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2024年12月8日 愛を考える②〜自分を愛する〜

2024年12月8日 アドベントⅡ礼拝 愛を考える②〜自分を愛する〜
イザヤ書 43章4節a 池田恵賜 主任牧師

メッセージを読む

今日からアドベント2週目に入ります。

先週から「愛を考える」というテーマを見ています。

先週は「愛の源」ということで、聖書から、愛は神様から出ていること、「人がその友のためにいのちを捨てるほどの大きな愛はない」という愛をイエス様ご自身が実践して、神の変わることのない愛を私たちに明らかにしてくださったことをみました。

そして、その愛を一身に受けて、私たちはいま存在しているのだということをみことばから確認しました。

愛の源なる神様について知った上で、今週は「自分を愛する」というサブタイトルをつけました。

イエス様はマタイの福音書で「わたしよりも父や母、娘、息子を愛するものはわたしにふさわしい者ではありません」と言ったり、「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」と言われたりしているので、これまであまり私たちの教会で「自分を愛する」というテーマは語られなかったように思います。

しかし、「自分を捨て」というのは、「自分のことは愛さなくてもよい」とか、「自分のことはどうでもよい」という意味ではありません。私たちは、聖書の観点から正しく「自分を愛する」ということを知る必要があります。そこで今日のサブタイトルを「自分を愛する」としました。

さて今日の聖書箇所を読んでみましょう。イザヤ43:4aです。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”

このように聖書は語っています。

これは直接的にはイスラエル民族に対して語られた神からのことばですが、聖書全体のメッセージと照らし合わせてみても、イエス様の十字架から考えても、私たち一人ひとりに当てはめることができるみことばです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い」。先週も触れましたが、神様から見たときに、私たちには「神がいのちを捨てても惜しくない」というほどの価値があるのです。

神様は「初めもなく終わりもないお方」だと聖書にありますから、死ぬことはありません。ですから、神のひとり子、イエス様は”死ぬため”にわざわざ肉体をもって人として生まれてくださったのです。そして私たちの罪の身代わりとなって死なれ、私たちに救いの道を開いてくださったのです。それほどまでに私たちは神様に愛されているのです。それほどの価値を神様は私たちのうちに見出してくださっているのです。

「あなたは自分が高価で尊い」と聞いてどう思いますか?

「え?私のこと?」と、少しむず痒い感じもするかもしれません。しかし、毎朝一番に面と向かって神様に「あなたはわたしにとって高価で尊い存在なんだよ」と言ってもらえたら、嬉しく感じることでしょう。特に試練や困難の中にあるときには「自分はこのような中でも神に愛されている」と、自己肯定感が上がったり、自分に自信をもつことができるようになったりするかもしれません。

自分を見る3つの目

さて、今日は自分を見る「3つの目」について考えてみたいと思います。

私たちには「自分」を見る3つの目があります。

それは「自分の目」と「人の目」と「神の目」です。一つひとつ見ていきましょう。

「自分の目」

まず「自分の目」です。皆さんは自分で自分のことをどのように見ているでしょうか。

「自分のことが好きだ」という方はどれくらいいるでしょうか。

「あなたは自分のことが好きですか」と聞かれて、すぐに「はい、好きです」と答えられる人は凄いと思います。

では、なぜ「自分のことを好き」と言えるのでしょう。

「自分のことを好きでいられるとき」というのは、仕事や家庭がうまくいっているときや、人間関係が良好なとき、自分に関する物事が計算どおりにいっているときかもしれません。

すべて順調で問題がないときに、自分のことを好きでいられるというのは分かります。

あるいはものすごくポジティブな人で、失敗しても次に切り替えられる人、人間関係がうまくいかなくても、あの人とは合わなかったと考え、次に進める人は、逆境の中でも「自分を好き」と言えるのかもしれません。

反対に「自分のことが嫌い」という人はどうでしょう。

自分が嫌いな理由や、自分のことを嫌いになるのはどんなときかを考えてみてください。

何か失敗したとき、物事がうまくいかないとき、過去のトラウマが蘇ってきたとき、試合に負けたとき、劣等感を感じたときなどは自分に自信がもてずに、自分が嫌いだと思うかもしれません。

ポジティブな人のように簡単に気持ちを切り替えられず、過去の出来事や人間関係を引きずって、なにごともネガティブに捉えてしまう人もいます。

「自分の目」で生きるとポジティブであっても、ネガティブであっても偏りやすいものです。「他人の目なんて関係ない」と独善的になったり、反対にいつまでも自分に自信がもてずに自己卑下してしまったりするのです。

聖書で「自分の目」で生きたポジティブな人というと、ヨセフが思い当たります。

ヨセフは旧約聖書に出てくる人物で、ヤコブの11番目の息子ですが、彼はあまり周りのことを気にしない性格でした。思ったことをストレートに口に出し、兄たちから反感を買っていました。ヨセフはあるとき夢を見て、それを兄たちに告げました。

「兄さんたち、聞いてください。私は夢を見ました。ある時、畑で束を作っていると私の束だけが立ち上がり、兄さんたちの束が私の周りに来て伏し拝んだのです」と。

もちろん、こんな話を聞かされた兄たちは怒り出します。

それなのにヨセフは別の日に、また「夢を見た」と言って、兄たちに話しました。「今度は太陽と月と11の星が私を拝んでいた」と言うのです。つまり、ヨセフの両親もヨセフを拝むと言ったのです。これにはさすがに父ヤコブも怒り、ヨセフを叱りました。

確かにこれらの夢をヨセフに見せたのは神様であって、その夢には意味があり、そのとおりになっていくのですが、ヨセフには親や兄弟に対する配慮が欠けていました。彼は「自分の目」だけで生きていたのです。結果、神様は彼をエジプトに奴隷として送り、長い期間訓練されました。

「自分が自分をどう見るか」ということはとても大切なことですが、それを土台にして自分の人生を築くのでは、どうしても偏りが出てきてしまい充分ではありません。自分の目を頼りに「自分を愛する」ことは危ういのです。

「人の目」

次に「人の目」です。

皆さん、人の目から見た「自分」をどれだけ意識しているでしょうか。

人の目に、どれだけ影響を受けているでしょうか。

私たちの周りには大きく分けると、3つのタイプの人たちがいます。

1つは「自分を認めてくれる人たち」、もう1つは「自分に敵対する人たち」。そして、最後は「自分に無関心、無関係な人たち」です。

このうち、世界人口の比率でいったら、自分に無関心・無関係な人たちが99.99%以上なのではないでしょうか。いま世界人口が82億人といわれていますから、0.001%でも82万人です。最近は、フェイスブックやインスタなどのソーシャルメディアで何千、何万という人と繋がっている人もいるでしょうが、そのうち本当に自分のことに関心をもってくれている人はごく僅かでしょう。実際に私たちの人生に影響を与える人といったら100人もいないのではないでしょうか。それでも、私たちのうちの多くの人は、人の目を気にして生きています。

確かに「人の目を意識すること」が大切な側面もあります。私たちは自分の視点だけでなく、他の人の視点を考えることで周りに配慮したり、協調性を学べたりします。いろいろな人と協力して働くとき、このような資質を持っていることは大切なことです。

しかし過度に人の目を気にしすぎると、自分の意見が分からなくなって周りに振り回されたり、

「特定の人の言うことさえ聞いていれば良い」と、その人との間に依存関係が生まれたりしてしまいます。

ですから、やはり「人の目」や「人の意見」の上に自分の人生を築くのでも充分ではありません。人の目を頼りに「自分を愛する」ことも危ういのです。

ペテロは、イエス様から「あなたは私に従いなさい」と声を掛けられたとき、近くにいた「イエスに愛された弟子」ヨハネを指差し「主よ、彼はどうですか」と聞きました。イエス様は、ペテロに「それがあなたに何の関係がありますか。あなたはわたしに従いなさい」と語られ、人の目を気にして自分の人生の決断をしないように教えられました。

さて、ここまで「自分から見た自分」、「人から見た自分」について見てきましたが、そのどちらも「自分を愛する」人生の土台とはならないことを確認しました。偏りが出てきてしまうからです。

「神の目」

ここで「神の目」に目を留めましょう。私たちは「自分の目」を持つことも、「人の目」を気にすることも大切です。しかし、「神の目」が最も大切です。

『「わたしの目」にはあなたは高価で尊い』と書いてあるからです。この「わたしの目」とは、自分の目でも人の目でもありません。神の目です。

私たちを造られた神の目で見たときに、私たちは高価で尊いのです。

私を見る神の目

「神が私を愛する」というとき、それは「私」という存在を愛してくれているのです。

私の存在そのものです。私が何かうまくできたから、成功したから、期待に応えたから、神は私を愛してくださるというのではありません。

逆に私が失敗したから、うまくできなかったから、神は私を愛さなくなるというのでもありません。神様は私の存在そのものを、私の状況によらず愛してくださっています。ですから、私たちは「神の愛で自分を愛する」ということを学ばなければいけません。自分の目や人の目ではなく、「神の目を意識して自分を愛する」訓練をするのです。

それにはまず、どんなときでも、「自分の存在と自分の価値を正しく認識する」ということが大切です。たとえ物事がうまくいかないときでも、人間関係で傷ついたときでも、自分に自信が持てないときでも、自分は神の目に愛されていて高価で尊い存在なのだと認め、告白するのです。

神の目から見たときに、あなたの存在価値はどんなときも、どんな状況でも変わりません。過去の傷も失敗も神の目から見て、あなたの評価を落とすものではありません。

あなたは「神がいのちを捨てるほどに愛している」価値ある存在なのです。

罪と私

しかし、同時に私たちは神から離れた状態での自分の姿も知らなければいけません。神はどんなときでも私を愛し、私に対する評価を変えません。しかし、この神が嫌うものがあります。それが罪です。

この「罪」とは、法律に触れる犯罪のことだけでなく、たとえば、心の中で人を憎むことなども含みます。聖書がいう「罪」とは、人から見たら分からないような、心の中で抱いている悪い思いさえも指すのです。

ヘブル人への手紙の記者は、この罪を「私たちにまとわりつく罪」と表現しましたが、まさに罪が私たちにまとわりついているのです。

この罪がついたままでは、私たちは神と交わることができません。注がれている神の愛を受け取ることができないのです。ですから、この罪をどうにかしなければいけません。

ここで間違ってはいけないのは、自分で自分の罪をどうにかしようと考えてはいけないということです。神に敵対するサタンは、巧妙にあなたに近づいてきて語りかけます。「あなたはその罪を隠していればいいよ。大丈夫、バレないよ」と。

皆さん、あなたを神から引き離している罪を自分でどうにかしようとしてはいけません。

自分で自分の罪を赦してはいけません。

サタンはあなたに嘘をついてきます。「他の人もやっているよ」、「大したことではないよ」、「あなたよりもっと悪いことをやってる人はたくさんいるよ」。こんな心の声を聞いたことはありませんか。または、「こんなことをしているあなたはダメな人間だ」。「赦されるはずがない」。「見放されているに違いない」。こんな心の声も聞いたことはないでしょうか。

はっきり言います。それらはサタンの声です。サタンの嘘です。どうか騙されないでください。

この世界にイエス様以外にあなたの罪を清算できるお方はいません。イエス様にしかあなたの罪は赦せないのです。また言い換えるなら、イエス様はあなたのどんな罪をも赦すことができるのです。Ⅰペテロ2:24です。

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。”Ⅰペテロ2:24

イエス様は私たちが神の愛を受け取ることができるように、私たちの罪を担って十字架にかかり、罪の罰を身代わりに受けてくださいました。それによって私たちの罪は清算され、私たちは癒やされ、神の子どもとされたのです。ですから、罪を自分でなんとかしようとしたり、隠そうとしたりしないでください。罪はイエス様の前に持っていって悔い改めるものです。

ちょうど生ゴミの回収の日にゴミを出すようなものです。出さずに家にゴミを溜めておくと異臭を放つようになります。罪はイエス様の前に持っていって正しく処理されて、はじめて聖められるのです。

また、「こんな罪を犯した私はもうダメだ」とあきらめないでください。どんな罪も、何度でもイエス様の前に持っていって悔い改めるなら必ず赦されるのです。

Ⅰヨハネ1:9も心に留めておきましょう。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。”Ⅰヨハネ1:9

自分の目、人の目、神の目とありますが、まず土台は変わることのない神の目です。神の目を土台にして、自分の人生を築きあげること、人の声や自分の声、サタンの嘘に騙されないで、自分の罪をイエス様の十字架に持っていき、悔い改めることが大切です。

そうして、神の声を聴き、神と交わり、神がどんなに自分を大切に思ってくださっているか、愛してくださっているか、神の視点を知ることによって、私たちは自分の価値を正しく知り、自分を愛することができるのです。そこから、あなたの祝福の人生がスタートします。

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