの罪を赦すというとき「あなたの罪を思い出さない」と決めたのです。これは感情ではありません。ですから、その赦しの決断は変わることがありません。神の赦しは完全なのです。このことを理解した詩篇の記者は、完全な赦しを与えてくださる神様をこのように表現しました。詩篇130:4です。

しかしあなたが赦してくださるゆえにあなたは人に恐れられます。”詩篇130:4

私たちはどんな罪を犯しても、何度罪を犯しても、イエス様の十字架によってその罪は完全に赦されるのです。例えて言うなら、あなたが生きている間に犯すすべての罪と、十字架に表された神の愛を比べると、神の愛の方が大きいのです。自分の罪の大きさを知れば知るほど、その代償の大きさに気づけば気づくほど、私たちは神の愛の大きさに畏敬の念を抱くようになります。その事実に気づいたとき、詩篇130篇の記者は「赦してくださる神は恐れられる神だ」と表現したのです。

もし、救われていながら自分の罪の大きさにも、神の愛にも無頓着な人がいたとしたら、そのような人は、自分が抱えていた1万タラントの借金を赦してもらったのに、自分に対して100デナリの借金がある友人を赦さなかったしもべのように、再び捕らえられ獄屋に入れられてしまうのです。ここで、もう一度ルカ23:34を、今度は前半だけでなく1節すべて読んでみたいと思います。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。”ルカ23:34

イエスの衣を分けていた「彼ら」とは、イエスを十字架につけたローマの兵士たちのことです。イエス様が十字架で苦しんでいるときに彼らはすぐ隣で、イエスの祈りの声を聞きながら、イエスの衣を取り合っていたのです。みなさん、34節を読んで、どう思われるでしょうか。なにか34節の後半は切り離して、次の35節に組み入れたいと思うほど、前半と後半の落差が激しく感じないでしょうか。イエス様のとりなしの叫びの横で「この兵士たちは何をしてくれてるんだ」と、憤りを感じないでしょうか。

神の赦しが必要な私たち

しかし、この兵士たちは「私たちの姿」なのです。イエス・キリストを救い主と信じる者は、誰でもこの現実を認めなければいけません。イエス様が私に代わって神の裁きの座に着いて、私のためにとりなし祈ってくださっているときに、私は自分のことを考え、自分の分け前を増やそうとくじ引きをしているような者であったのです。イエス様のとりなしの祈りの意味も分からずに、その祈りを聞き流している者だったのです。

しかし、気づいた者たちはイエス様の十字架を見上げました。そして、見上げた者たちは救われたのです。十字架の隣に立ち、一部始終を見ていた百人隊長は「まことにこの方は正しいお方だった」と告白しました。イエス様と一緒に十字架につけられた強盗の1人もイエス様を信じて救われました。

赦しの十字架がすぐ隣にあっても、自分の罪を認めて十字架を見上げなければ十字架は何の意味ももちません。救われるために私たちは自分の罪を認める必要があるのです。そのような意味で、罪が十字架を認識させ、罪が十字架と私を繋げるのです。Ⅰヨハネ1:8です。

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。”Ⅰヨハネ1:8

罪の問題を抜きにして救いはありません。ですから罪から目を背けることなく、しっかりと向き合うことが必要なのです。自分の罪に気づき十字架を見上げて祈るとき、主はあなたを赦してくださるのです。詩篇65:2-3を読んでみましょう。

祈りを聞かれる方よ みもとにすべての肉なる者が参ります。数々の咎が私を圧倒しています。しかし私たちの背きをあなたは赦してくださいます。”詩篇65:2-3

神は私たちの罪を赦してくださるお方です。時々「私は神の前に出るにはあまりにも罪深い人間です」と言って、祈るのを躊躇される方がいらっしゃいますが、そうではありません。私たちが罪を持った状態で十字架を見上げ、「私にはイエス様の十字架が必要です。私の罪を赦してください」と祈るなら、神はその罪を赦し、二度と思い出さないと言われるのです。ですから、恐れずにそのままのあなたで神の前に祈りをささげてみてください。その時、あなたは神の愛に触れることができます。

神の愛が悔い改めに導く

この神の愛が私たちを悔い改めに導くのです。私たちが、「イエス様の十字架によって罪が赦されるから何をしてもいい」とならないのは、神の愛に触れるとき、真の悔い改めに導かれるからです。ローマ2:4です。

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。”ローマ2:4

この「神のいつくしみ深さ」というのは、新改訳第三版だと「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」となっています。「悔い改め」は、自分の力でするものではありません。神の愛に触れたとき、私たちは悔い改めに導かれるのです。ですから、罪をもった状態で構いません。まずイエス様の十字架を見上げて、神に祈ってください。

「イエス様が私の罪を身代わりに背負って、神の裁きの前に立たれたと聞きました。そして、それほどまでに私を愛していると聞きました。その神の愛を教えてください。」あなたがそのように祈るなら、神様はあなたに悔い改めるべきことを一つひとつ示して、悔い改めに導いてくださいます。

「罪」というのは「人との比較」で決まるものではありません。「あの人よりもマシ」とか「あの人も同じようにしている」というのは、神の前に立つとき何の役にも立ちません。周りの人を見て比べてばかりいても、真の悔い改めには導かれないのです。

イエス様は、「私の罪」のために十字架に架かられたのです。たくさんの人の罪が積み重なったから、イエス様が十字架に架かるしかなかったというのではないのです。世界にたとえ、あなた一人しかいなくても、あなたの罪の赦しのためにはイエス様の十字架が必要で、イエス様はあなた一人のためであっても、喜んで十字架に架かってくださることでしょう。神様も、イエス様も、それほどまでにあなたを愛しておられるのです。そして、「私の罪は神のひとり子を十字架に架けるほどに大きなものなのだ」ということを、私たちは一人ひとり認識する必要があります。「イエス・キリストが十字架で死ぬ以外に私を救い出す方法はなかった」というところに立つときに、初めて私たちは神の愛と恵みの大きさを知ることができるのです。

今回の「イエスの十字架」シリーズをあえて「裁きの十字架」から始めたのは、「赦されているから」と言って、罪の問題を軽く考えず、イエス様が受けられた神の裁きがどのようなものであったかを、しっかりと考え、受け止める必要を感じたからです。イエス様は私たちを罪の滅びから救い出すために、自ら「裁きの十字架」を担い、それを「とりなしの十字架」とされたのです。この「とりなしの十字架」は、私たちのための「赦しの十字架」となったのです。この「赦しの十字架」は、いまあなたの前に立てられています。イエス様のとりなしの祈りを聞いてもそれを聞き流して自分のことをするのか、イエス様の十字架を見上げて、罪のある自分をそのまま差し出して、悔い改めに導く神の愛を体験するのか、あなたの決断にかかっています。

あなたが神の愛を受け取るなら、そのときあなたは真の悔い改めに導かれ、罪の赦しの確信と、罪からの解放を受け取ることができます。

赦された者として

最後に「赦しの十字架」を受け取った者に、神が望んでおられることを見ておきましょう。エペソ4:32です。

互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。”エペソ4:32

神に赦された者として「互いに赦し合う者となる」ということです。神の与える祝福は、増え広がっていきます。神は初めに人を造られたとき「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と命じられました。イエス様も十二弟子に「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と命令されました。これらは神の祝福が、私たちを通して広げられることを表しています。神様は祝福が広がることを喜ばれるのです。

赦しということにおいても同じことが言えます。私たちが神に赦された者として、互いに赦し合うとき、神の祝福が広がっていくのです。「私は神に赦され救われた」と言っても、それを自分の内側にとどめておくだけでは十分ではありません。イエス様が模範を見せてくださったように、赦しというのは「行動」です。それは感情ではなく決断です。イエス様は「自らのいのち」という犠牲を払ってまで、私たちを赦してくださいました。そのようにして私たちに模範を見せてくださったのです。私たちが誰かを赦す立場に立ったとき、「この十字架の犠牲を思い出しなさい。そして、神がキリストにおいて私を赦してくださったように、その相手を赦しなさい」と言うのです。どれほど大きな罪を赦してもらったかを知っている者は、人を赦す者へと変えられます。これは、神の豊かな恵みによるのです。エペソ1:7です。

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。”エペソ1:7

私たちが赦されたのは、ただ神の豊かな恵みによるのです。私たちが人を赦すたびに、神の恵みの豊かさに新しく気づかされるのです。私たちは人を赦せば赦すほど、神の豊かな恵みに目が開かれ、私たち自身が豊かないのちを生きるようになるのです。そのようにして、赦しの十字架の恵みが私たちを通して広がっていくことを願ってやみません。

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