お知らせ
2023年10月15日 ぼくらの世界 〜私から始めるアクション〜
ぼくらの世界〜私から始めるアクション
マタイの福音書 6章11節 佐藤賢二 牧師
(世界食料デー礼拝 第1礼拝)
ご案内している通り、本日は「世界食料デー礼拝」です。
「世界食料デー」というのは、毎年10月16日、国連によって、世界の食料問題について考える日として定められたものです。私たちとも関係の深いハンガーゼロでは、9月から11月までの3ヶ月間を、「世界食料デー月間」と名付けて、様々な啓蒙活動を行っています。今年のテーマは、「ぼくらの世界〜私から始めるアクション〜」です。とても素敵なテーマだと思いましたので、今日の私のメッセージのタイトルにも、そっくりそのまま使わせて頂きました。
「ぼくらの世界」というフレーズは、ぼくらは、またこの世界は、一つなんだということを意識させてくれます。「経済的に豊かな国」も、また「貧しい国」も、等しく「ぼくらの世界」なんです。飢餓問題は、他人事ではなく、「ぼくらの問題」である。そのように、私たちの視点を向けさせてくれる、とても良いタイトルだと思いました。世界で起こっている問題を、私には関係ないこととしてではなく、私自身のこととして捉え、自分に出来るアクションを起こしていこう。そんな思いが伝わってきます。
今日は、皆さんとご一緒に世界の食料問題について学びつつ、主の御心に思いを向けて、私たちも何か一歩踏み出すきっかけになればと願っています。
それでは、今日の聖書箇所をお読みいたします。マタイ6:11です。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。マタイの福音書 6章11節
これは、私たちが毎週告白している「主の祈り」の一部です。非常にシンプルな箇所ではありますが、とても大切な祈りだと思うのです。皆さん、「私たちの日ごとの糧」とありますが、皆さんにとって、この「私たち」とは誰のことでしょうか。
1 「私たち」とは誰のことか
ある人にとってそれは、「私たちの家族」のことかもしれません。ある人は「私たちの教会」のことを考えてくれているかもしれません。また、ある人にとっては、「私たちのこの街」のことかも知れませんし、ひょっとしたら「私たちの国、日本」全体を思い浮かべながら祈っているという方もおられるかも知れません。でも中には、ひょっとしたら、世界80億人と言われるすべての人を、「私たち」と捉えて、祈っているという方もいるかも知れません。そんな方がおられたら、素晴らしいと思います。
いずれにせよ、私たちが、どの範囲で「私たち」と捉えているのかということについて、時々意識してみることは大切なのではないかと思うのです。
私たちは、飢餓や貧困、あるいは戦争で悲惨な目にあっている人たちのニュースを目にした時、心動かされて、涙を流して祈ることもあります。でも、しばらくして時が過ぎれば、私たちはいつしかその事を忘れ去ってしまい、そこに今も苦しんでおられる方々がいるのだという現実も、私たちの思いから消え去ってしまうのではないでしょうか。また、どんなに私たちが、「私たち」の範囲を広げようとしても、無意識のうちに、私たちが普段「敵」だと見做しているような人や、どうしても赦せないと考えているような人を、そこから排除してしまっているようなことはないでしょうか。
私たちは、毎週、主の祈りの中で、「私たち」と祈っていながら、実際のところは「私」すなわち、自分のことしか考えていないのかもしれません。私たちは、いやこの私は、とことん自己中心で、自分勝手な存在なのです。
2 自己中心な私
皆さん、「罪」の本質は自己中心です。英語で「罪」のことを、SINと言いますが、アルファベットにするとS-I-N、いつでもその中心にはI、自分がいる、それが罪なんだと聞きました。SからNまで、つまり南から北まで、世界中どこに行ってもI、自分が中心だという意識。それが自己中心であり、それが罪の本質なのです。
今世界で起こっている食料問題も、究極的には「人間の罪」が原因だと言うことが出来るでしょう。それは、他の人を顧みずに、自分さえ良ければいい、自分たちさえ良ければいい、あるいは今の時代だけ良ければいい、そうやって自分の視点からだけでものを見てきた結果だと思うのです。
でも主は、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈るようにと言われました。「私たちの、日ごとの糧」です。神様が造られた私たち。私たち人間は、どこにいても、誰であっても、神様の御前に等しく「高価で尊い」存在なのです。年齢も、性別も、肩書も、民族の違いも、主義主張の違いも、あるいは宗教の違いすらも、その人の価値に優劣はありません。イエス様は、そんな私たち一人一人のために、十字架にかかって、死んでよみがえってくださったのです。神様の愛が及ばない人など、この世に1人もいないのです。
ですから、私たちが毎週「主の祈り」を祈る時、世界中すべての人に思いを馳せていきたいと思います。そして神様の恵みに感謝して、今日必要な糧を与えてくださいと、へりくだって祈っていきたいと思うのです。
3 世界の飢餓人口
さて、今日はここで、私が少しハンガーゼロのホームページで学んだことをお分ちいたしたいと思います。世界の食料問題に目を向けていくために、ほんの少しでも、共に理解を深められればと思います。
まず、世界の飢餓人口についてです。皆さんは、世界でどれくらいの人が、飢餓状態にあるのかご存知でしょうか。実に世界の人口の10人に1人、8億2800万人もの人が飢餓状態にあるというのです。中でも、アフリカでは5人に1人、南アジアでは6人に1人と、飢餓の割合が特に高くなっているそうです。
では、世界の飢餓人口は、10年前と比べて増えたのでしょうか、減ったのでしょうか。様々な取り組み、努力がなされているので、減っている、と言いたいところなのですが、実は10年前と比べて1億5000万人も増えてしまっているのです。なぜでしょうか。その大きな要因となったのが、コロナ禍です。発展途上国では、日雇労働などの不安定な条件で仕事をしている方々が多いため、コロナ禍で仕事を無くしたり、収入が減ったりして、貧しかった人たちが、もっと貧しくなってしまったというのです。
それに加えて、ロシア・ウクライナの戦争の影響で、世界中で食べ物や燃料の値段が上がり、生活が苦しくなる人がさらに増えてしまっているのです。特に、アフリカの多くの国では、ロシアとウクライナから大量に小麦を輸入していたので、大きな影響を受けているのだそうです。
4 日本の食料事情
日本の食料事情についても考えてみましょう。
日本ではフードロスの問題が深刻になっています。何と日本では、年間500万トン以上の食べ物を廃棄しているのだそうです。これは東京ドーム5杯分に当たります。日本に住むすべての人が、毎日おにぎり1個分ずつ捨てている計算になるのだそうです。でも有り余るほどの食料があるのだから、少なくとも日本においては、食糧危機は起こらないのではないかと考える人もいるかも知れません。でも、実はそうとも言えないのです。
(1)食料自給率の低さ
第1の問題は、「食料自給率の低さ」です。日本の食料自給率はとても低く、小麦15%、大豆6%、トウモロコシに至っては1%未満だと言われます。しかも、家畜の餌として使用されるトウモロコシに関しては、ほぼ100%輸入に頼っています。ですので、牛、豚、鶏などの肉や、牛乳、卵なども、外国とのつながりなしには、私たちの食卓にのぼらないのだということなのです。
(2)石油に依存した現代農業の性質
第2の問題は、「石油に依存した現代農業の性質」です。「私たちは、石油を食べている」という表現があるそうです。皆さんは聞いたことがあるでしょうか。これは、石油によって化学的に造られた食品を食べているという意味ではなく、もちろんそういうことも含んでいるかも知れませんが、そうではなく、そう表現されるほどに農業が石油に依存しているということなのです。
まず、現代農業には「化学肥料」が欠かせません。この化学肥料を作るためには、空気中の「窒素」と「水素」を高温高圧状態にする必要があり、その時に大量の石油を必要とするのだそうです。では化学肥料を使わずに、有機肥料で有機農業をやれば良いではないかと考えるかも知れませんが、国内の有機肥料だけでは、国民を養い切ることは出来ません。しかも日本では、肥料となる「牛糞」でさえ、海外から輸入している現状です。当然、石油を使って運搬しているわけですから、結局ここでも大量の石油が消費される訳です。
また「大規模農園」では、トラクターなどの農機具が不可欠です。それらを動かすためにも大量の石油が必要とされます。
今回のロシア・ウクライナ戦争で、原油価格は高騰しています。世界情勢によっては、原油価格が揺れ動くだけでなく、場合によってはどんなに高い値段を出しても手に入れることが出来なくなることすら考えられるのです。石油はいつでも簡単に手に入るものではなくなるかも知れないのです。
そういう意味で、実は私たち日本人にとっても、今現在、食の安全、食料の確保が十分に守られているとは言い難い状況なのです。ぼくらの世界、私たちの世界は繋がっています。もはや、飢餓の問題は、私たちと無関係だと言うことは出来ないのです。
5 食べ物が必要なところに届かない
また、飢餓というのは「食べ物の量の問題でない」と言われます。これは、どういうことでしょうか。世界では、穀物だけでも、毎年27億トン生産されているそうです。これは、なんと約150億人分の消費量に相当するそうです。つまり、世界80億人の人口を養うのには、十分過ぎる量の食料が生産されている、ということになります。それでは、なぜ飢餓が発生するのでしょうか。
それは、飢餓というのが、食べ物の量の問題ではなく、食べ物があっても、必要なところに行き届かないという問題なのです。食べ物がそこにあっても、お金がないとその食料を手にすることが出来ない。過去の実際の飢餓を調べてみると、その国や地域全体を見れば食べ物はあるのに、貧困や、制度のせいで、必要な人がそれにアクセスすることができないという問題がほとんどなのだそうです。かの有名な「エチオピア飢餓」も、そのようにして起こったのだそうです。逆を言うと、食料が不足しても、政府や民間団体が何か対策を取ったり、彼らの収入を安定させることが出来れば、飢餓を防ぐことが出来るということなのです。
今日は、第2礼拝、第3礼拝で、ハンガーゼロのボリビア駐在スタッフの小西さんが報告をしてくださることになっていますが、彼らは、単に食料を与えるとか、経済的援助をするということではなく、現地のコミュニティーの人たちが、収入を安定させ、自立していくことを目指して働いてくださっているのです。それは、食料等の危機があった時に、彼ら自身の手で解決していくことを促すためなのだそうです。
6 日本における貧困
さて皆さん。実は、この日本国内においても、食事や栄養が十分に摂取できず、死には至らなくても健康に影響を及ぼすケースが存在すると言われているのをご存知でしょうか。
それは、「相対的貧困層の飢餓」と呼ばれる問題です。厚生労働省の発表によると、日本の2021年の相対的貧困率は15.4%。なんと、先進国の中では最悪の数字なのだそうです。その中でも、特に、ひとり親世帯の貧困率は44.5%となっていて、とても厳しい現実がそこにあるのです。
そういう方々は、一見すると、身なりもきちんとしていて、家の中には家電製品や通信機器が充実しているという場合も多いそうです。でもそれは、仕事や生活のために、食費よりも身だしなみや通信費等を優先せざるを得ないためであり、結果として、飢餓の要因となっていることがあるというのです。ここでいう飢餓とは、十分な栄養をとれず、健康を害してしまうような状態です。
相対的貧困層の家庭では、子どもにも満足な食事を与えられない場合もあります。でもそのような場合、持ち物や服装はほかの子どもと変わらず、ただ食べ物が不足しているだけです。そのため、栄養不足の身体で、ほかの子どもと同じように走り回って怪我をする、などの問題も懸念されているそうです。
今、教会でも、有志の働きとして「子ども食堂」などの取り組みもなされていますが、私たちに出来ることは何なのか、祈りつつ考えていきたいと思います。
ヤコブの手紙2:14-17にはこのようにあります。
私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
ヤコブの手紙 2章14~17節
私たちは、「行い」のない信仰が虚しいということを、自覚しつつ、自分に何が出来るのかを考えていきたいと思います。
「想像力の欠如は愛の欠如」だと言われます。そのような方々の実際の必要について、また心の飢え渇きについて、私たちはどれだけ理解出来ているでしょうか。あるいは理解しようとしているでしょうか。日本は「恥」の文化だと言われます。ですから、そのような必要があっても、それを表に出して助けを求めることはなかなか出来ないでしょう。そして、そのようにして、問題を抱え込んだその心はどれだけ緊張し、またどれだけ傷ついていることでしょうか。私自身は、本当に想像力が欠如した者です。愛のない者です。でも、イエス様が示してくださった所で、示してくださったことに関して、自分の出来ることに、精一杯取り組んでいきたいと、心から願うのです。
7 霊的飢餓状態
さて、最後にもう一つ、大切な点について触れたいと思います。それは、すべての人に、食べる物が十分に行き巡りさえすれば、それで良いのかということです。
イエス様は、このように言われます。マタイ4:4です。
イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
マタイの福音書 4章4節
私たちにとって、生きていくために必要な食料としてのパンを得ることは不可欠です。でも私たち人間は、パンだけではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生かされる、霊的な存在なのです。
今、霊的に飢餓状態の人が、世界中にたくさんいます。そういう意味では、日本は世界で第2の未伝地域、まだ福音が広がっていない地域と見なされています。私たちは、そんな日本という国に、生かされているのです。
今、世界中から、日本の宣教のために祈りが捧げられ、具体的な支援がなされています。ここで私たち自身が、立ち上がらなくて、誰が立ち上がるのでしょうか。食料としてのパンも、霊的な食物としてのパンも共に大切です。だから私たちは、神の愛の実践と共に、福音を伝えるための働きも、同じように熱心に取り組んでいく教会でありたいと思うのです。
ぼくらの世界。私から始めるアクション。
今日、それぞれ主からの語りかけに耳を傾け、応答していきたいと思います。お祈りいたしましょう。