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2024年12月22日 愛を考える④〜神の愛の回復力〜

2024.12.22 クリスマス礼拝「愛を考える④〜神の愛の回復力〜」
イザヤ書 53章4〜6節 池田恵賜 主任牧師

メッセージを読む

クリスマスおめでとうございます。

クリスマスは、神が私たち人間をどれほど愛してくださっているか思い起こさせてくれる大切な時です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)と聖書にあります。これが神から人類に伝えられた最も大切なメッセージです。

誰がどのようにメッセージを届けるかで、そのメッセージがどれほど重要なものかが分かります。神は「人間を愛している」というメッセージを、ご自身のひとり子、イエス様を通して私たちに伝えてくださいました。

しかも、それはただ言葉だけで伝えるのではなくて、イエス様の生涯、生き様を通して明らかにしてくださったのです。イエス様は神とともにおられましたが、私たちの罪を担い、十字架に架かって救いの道を開くために、人として生まれられたのです。そのことを覚える日がクリスマスです。

救い主誕生のメッセージが初めに届けられたのは、ユダヤのベツレヘム郊外で夜番をして羊を守っていた羊飼いたちでした。先週のメッセージで、羊飼いが最初のクリスマスの招待客であったことから、イエス様の誕生は、私たち一人ひとりに居場所を与えるものであったとお話しました。

ここまで3週にわたって、ご一緒に「愛を考える」というテーマで聖書が愛についてどのように教えているのかを見てきました。

第1週は「愛の源」は神であること、そして、最も大きな愛「人がその友のためにいのちを捨てる」という愛を、イエス様ご自身が私たちに現わしてくださったことを見ました。

第2週は「自分を愛する」というテーマで、私たちは「神の目」で自分を見る必要があること、「神の目」は、私たちの能力や状況によらず、どんなときでも私たちを「高価で尊い者」として見ていて、神は変わらぬ愛で私たちを愛してくれていることを見ました。

しかし、私たちには「まとわりつく罪」があって、その罪をイエス様に告白し、悔い改める必要があるのです。

第3週は「神の愛を反映させて生きていくこと」を見ました。キリストの愛が私たちを取り囲んでいるのは、神から離れたこの世界で、神の愛を輝かせていく存在が必要だからです。イエス様の愛を受けた私たちは遣わされた場所で神の愛を反映させて生きていくのです。

神の愛の回復力

さて、そして今日は4週目、クリスマス礼拝です。

「神の愛の回復力」というサブタイトルをつけました。神は私たちを回復させてくださるお方です。

「回復する」という言葉には、希望を感じます。「元気が回復する」、「健康が回復する」など「またあの元気な頃の自分に戻れるのだ」と考えると、力が湧いてきます。

私は2年前の夏に骨折をしました。人生で初めての骨折でした。

自宅の廊下で玄関に向かって歩いていた時に、忘れ物に気づいて方向転換しようとした時、右足が滑り、左膝からストンと床に着地したのです。それほど強く打った感じもなく、その時は急いでいたので気にしていませんでした。しかし、何日たっても痛みが治まらないので、整形外科に行って、レントゲンを撮ってもらったところ、ドクターに「池田さん、これ折れてますね」と告げられました。そして、そこから数ヶ月間、ギプスをつけての生活となったのです。

骨折と分かって、私がまずドクターに聞いたのが「全治どれくらいですか」ということでした。

きっと皆さんも病気や怪我をしたときに、気になるのが「この病気は、怪我は治るのか?治るまでにどれぐらいかかるのか」ということではないかと思います。

以前、あるドクターと話していたときにこのようなことを言われたことがあります。「結局、医師の仕事は、自然治癒の力を補助しているに過ぎない」と。その時、「なるほど、そのとおりだな」と思いました。骨折を治すのも、手術をするのも、薬を処方するのも、最終的にはその人自身の回復力、自然治癒力を頼りにしているのです。

そう考えると、私たちが生きているこの世は、堕落した世界ではあるけれど、神様は「回復力」とか「自然治癒力」といったものを残してくださったと言えます。つまりそれは、「傷ついた人がそのままの状態でいるのを神は望んでいない」ということです。

ですから、今日もし、あなたの心や体が傷ついて痛んでいるとしたら、またあなたが弱さを感じていたり、苦しんでいたりするなら、神はあなたがそのままの状態でいることを望んでいないことを知ってください。神はあなたの病、痛み、苦しみを癒やしたいと願っておられるのです。そして、そのように願っておられる神様は、「回復させる力」をもっておられます。

神の回復力を体験する

では、どのようにしたら、私たちはその回復させる神の力を体験することができるのでしょうか。聖書を開きましょう。イザヤ53:4-6です。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。”

このイザヤ書53章は、イエス・キリストの生涯を預言した箇所です。

旧約聖書には何箇所か「メシア預言」と言われている箇所があって、イスラエルの人たちはその預言を信じて、「いつの日にかイスラエルを解放し、世界を治める王が来られる」と考えています。

しかし、かつてこのイザヤ53章は「メシア預言」とは考えられていませんでした。

メシアは「イスラエル王国を諸外国の圧政から救い出してくれる力強い王だ」と考えられていたからです。その姿からしたらイザヤ53章に描かれている人物は弱々しく、彼らの思い描いていたメシア像からかけ離れていたのです。

その後、イエス様が来られ、十字架にかかり、三日後によみがえられたことから、十二弟子たちは「イエス様こそメシアである」と期待を膨らませました。しかし、よみがえられたイエス様は弟子たちの見ている前で天に昇って行かれ、見えなくなってしまいました。

弟子たちはわけが分かりませんでしたが、イエス様が言われたとおり祈っていました。

すると、ペンテコステの日に聖霊が降り、すべてを理解したのです。やがて、イザヤ53章がイエス様の生涯にぴたりと当てはまる「メシア預言」の箇所だったということが理解されるようになったのです。

イエス様が来られる以前の時代の人々も、イエス様を十字架にかけた人々も、4節にあるとおり、「イエスの十字架と自分は関係がない」と思っていました。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。”イザヤ53:4

しかし、そのように思っていたのは、その時代の人たちだけではありません。私たちもそうなのです。私たちも「2000年前のイエス・キリストの十字架と、いまの時代を生きる私に何の関係があるのか」と思っていなかったでしょうか。

イエス・キリストは、私たちの病、痛み、苦しみを担われたのですが、私たちを含むすべての人は「それは私とは関係ない」と考えたのです。「イエス・キリストが歴史上実在した人物で、彼の生涯の最後が十字架刑だった」ということは知っていても、いまも多くの人々が「それは自分とは関係ない」と思っていることでしょう。

十字架と私

しかし、聖書はイエス・キリストはほかではない、私の、あなたの、病、痛み、苦しみを担ったために十字架にかかられたのだというのです。このキリストの十字架と私が重なるときに奇跡は起こるのです。いまあなたの右手を出して、その手のひらを見つめてください。そこに十字架を思い描いて見てください。次に左手を出して、その掌を見てください。左手はあなたの人生をあらわしています。あなたの右手、十字架と左手、あなたの人生を重ねてみましょう。

十字架と私の人生は無関係ではない。そのことがイザヤ53:5に書かれています。読んでみましょう。

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。”イザヤ53:5

「イエス・キリストの十字架が自分の罪のためだった」と知るとき、十字架はあなたに癒やしと平安をもたらします。しかし、イエス・キリストの十字架とあなたの人生が重ならない限り、なにも起こりません。

神の愛の回復力は、キリストの十字架と自分が重なる時に偉大な力をもってその人に臨むのです。そのときあなたの病は癒やされ、あなたの痛みは取り去られ、あなたは苦しみから解放されます。あなたの人生は新しく造り変えられます。

すべての人に、イエス・キリストの十字架と自分の人生が重なる瞬間が必要です。

私にもその瞬間がありました。

私は牧師の息子として生まれ、教会で育ってきました。ですから幼い頃から「罪、十字架、救い」と耳にタコができるほど聞いていました。ですから頭では、知識としては、罪について、十字架について、救いについて分かっていました。しかし、それが私の人生と重なっていなかったのです。

私は15歳の時、スーパーで万引きをしてお店の人に捕まりました。そのとき「警察を呼ぶか、家族を呼ぶか」選ぶように言われ、家族を呼んでもらいました。しばらくすると父親がやってきて、お店の人に深々と頭を下げて謝ってくれました。その後、私は許されましたが、父親が頭を下げている姿を後ろから見ていたときに、キリストの十字架と自分の人生が重なったのです。

そして「あぁ、小さい頃から聞いていたイエス様の愛ってこういうことだったのか」と分かったのです。いま、何も悪くない父親が、悪いことをした自分に代わって謝ってくれている。「これが父なる神の愛なのだ」と頭ではなく、心で理解したのです。

その後、父と帰りの車の中で、罪の告白と悔い改め、そしてイエス様を救い主として迎え入れるお祈りをしました。これが、私の人生に十字架が意味をもって介入し、十字架と私の人生が重なり、私が救われた瞬間でした。

もし、あのときイエス様を心に迎え入れなければ、自分の人生はもっと荒れて、多くの人を傷つけていただろうと思います。

イザヤ53:4のように、「イエスの十字架と自分は関係がない」と思っている状態だと、人は神の愛の回復力を体験できずに終わってしまいます。しかし5節にあるように、「イエス様の十字架が自分の罪のためだった」と分かり、自分の人生と重なったときに、神の愛の回復力が働き始めるのです。

裁きではなく回復

そのとき、あなたは神の愛の大きさに触れることになります。すると、あなたの人生に癒やしが訪れます。あなたの心には平安が与えられます。どんな人生の嵐も、あなたの心からその平安を取り除くことはできません。

裁きではなく「癒やしと回復」。これが神の私たちへの愛の根底に流れているものなのです。

イザヤ53:6に目を留めましょう。

私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。”イザヤ53:6

神は、すべての者の咎をイエス・キリストに負わせたのです。

神は、私たちをその罪によって裁くことを願っておられません。ただ私たちがその罪を認め、悔い改めることを求めておられるのです。もし神が私たちの罪によって私たちを裁くなら、誰一人として生き延びることはできません。すべての人が神の前に罪を犯しているので、裁かれて滅びるしかないからです。しかし、神は誰一人として滅びることを望んでおられません。

マタイ18:24です。

このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。”マタイ18:14

ここは100匹のうち99匹の羊を残してでも、1匹の迷い出た羊を捜し出すイエス様の姿が描かれている箇所です。イエス様がそこまでする理由は「一人でも滅びることは父のみこころではないから」だというのです。

神のみこころは、私たちが自分の罪を抱えたまま滅びることではなく、罪が赦されて神とともに永遠に生きることです。そのために神はイエス・キリストを遣わし、救いの道を、回復の道を開いてくださったのです。

ここで気をつけたいのは、私たちが病気になったり、苦しみが与えられたりするのは、神からの罰ではないということです。ですから、癒やされるために自分はもっと何かしなければいけないとは考えないでください。

ある人は病や弱さを通して神に出会います。またある人は、その弱さを通して神に近づけられ、神の栄光を現わすのです。ですから、病や弱さそのものが神からの罰ということではありません。

今日、見てきたように、神のみこころは私たちが回復することです。まず、神と私たちとの関係の回復が大切です。その上で、体の癒やし、心の癒やしも大胆に神に求めていきましょう。神様は私たちが回復することを願っておられるのです。このクリスマスの時、愛なる神と私の人生が重なり、私たちが心も体も回復し、神の栄光がますますこの地に輝くことを祈り求めていきましょう。

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