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2023年9月10日 テモテの生涯から学ぶ(3)〜神の家族としての教会〜

テモテの生涯から学ぶ(3)〜神の家族としての教会〜
テモテへの手紙 第一 3章14~15節 佐藤賢二 牧師

今日は「テモテの生涯から学ぶ」というシリーズの3回目、「神の家族としての教会」というテーマで学んでいきたいと思います。まず今日の御言葉をお読みしたいと思います。第1テモテ3:14-15です。

私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながら、これらのことを書いています。たとえ遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたに知っておいてもらうためです。神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。
テモテへの手紙 第一 3章14~15節

ここに、パウロがこの手紙を書いた目的が書かれています。それは「私たちが、神の家でどのように行動すべきか」を知らせるためだというのです。「神の家」とは、「神の家族としての教会」のことです。パウロは、「神の家族」である私たちが、教会においてどのように行動すべきなのかを、この手紙に記したと言っているのです。そして、教会は「真理の柱と土台である」とも言われています。パウロは、教会とは何なのか、教会とはどうあるべきなのか、また教会に属する私たちはどのような秩序で歩むべきなのかということを、事細かに教えているのです。

パウロにとって、このことはとても重要なことでした。なぜなら、これはパウロの使命に関わることだったからです。エペソ人への手紙3:7-11を見てみましょう。

私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。
エペソ人への手紙 3章7~11節

ここでパウロは、神様の恵みの賜物にとって、自分に与えられた2つの使命について述べています。一つ目は、「異邦人に福音を宣べ伝える」ということ。そしてもう一つは、「世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにする」ということです。

1. 世々隠されていた奥義

奥義というのは、ちょっと分かりにくい言葉ですが、英語では「ミステリー」という単語が当てられています。いずれにせよ、何か謎めいた感じがしますが、パウロはこの言葉を、「かつては隠されていたが、今や明らかにされたキリストによる神の永遠のご計画」という意味で使っています。そしてパウロ自身、「この奥義の実現」について、人々に解き明かすことが、自分の使命だと言っているのです。

では、その奥義とは具体的に何のことを指しているのでしょうか。それは、一言で言うと「教会」のことです。そして、もっと言うと「すべての人は、福音によって、教会において、神の家族として一つとなる」ということです。

エペソ2:18-19にはこのように書かれています。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
エペソ人への手紙 2章18~19節

教会は、福音によってすべての人が一つとなる場所です。ユダヤ人も異邦人も、どんな国籍の人も、どんな社会的立場の人も、男性も女性も、老人も子供も、主人も奴隷も、すべての人が一つのからだに連なる場所。それが「教会」です。ですから、この「教会」こそが、神の奥義の中心なのです。

先ほど見たエペソ3:10には、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるとありました。この世界が神の豊かな知恵を知る方法、それは教会を通してなのだということです。ですから、パウロがテモテに書き送ったように、「神の家族である教会」において、私たちがどのように行動すべきかということは、神の奥義の実現のために、またこの世界への証しのためにも、とても大切なことなのです。

2.「神の家族」としての教会の秩序

さて、それではパウロはテモテに具体的にどのような指示を出したのでしょうか。「神の家でどのように行動すべきか」、つまり「神の家族」としての教会のあり方とはどのようなものなのでしょうか。ここでは3つのポイントで見ていきたいと思います。

(1)お互いに自分の家族の一員のように接する

まず第1のことは、「お互いに、自分の家族の一員のようにして接する」ということです。神の家族である教会の交わりは、本当の家族のような交わりであるべきです。1テモテ5:1-2には、このように書かれています。

年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。
テモテへの手紙 第一 5章1~2節

ここはとてもシンプルな教えです。基本的に、年配の男性に対しては、父親に対するように。年配の女性に対しては、母親に対するように。若い男の人に対しては、兄弟に対するように。また若い女の人に対しては、姉妹に対するように、とあります。家族という共同体は、もともと何かの目的を達成するために作られた組織ではありません。家族とは、純粋な愛によって結び合わされた、居場所であり、帰って来れる場所です。

ある教会では、会堂に大きく「お帰りなさい」と書いてあって、お互いに「お帰りなさい」と挨拶をし合っているところもあります。私がそこを訪れた時、そこでは、初めて来たはずの私にも同じように「お帰りなさい」と声をかけてくれました。少し驚きましたが、教会は家族であって、そこは安心して帰ってこられる場所なんだというメッセージを強く感じました。

神の家族である教会の中には、普通世の中で生活しているだけでは出会えないような立場の人、年齢の人、さまざまなタイプの人がいます。そして、その中には、自分とは馬が合わない人もいるわけです。ですから、時には、ぶつかってしまったり、うまくいかないこともあると思います。親密な関係であるが故に、そこで傷ついたり、辛く感じたりすることもあるかもしれません。でも神様は、あえてそのような関係を私たちに与えてくださったのです。そういう時こそ、私たちはお互いに神の家族であるということを思い起こしていきたいと思います。

世の中の関係であれば、「うまくいかなければ、それまで」かも知れません。でも、家族であるならば、これからも一緒に過ごしていくという覚悟で接する必要があるのです。そして、必然的に、私たちは主の前に引きずり出される経験をするのです。すると、自らに光が当てられ、これは相手の問題である以前に自分自身の問題であるということに気づきます。そして、自我が砕かれ、そこから和解が始まっていくのです。私たちが、一つとなれるのは、ただイエス様の十字架のみわざによるのです。それがなされるのが、神の家族である教会の素晴らしさなのです。

私たちは教会において、「お互いに、自分の家族の一員のようにして接して」いるでしょうか。まずこのことを、心に留めておきたいと思います。

(2)弱い立場の人に心を配り、お互いに助け合う

第2のことは、「弱い立場の人に心を配り、お互いに助け合う」ということです。ここでは、この当時の最も弱い立場の人の例として「やもめたち」に関して、かなり細かく言及されています。1テモテ5:3-4を見てみましょう。

やもめの中の本当のやもめを大事にしなさい。もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。
テモテへの手紙 第一 5章3~4節

まず心に留める必要があるのは、当時「やもめたち」は、生活の糧を得ることのできる方法が、ほとんどなかったということです。ですから、その様な方々にどの様にして特別な配慮を表していくかということが、教会にとって、いつも大きな課題でした。使徒6:1にはこの様にあります。

そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。
使徒の働き 6章1節

ここは、このことをきっかけに、ステパノやピリポといった人物が、教会の実務のための執事として選ばれた所です。ここでまず分かるのは、教会はこの頃すでに、やもめたちへの特別な配給をしていたということです。そして教会が大きくなるにつれて、ある人たちが顧みられなくなる状況が生じた。そしてそれをきっかけとして、教会はその体制を見直していったということです。教会は、どんなに小さくても、また大きくなっても、弱い立場の人たちへの特別な配慮がなされるべきです。なぜなら教会は神の家族だからです。

しかし、テモテが牧していたエペソの教会においては、その様な教会の制度を逆手にとって、悪用する「やもめ」たちがいた様なのです。ですから、「やもめの中でも本当のやもめを大事にしなさい」と言われているのです。そこで、すべてを教会に任せっきりにするのではなく、それぞれが「親族、特に自分の家族」の世話をきちんとするようにとの勧めがなされているのです。

ここで注目したいのは、「自分の家の人に敬愛を示しなさい」と言われていることです。これは、援助を受けるしかない、やもめのことを「尊敬に値する人」として、愛情を表しなさいということです。これは、とても大切なことです。神の家族は、何か困っている人、弱っている人に対して、施しをしたり、援助をしたりしますが、それはその方への敬愛の念を持ってなされなければならないということなのです。決して、「してやっている」という様な思い上がった心や、いやいやながらに行うようなものではないということです。

これは、自分の家族においても同じです。いや、むしろ自分の家族に対してそのような敬愛を示すことを教えることが出来るのが、神の家族である教会の役割でもあります。

私たちは、「弱い立場の人に心を配り、お互いに助け合って」いるでしょうか。このことも、もう一度、心に刻んでいきたいと思います。

(3)教会は、家族のように治められる必要がある

第3のことは、「教会は、家族のように治められる必要がある」ということです。神の家族である教会は、実際の家族のように治められなければなりません。そのために、どのような人が教会のリーダーとして相応しいのかということがここで語られています。1テモテ3:1-7をお読みしましょう。

次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。
テモテへの手紙 第一 3章1~5節

ここに「監督」と出てきますが、これは教会のリーダーのことです。そして教会のリーダーとして求められる資質が、ここに細かく列挙されているのです。皆さん、どうでしょう。なかなか、ハードルが高いです。これを完璧にできる人を求めようとしたら、それはもう誰もリーダーとして立つことが出来ないかもしれません。

でも、ここで言われているのは、たとえ完璧ではなくても、リーダーは、ここにある基準をしっかりと心に刻みつつ、自戒しながら歩んでいける人でなければならない、ということなのだと思います。ですから、私は相応しくないから、と言って尻込みしないでください。むしろ、「監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることです」と初めに言われていたように、私は相応しくないけれど、そこに立たせてくださいと、へりくだって主の前に出ることが大切だと思うのです。

ここでは、この中でも一つの点について特に注目したいと思います。それは、「自分の家庭をよく治める」ことと「神の教会を治める」こととの関係です。

「教会は神の家族」であり、「家族は小さな教会」です。教会は、本当の家族のように養い育てられる大きな家族であり、家族も神様の愛によって建て上げられるべき小さな教会なのです。今、様々な理由で、家族関係が崩壊してしまっていたり、何かが欠けて苦しい思いをしているという方もおられると思います。でも、私たちが、自分の家族と、神の家族としての教会と、両方の家族に属することによって、私たちは足りないところを補っていただくことが出来るのです。

教会は、お父さんの愛、お母さんの愛に満ちているところです。また、それだけでなく、おじいちゃん、おばあちゃん、若い人たち、子供達、孫たちが、一つになって歩む、神の家族です。そこには、社会のいろいろな立場の人がいると思いますが、社会の肩書ではなく、家族としてお互いに愛し合う関係があるのです。

ですから、「教会のリーダーは群れを自分の家族のように治める」人でなければなりません。教会は、家族のように治められる必要があるのです。

3. どのようにして神の家族を建てあげるか

ただ、教会の組織としてのあり方に、唯一絶対の正解があるわけではありません。どのような形態が相応しいかは、地域教会の規模や置かれている状況でそれぞれ考え、選び取っていかなければならないからです。教会は神の家族であり、弱い立場の人に仕え、共同体の中で神の愛が育まれていかなければならない。そのことを踏まえ、いつも試行錯誤して、時には大胆に変わっていく勇気も必要だと思います。

私たちの教会は、日本の教会の中では比較的大きな教会と言われます。そのような教会で、弱い人やすべての人への配慮を表しながら、家族のような交わりを保っていくには工夫が必要です。今は、日曜日の礼拝では、それぞれの世代や特別なニーズに焦点を合わせた礼拝を行なっています。通常の第一礼拝から第三礼拝、オンライン礼拝に加えて、小学生対象のジョイジョイチャペル、中高生対象のユース礼拝、そして大学生以上を対象としたNEXT礼拝が行われています。最近では、知的障害を持つ方のためのスプリング・チャペル、乳幼児とその保護者を対象としたラブリー礼拝も始まりました。

またそれに加えて、それぞれが家族のような交わりや祈りあい、分かち合いができるように、牧会ファミリーという小グループでの交わりを行なっています。この牧会ファミリーは、週に1回集まることを原則としていますので、基本的には集まりやすい、同世代だったり、生活リズムが同じような人たちで構成されることが多い状態です。それは素晴らしいことです。

でもそうすると、同じような世代で集まっていますので、問題も出てきます。例えば年配の方が集まるファミリーでは、全員が同時に歳をとっていきますので、話題になるのが健康面の話ばかり。そして徐々に、車の運転もできない人も増えて、送迎など、どうしても自分達だけでは解決できないような問題も出てきています。交わりは充実していても、そこから、新しく増え広がっていくというイメージが持ちづらい状況なのではないかと思うのです。

そこで、その解決の一つとして提案されているのが、「地域サロン」の働きです。

「地域サロン」は、基本的に、出来るだけ歩いていける距離に住む教会員とその家族が集まって、互いを知り合う場となることを目的としています。歩いていける距離というのは、駐車場の問題をあまり考えなくても良いようにということです。

「地域サロン」目指すものは3つあります。

  • 多世代での神の家族としての交流の場となること。
  • 自分の住む地域の魂に、ともに目を向けること。
  • 災害時の防災・助け合いの拠点となること。

まずは一度集まってみることを通して、教会の中に、自分たちの地域に、こんな人がいるんだと知っているだけで、教会の交わりもより豊かなものになると思います。

とりあえず、牧会ファミリー部の方で住所毎の名簿を作成いたしました。一旦、住居表示のみで分けさせて頂きましたが、その中でさらにいくつかに分かれた方が良いと思われましたら、そのようにしていただいても構いません。そして、ファミリー牧者の方を中心に、各地域に連絡係を設けさせていただきました。これから、徐々に皆様への声掛けが始まると思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

集まって、何をするかということについては、特に決めていません。例えば、お誕生日の人をお祝いするとか、一緒に食事をしたりお茶をしたりとか、バーベキューや何かのレクリエーションをするとか、それぞれ工夫して、互いを知り合う機会を持って頂けたらと思います。ゆくゆくは、ここを拠点に先ほどの3つ目的につながっていくことが出来るようにと願っていますが、まずはお互いを知ることからスタートだと思います。

教会では、11月4日(土)を「第1回 地域サロンの日」とします。

これは、絶対にこの日でなければならないということではありませんが、少なくとも教会ではこの日に他に行事を入れないように配慮して、開催がしやすいようにしていきたいと思っています。

また、「地域サロン」は年に3、4回ぐらい出来れば良いかなと考えていますが、とにかくはまず第1回をやってみて、試行錯誤していきたいと思っています。皆さん、ぜひ期待してご参加ください。

さて、メッセージをまとめますが、大切なのは、教会は神の家族であって、私たちみんなが神の家族の一員であるということです。そして、誰かだけが家族を保とうと必死になるのではなく、みんなそれぞれの立場で、愛によって共同体を建てあげる必要があるということです。

私たちは神の家族として、お互いに、自分の家族の一員のようにして接していきたいと思います。弱い立場の人に心を配り、お互いに助け合っていきたいと思います。そして、教会が、家族のように治められていくように、ともに仕えていきたいと思います。

最後に、一つみことばをお読みして終わりにしたいと思います。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
エペソ人への手紙 4章16節

お祈りします。

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