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2023年5月21日 愛に生きる私たちの十戒(4)〜主の御名をあがめる生き方〜

2023年5月21日 愛に生きる私たちの十戒(4)〜主の御名をあがめる生き方〜
出エジプト記 20章7節 佐藤賢二 牧師

2週間ほど間が空きましたが、今日は久しぶりに「愛に生きる私たちの十戒」というシリーズの第4回目「主の御名をあがめる生き方」というタイトルでメッセージを取り継がせていただきます。それではまず、今日のみことばをお読みいたします。出エジプト記20:7です。

あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。
出エジプト記 20章7節

「あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」これが第3戒の教えです。

1. 主の名をみだりに口にするとは?

「主の名をみだりに口にする」とは、どういう意味でしょうか。

私は高校生の時に1年間アメリカに留学をしていました。そこで、現地の彼らが日常的に使っているフレーズを聞いて、面白いなと思ったことがあります。英語を少しでも話す皆さんは、Oh my goodness! とか Oh my gosh! というフレーズを聞いたことがあるでしょうか。これは、日本語にすると「マジか!」とか「ヤベェ!」とかいう様な意味で、よく使われる言葉です。これは、Oh my God! 「おお、神よ!」ということばの、言い換えとして出来たフレーズなんだそうです。なぜ言い換える必要があるのかというと、Oh my God! と直接言ってしまうと、神の名を冒涜することになってしまい、不謹慎なのだからだそうです。日本ではそもそも、「おお、神よ!」と言って、日常生活の中でまことの神様の名前を呼ぶことはほとんどありませんよね。ですから私は、英語圏の人々にとって、キリスト教がそこまで日常生活に浸透しているという事実に、まずびっくりもしました。そして、「神の名をみだりに使う人」がいる一方で、「神の名をみだりに呼ばないように」と工夫して新しい言葉が生み出されているという事も、大変興味深いことだと思いました。

このように、「主の名をみだりに口にしてはならない」という伝統は、現代でも残っています。しかし、旧約聖書の時代のイスラエルの人たちは、この戒めをもっと厳格に受け止めていました。彼らは、文字通り「その名前を決して口にしてはいけない」という風に受け取ったのです。と言うのも、この戒めには、「主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」という、罰則規定も定められていたので、イスラエル人たちはかなり深刻に、そして厳格に守るべき教えとして受け止めていたのです。

2. 神の名前について

聖書で神の名前として記されているのは、ヤハウェという言葉です。このヤハウェという名前は、ローマ字でYHWHと表記します。これは旧約聖書に6000回以上登場するのですが、イスラエルの人たちはこの名前を決して口にすることがないように、細心の注意を払いました。彼らは聖書の中でこの名前が出てきた時には、アドナイという言葉に置き換えて読む事にしたのです。アドナイというのは、ヘブル語で「主」とか「主人」とかを意味することばです。しかし、ここで面白いことが起こります。彼らが何百年もそんなことを続けているうちに、誰もこのYHWHという神の名前の本当の読み方が分からなくなってしまったというのです。そんなアホな!と思うかも知れません。でも、少なくともイスラエルの人たちは、それほどまでに真剣に、神の御名を取り扱っていたということなのです。それが正しい方法だったかどうかはともかく、神の名前を、神聖なものとして、真剣に受け止めるという姿勢は、私たちも見習わなければならないものだと思うのです。ちなみに初期のヘブル語は、先ほどのYHWHのように基本的に子音しか記載しなかったそうです。それにどんな母音をつけて読むかは読み手の力量にかかっていました。え、そんな不便な言語ってあるの?と思うかも知れませんが、そういう意味では日本語もそういう言語なんです。

ちょっと脱線しますが、例えば、これは何と読みますか?

「生き物係の先生が養生中の芝生に生姜が生えた」

あの無理矢理作った文章なので、ちょっと変ですがご了承ください。ここに「生」という漢字が6回出てきますが、全部違う読み方です。これが読めるのは、読み手の経験と知識という、力量によるものですよね?

これとある意味同じように、ヘブル語も、子音だけの表記であっても、ちゃんと教育を受けた人が読めば、どのように読めば良いか分かったのだそうです。しかし、それでは流石に不便だということで、後の時代になって読み方を指示する色々な記号が追加されるようになりました。日本語の文章の漢字にふりがなが付けられた様なものです。先ほども言ったように、初期のヘブル語は子音だけで表記していましたので、そこに母音を追加するという形で読み方を指示していったのです。

それでは、YHWHには、どのようにな母音が付けられたのでしょうか?YHWHはアドナイという風に読み替えることになっていました。だからYHWHという子音はそのままで、アドナイの母音をそこにつけることになったのです。さて、問題はそこからです。後の時代になって、キリスト教の研究者たちは、「YHWHにアドナイの母音がついた単語がそのまま存在する」と思って、それを書き写してしまいました。そして、それをそのまま発音したもの「イェホヴァ」というのが、神の名前として聖書に記されることになっていったのです。日本語の聖書でも、文語訳の聖書までは「エホバ」ということばが使われています。でも、今は使いません。なぜなら、YHWHの本当の読み方を間違って口にしない様にと付けられた造語が、エホバなのですから、少なくともそれは正しいはずがないというのが、現在の一般的な理解です。そうではなく、さまざまな研究結果から、おそらく「ヤハウェ」と発音するのが正しいだろうというのが、現在の一般的な考え方になっています。

ちなみに私たちの使用している新改訳聖書では、このヤハウェに相当する単語が出てきた場合には、イスラエル人たちの伝統の考え方と同じ様に「主」という単語に置き換え、それを太文字で表記するか、太文字にできない時には【墨かっこ】を使用して、一般の「主」とは区別できる様にしています。

さて、ちょっと周辺知識についての話が多くなってしまいました。しかしここで私たちが心に留めたいのは、イスラエル人たちが、それほどまでに徹底した敬意を持って「主の御名」を大切に扱おうとした、ということです。その方法や律法主義的な動機はともかくとして、「主の御名」を大切に扱いたいという、その志は、私たちも受け継ぐべきなのではないでしょうか。

3. 神の名前に込められた意味とは?

さて聖書の中で、初めてヤハウェという名前を神様ご自身から聞いたのは、モーセです。神様は、ミディアンの地に逃れていたモーセに対して、燃える柴の中から語りかけられました。そして、エジプトにいるイスラエルの民を救い出すようにと命令を与えるのです。モーセはそれを聞いて神に聞き返しました。出エジプト3:13-14をお読みします。

モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
出エジプト記 3章13~14節

モーセが神の名を尋ねたとき、神様は「わたしは『わたしはある』という者である」とお答えになりました。この「わたしはある」は、ヘブル語で「エヒイェ」と言うそうです。しかし、「わたしはある」と言えるのは神ご自身だけなので、それをそのまま人に伝えるのは奇妙な感じがします。そこで神様はすぐ次の節で、実際にどの様に言えば良いのかをモーセに伝えるのです。15節です。

神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。
出エジプト記 3章15節

ここで初めて、【主】ヤハウェということばが、神様によって知らされます。ヤハウェとは、「わたしはある」ということばのヘブル語「エヒイェ」から派生した、「彼はある」という意味の言葉だと言われています。これが、神ご自身によって語られた、神様のお名前なのです。

聖書において、名前とはそのものの本質、そのもの自身を表しています。つまり神様の名前は「神がどのようなお方であるか」を表しているということです。では「わたしはある」という名前は、どういう意味を持つのでしょうか。それは、私たちの神様は、他の何者にもよらず存在されるお方だということを表しています。すべてのものの根源であるお方。今も昔も、またこれから先も永遠に存在されるお方。無から有を生み出すことが出来る唯一無二のお方。それが私たちの信じている神様のお名前の意味であり、神様のご性質なのです。

神の名前を口にする、ということは、そのまま私たちの信仰告白でもあります。ですから、私たちにとって「神の名をみだりに唱えない」という十戒第3戒の命令は、「間違って神の名を口にしないように」と萎縮して歩むということではなく、むしろのびのびと「神の名を正しく用いるということ」に焦点があると言うことができるのです。

4. 御名をあがめる生き方

では、「神の名を正しく用いる」とはどういうことでしょうか。私たちは、毎週「主の祈り」の中でこの様に告白しています。マタイ6:9です。

天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
(御名があがめられますように。)
マタイの福音書 6章9節

「御名が聖なるものとされますように」という所は、新改訳第3版では「御名があがめられますように」と訳されていましたので、ここに併記してあります。

イエス様が教えてくださった祈りにおいて、私たちは、神様ご自身に対して、親しみを込めて「父」と呼びかけることが許されています。その上で、その御名が聖なるものとされるように、その御名があがめられますようにと祈るようにと言われています。それは単に、口先で主をあがめるということではなく、私たち自身も「御名があがめられる生き方」を求めていくということなのです。イエス様はマタイ5:16でこのように言われました。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
マタイの福音書 5章16節

天におられる、私たちの父の御名があがめられるようになるために、私たちに求められていること。それは、良い行いを通して、私たちの光を人々の前で輝かせることだというのです。皆さんどうでしょうか?あなたは、御名をあがめるような生き方が出来ているでしょうか。あなたの良い行いを見て、周りの人々は、主をあがめているでしょうか。そんなことを聞かれると、ドキッとしてしまいます。少なくとも私自身は、正直に自分を振り返ったとき、「御名をあがめるような生活とは程遠い」、そう言わざるを得ません。何か良い行いをしようとしても、どうしても自分勝手で、自己中心的になってしまう。そんな自分の姿を、自分が誰よりも知っているからです。でも皆さん、信じられるでしょうか。神様は、こんな私のことですら、ねたむほどに愛しておられると言うのです。そして、それはあなたに対しても同じです。主は、ねたむほどにあなたのことを愛しておられるのです。それは、何か良い行いをしたからではありません。それは、あなたが元々神様のものであって、初めから大切な存在だからなのです。

だからこそ私たちも、精一杯、この神様を愛するということを選び取っていきたいのです。十戒の第一戒で見てきたように、ただこのお方のみを神として歩んでいきたい。そして第二戒で見たように、決して自分のために偶像を刻むようなことがないようにしたい。神様から与えられた、この土の器に、まことの神様以外のものを入れることがないようにと願うのです。そして、そのような願いの中で、神様がこの土の器をも、聖霊の宮としてきよめて用いてくださり、主ご自身が光り輝き出てくださる。その時、人々がその光を見て、父なる主の御名があがめられるようになるのです。自分ではありません。主ご自身が、私たちのうちに働いて、御名をあがめさせるようにとしてくださるのです。

では、そんな私たちが、御名をあがめる生き方をしていくためには、どうしたら良いのでしょうか。
コロサイ3:16-17にはこうあります。

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。
コロサイ人への手紙 3章16~17節

ここに、「ことばにおいても、行いにおいても、すべてを主イエスの名において行いなさい」とあります。ここから「主の御名をあがめる生き方」について、短く3つのことを申し上げて終わりとしたいと思います。

(1)キリストのことばを住まわせる

1つ目は、「キリストのことばを住まわせる」ということです。先ほどのコロサイ3:16では、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい」と書かれていました。単に、キリストのことばを覚えるというのではなく、「豊かに住むようにしなさい」というのです。これは、文字に縛られて生きるのではなく、主ご自身が私たちのうちに生きてくださるということです。

この土の器に何を蓄えるのか。それは、生ける神のみことばです。そして、それは律法主義とは違います。私をねたむほどに愛してくださるお方の愛を受け取り、どのように応答すれば御名をあがめることができるのかということを意識しながら、生きたみことばを心に住まわせていきたいと思います。

(2)主の御名を讃美して生きる

2つ目は、「主の御名を讃美して生きる」ということです。「詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」と言われていますが、キリストのことばをうちに住まわせた私たちは、そのことばから生み出される新しい歌をもって、主に感謝と讃美を捧げつつ生きるのです。私は今まで、多くの人が礼拝の讃美の中で主の臨在に触れられ、心から涙し、そして霊が強められ、主ご自身に対して新しく目が開かれていったのを見てきました。讃美とは、ただの歌や音楽ではありません。讃美とは、私たちの全存在をもって主の御名をほめたたえる、霊的な祈りと告白なのです。主への讃美は、私たちの霊を強め、引き上げてくれる力があります。主に讃美しつつ歩む時、私たちは目の前の状況に囚われることなく、いつでも主の力を身近に感じて歩むことが出来るのです。

神様を知らない人たちは、私たちが、どのような状況においても、神様に感謝を捧げ、讃美する姿勢を見て不思議に思うでしょう。でもそのことを通して、確かに生きておられる主が証しされ、彼らもやがて主をほめたたえるようになるのです。

(3)礼拝者として生きる

3つ目は、「礼拝者として生きる」ということです。「ことばにおいても、行いにおいても、すべてを主イエスの名において行う」ということは、私たちの存在そのものが、神の御名をあがめるものとなるということです。ローマ12:1にはこのようにあります。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
ローマ人への手紙 12章1節

私たちが礼拝者として生きるということは、私たちのからだを「神に喜ばれる、聖なる、生きたささげ物として献げる」ということです。私たちは、人の努力や、律法を守る事によっては救われません。「御名をあがめる生き方」というのは、そのような律法主義ではありません。でも、そんな弱い私であるけれども、私の存在自体を主に捧げていく時、主はそれを喜び、用いてくださるのです。主日礼拝は、私たちが「礼拝者として生きる」ために、自分自身を主におささげするという決意を新たにする所です。私たちは、礼拝において、主の御言葉をともに聴き、ともに讃美と祈りを捧げ、自らを主に明け渡す決意を新たにするのです。そして、日々遣わされた場所において、キリストの名によって主の御心を行っていくのです。

もし私たちができる「良い行い」があるとしたら、それは、私たちのすべての行いを神への礼拝としてささげていくことだと思うのです。この主日礼拝の場だけではなく、遣わされているすべての場所で、すべての行いを主への礼拝としておささげする。その時、聖霊様が、私たちの内側から輝き出てくださるのではないでしょうか。それが御名をあがめる生き方なのだと思うのです。

今日、もう一度主の御前に、自分自身をお捧げしていきたいと思います。

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