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2023年7月23日 愛に生きる私たちの十戒(11)〜何を求めて生きるのか〜
2023年7月23日 愛に生きる私たちの十戒(11)〜何を求めて生きるのか〜
出エジプト記 20章17節 佐藤賢二 牧師
「愛に生きる私たちの十戒」というシリーズの第11回目、「何を求めて生きるのか」というサブタイトルを付けさせていただきました。このシリーズも、今日でついに最終回になります。せっかくですので、ここで「十戒」を簡単に振り返ってみたいと思います。
「十戒」というのは、神様がモーセを通して与えられた、神の民のための最も基本的な教えです。これは、かつて奴隷状態だったイスラエルの民が救い出され、約束の地に入れられる前に、「神の民」として整えられるために与えられた、神様からの「愛の契約」です。
前半の4つの戒めは、「神との関係について」の教えです。
- 第1戒、「まことの神のみを神とせよ。」
- 第2戒、「偶像を造ってはならない。」
- 第3戒、「主の名をみだりに口にしてはならない。」
- 第4戒、「安息日を覚えて、聖なるものとせよ。」
そして、後半の6つの戒めは、「隣人との関係について」の教えです。
- 第5戒、「父と母を敬え。」
- 第6戒、「殺してはならない。」
- 第7戒、「姦淫してはならない。」
- 第8戒、「盗んではならない。」
- 第9戒、「偽りの証言をしてはならない。」
- そして、今日の第10戒、「隣人のものを欲してはならない。」です。
後にイエス様は、これを「神を愛すること」と「隣人を愛すること」という風に要約しました。そして、これらの戒めの捉え方について、当時の律法学者たちが陥っている過ちを、鋭く指摘したのです。例えば、たとえ「殺してはならない」という戒めを守っていたとしても、もし兄弟に対して怒ったり、ばか者と言ったりするなら、それは「殺してはならない」という戒めを破ったのと同じ裁きを受けると言われました。また、「姦淫してはならない」という戒めを守っていたとしても、もし情欲を抱いて女を見るなら、それも「姦淫してはならない」という戒めを破ったのと同じだと言われました。なぜなら、これらの戒めは、ただ表面上・形だけ守っていれば良いという性質のものではないからです。むしろ戒めは、私たちの心の奥底にある弱さや、罪の性質に気づかせてくれるもの。そして、だからこそ、神により頼んで、へりくだって歩むことの大切さを教えているものなのだということを、イエス様は指し示したのです。
神様は、私たちの心を見られるお方なのです。
そういう意味で言うと、今日の第10番目の戒めは、今までのすべての戒めを締めくくるに相応しい戒めだと感じます。なぜなら、他の戒めがすべて行動に表されるものについての戒めであるのに対し、この戒めだけが、ダイレクトに「心の中の問題」に焦点を当てているからです。
それでは、今日の聖書箇所をお読みしたいと思います。出エジプト記20:17です。
あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。
出エジプト記 20章17節
はい、これが十戒の第10戒です。主に期待して、ともにみことばから学んでいきたいと思います。
それでは今日も3つのポイントに絞って、話をさせて頂きたいと思います。
1 「欲すること」が悪となるのはどんな時なのか
第1のポイントは、「『欲すること』が悪となるのはどんな時なのか」ということです。
まず申し上げたいのは、「欲すること」すなわち「欲求」そのものは、本来悪ではないということです。
例えば、私たちにとって、最も身近な欲求の一つである「食欲」について考えてみましょう。この「食欲」のおかげで、私たちはお腹が空いた時に「食べたい」と思うことが出来、それが原動力となって、実際に食事をするのです。こうして私たちは、必要な栄養を体に取り込み、健康な生活を送ることが出来るようになります。でももし、食欲がなかったら、どうなるでしょうか。私たちはあえて食べるということをしなくなり、やがて健康を害してしまうのです。
また、もっと一般的な「欲求」についても考えてみましょう。私たちは、より良いものや、必要なものを「欲しい」と思う「欲求」があるからこそ、文明や経済を発展させてくることが出来ました。市場経済では、基本的に需要と供給のバランスによって価格が決まるとされていますが、そもそも人々に「購買意欲」がなければ、(買いたいと思う欲求がなければ、)誰も何も買わなくなる訳であって、それでは経済が発展することはないのです。
このように、「欲求」というのは、本来、私たちが健康で健全な生活をしていく上で、なくてはならないものなのです。神様は人を造られた時、「それは非常に良かった」と言われましたが、人間に備わっている「欲求」とは、本来その「非常に良いもの」の一部として、神様によって与えられたものなのです。
では、この第十戒においては、何が問題とされているのでしょうか。「欲すること」が悪となるは、どんな時なのでしょうか。
二つの観点から見てみたいと思います。
(1)隣人のものを欲しがること
まず問題となるのは、「隣人のものを欲しがること」です。先ほどの御言葉でも、「隣人のものを欲しがってはならない」と言われていました。よく「隣の芝は青く見える」なんて言いますが、他の人の持っているものの方がやたらとよく見えてしまうということは、よくあることです。でも、その「羨ましい」という感情が、やがて良からぬ陰謀へと繋がっていく。その時点で、もはや正常な「欲求」にとどまるものではなくなってしまうのです。
この「欲しがってはならない」と訳されている言葉は、ヘブル語で「ハーマド」と言います。これは、ただ単に「欲しい」と思うだけでなく、「それを自分のものとするための陰謀も伴った感情」だというのです。つまり、「欲しい」と思うのと同時に、「奪いたい」「何とかして自分の物にしたい」と画策することも含めた強い感情を指す言葉だ、ということなのです。
こうして、御言葉にあったように、「隣人の家を奪いたい、隣人の妻を手に入れたい、隣人の財産を奪いたい」と画策するようになるのです。ですから、「隣人のものを欲しがる」ということは、問題になるのです。
(2)制御の効かない欲求
また、「制御の効かない欲求」も問題です。先ほど見たように、ここではヘブル語の「ハーマド」という言葉が使われているのですが、この箇所は口語訳や文語訳の聖書では「むさぼってはならない」と訳されています。私は、ここではむしろその訳の方がしっくりくるようにも思います。なぜなら、問題とされているのは、私たちの心の奥底にある、「むさぼり」の感情だからです。
「むさぼり」とは、「制御の効かない欲求」のことです。先ほどの「食欲」に関しても、制御が効かなければ、あっという間にブクブクに太ってしまい、簡単に体を壊してしまします。また、私たちの目の前には、毎日次から次へと魅力的な「新商品」が現れてきます。そして私たちは、「それは本当に私に必要なものか」ということを考えるより前に、「それを手に入れなければ幸せになれない」と、何か駆り立てられるような状態にさせられていることがあります。今、私たちの身の回りにはものがあふれています。昔と比べて、圧倒的に生活レベルが豊かになっています。にもかかわらず、私たちはなぜ、いつまでたっても「満たされること」がないのでしょうか。
「欲しがってはならない」あるいは「むさぼってはならない」という教えは、そんな私たちに、こう問いかけているのです。
「あなたが本当に欲しいものは何ですか」
「あなたが本当に欲しがるべきものは、他にあるのではないですか」
私たちが、本当に欲しがるべきもの。それは、実は誰もが心の奥底で感じている、「魂の飢え渇きを満たすもの」、なのではないでしょうか。
私はアメリカで、神様を信じる決心をした時、このような説明を受けたのをよく覚えています。
「ケンジ。君の心には、いろんな良いものがいっぱいある。でも、どんなに頑張っても自分では満たすことのできない、空洞があるんだ。それを満たすことが出来るのは、ただ一人、神様だけだ。イエス・キリストがあなたの罪の身代わりとして十字架で死んでくれた。その愛を信じて、心にイエス様をお迎えすれば、その空洞は満たされる。」
真実な神様は、その時以来、私から、片時も離れずに、私の魂の飢え渇きを満たしてくださっています。ヨハネ4:13-14にはこうあります。
イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」ヨハネの福音書 4章13~14節
私たちは、イエス様によって「魂の飢え渇き」を満たして頂く必要があります。そうでないと、他の何かで、何とかして自分の心を満たそうとして、結果として、「むさぼって」しまうのです。私たちの、本当の必要を満たすことが出来るのは、イエス様だけなのです。
2 「むさぼり」の正体
第2のポイントは、「『むさぼり』の正体」です。しかし、神を信じているはずの私たちであっても、私たちの心のすべてがきよめられている訳ではありません。私たちの心には、相変わらず「むさぼり」の種があって、神様を信じているにも関わらず、神以外のものによって、自分の心を満たそうとする思いが働くことがあるのです。
コロサイ3:5にはこのように書かれています。
ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。コロサイ人への手紙 3章5節
ここで言う「貪欲」とは「むさぼり」のことです。なぜ、「むさぼりが、偶像礼拝」なのでしょうか。「偶像礼拝」とは、十戒の第1戒、第2戒で学んだ通り、「唯一まことの神以外のものを、神に代えて、または神と並べて、神の立場に置く」ということです。
先ほど、「むさぼり」とは、「制御の効かない欲求」だと申し上げました。この「制御の効かない欲求」が、本来神のいるべき場所に置かれるとどうなるでしょうか。その行き過ぎた「欲求」が私たちの神となり、私たちはその奴隷となるのです。そして、その「欲求」が私たちの思いや行動を支配するようになり、気がついた時には、まことの神様から背を向けて歩んでいる。そんなことになりかねないのです。
皆さんは、あのダビデという偉大な王様が犯した、大きな罪をご存知だと思います。ダビデは非常に優秀で、神を愛し、またみんなに愛される王様でした。しかし、そんなダビデがある時、大きな失敗をしてしまうのです。ある時、彼は自分の家来たちを戦いに送り出し、自分は王宮にとどまっていました。そして、何と夕暮れ時になってようやく目を覚まし、王宮の屋上で散歩をしていると、何とそこから一人の女性が、からだを洗っているのが見えたのです。そして、その女は非常に美しかったとあります。そこでダビデは、自分の権力を使って、その女が誰であるかを調べさせ、彼女を王宮に呼び寄せて、その女バテ・シェバと性的な関係を持ってしまうのです。しかし、話はそこで終わりません。何と彼女から、妊娠したとの報告を受けたのです。ダビデはそれを隠蔽しようとして色々と画策しました。しかし、結局それはうまくいかず、ダビデは最終的に、その夫であるウリヤを戦地にて殺されるように仕向けて、その後バテ・シェバを自分の妻として召し入れたのです。
これは、明らかに神の御心を損なう行為でした。ダビデは、それまで神を愛し、神を第一として歩んできた王様でした。しかし、彼の心の中にも「むさぼり」があったんです。彼の心には、その時、慢心があったのでしょうか。今の自分の権力を持ってすれば、自分には何でもできる。人のものであろうが、その気になれば何でも手に入ると、誤解してしまったのでしょうか。気がついた時には、「むさぼり」が、ダビデの偶像となり、ダビデは罪の奴隷と化していたのです。これが「むさぼり」という偶像礼拝の行き着くところです。幸い、ダビデはこの後、罪を示されたときに、我に帰って、素直に心から悔い改めるのです。
その時に記された詩篇51篇より、10節から12節を見てみたいと思います。
神よ 私にきよい心を造り
揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。
私を あなたの御前から投げ捨てず
あなたの聖なる御霊を
私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを私に戻し
仕えることを喜ぶ霊で 私を支えてください。
詩篇 51篇10~12節
徹底的に悔い改めたダビデは、神様との、この豊かな、霊的な交わりが失われることがないようにと、切に求めました。主の聖なる御霊が取り去られることがないようにと、新しくきよい心が造られるようにと願いました。そして、救いの喜びを、主に仕えることの喜びを、私に返してくださいと求めました。そのことを通して、ダビデは再び、より深く神様と歩むことが出来るようになったのです。
「むさぼり」とは、偶像礼拝です。私たちを、まことの神様から引き離し、私たちを奴隷とする、恐ろしい罪です。でも、私たちの内側にも、そのような弱さがあるのです。この「むさぼりという偶像礼拝」が自分のうちにもあると示された時、私たちがなすべき唯一の解決方法は、もう一度「唯一まことの神を、自分の神とする」ということです。神様はねたむほどに、あなたを愛しておられる神様です。むさぼりという形で、自分のために偶像を刻むのをやめ、もう一度、神を神とすること。そこに、思いを集中していきたいと思います。
3 何を求めて生きるのか
第3のポイントは、「何を求めて生きるのか」ということです。私たちは、今まで見てきたように、何かを手に入れることによって、幸せを得ようとする傾向があります。でも、私たちは時々、逆に何かを失うことを通して、本当に大切なものに気が付く、ということもあるのです。
星野富弘さんという方がおられます。富弘さんは、中学校の体育教師として、とても充実した日々を送っていました。しかしある時、クラブ活動で器械体操の指導中、模範演技で空中回転したときに、誤って頭部から転落し、頸髄を損傷してしまうのです。その影響で、彼は首から下の自由を失いました。しかし彼は、病室でイエス・キリストの愛を知るのです。その後、病床洗礼を受け、口に筆を加えて絵や詩を書くようになりました。彼が紡ぎ出す言葉の数々は、多くの人に希望と励ましを与え続けているのです。
私たちの教会でも、今年10月に「星野富弘アート展」を開催することを計画しています。詳細が決まりましたら、またアナウンスさせて頂きますので、ぜひお越しいただきたいと思います。
彼の代表作の一つに「たんぽぽ」という作品があります。
この中に、とても印象的なフレーズがあります。
「人間だって、必要なものはただひとつ」
「私も余分なものを捨てれば、空が飛べるような気がしたよ」
手足の自由を奪われた富弘さんです。間違いなく、たくさんの葛藤があったことでしょう。でもこの言葉は、イエス様の愛と出会った富弘さんの、本当に自由にされた心から、紡ぎ出された真実の言葉だなと思うのです。以前、私はこの詩に感動して、曲を付けさせて頂いたことがありました。
今日は、僭越ながら、ここで歌わせていただきたいと思います。
ぜひ、よく歌詞に耳を傾けて聴いて頂きたいと思います。
いつだったか きみたちが
空をとんでいくのを見たよ
風に吹かれて ただひとつのものを持って
旅する姿が うれしくてならなかったよ
人間だって どうしても必要なものは ただひとつ
私も 余分なものを 捨てれば
空が飛べるような 気がしたよ
今、共に主の前に出て、考えてみたいと思います。私たちにとって、どうしても必要なものとは何でしょうか。
私たちにとって、余分なものとは何でしょうか。何が、ただ一つのものを求めることから、私たちを妨げているのでしょうか。誰かと比べることでしょうか。今、与えられているものへの感謝が足りないことでしょうか。周りの目を気にして、誰かに合わせなければならないと感じるところでしょうか。
「むさぼるな」という教えは、私たちが「本当に求めるべきものは何か」を問いかけています。ダビデは、先ほどとは別の詩篇でこのように告白しています。
一つのことを私は主に願った。
それを私は求めている。
私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。
主の麗しさに目を注ぎ
宮で思いを巡らすために。
詩篇 27篇4節
私たちも今、主ご自身を求めていきたいと思います。
今、しばらくの時間、それぞれ主の御前に祈りましょう。