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2023年4月23日 愛に生きる私たちの十戒(2)〜愛するという決意〜

2023年4月23日 愛に生きる私たちの十戒(2)〜愛するという決意〜
出エジプト記 20章1~3節 佐藤賢二 牧師

先週から、私たちは「愛に生きる私たちの十戒」というシリーズで、御言葉を学んでいます。前回のテーマは、「神を愛し、隣人を愛す」というものでした。「神を愛する」ということは、必然的に「隣人を愛する」ということによって、はかられます。でも私たちは、どんなに「愛そう」としても、私たちのうちに、神様が命じておられるような無条件の愛、アガペーの愛は存在しないという現実を突きつけられます。ですから私たちは、何度でも、何度でも十字架の前にひれ伏し、主の愛のゆえに砕かれるという経験が必要なのです。その時、御霊の助けによって、私ではなく神様が直接働いて、愛を流してくださるのだということを学びました。私たちは、私たちに与えられている自由意志によって、愛を選び取ります。「十戒」は、そんな私たちが自由に御心をおこなっていくための、道しるべとなってくれるものなのです。

今日は、シリーズの第2回目として「愛するという決意」というタイトルでメッセージを取り継がせて頂きます。主に期待しつつ、ともに御言葉に耳を傾けて参りましょう。それでは、今日の御言葉です。出エジプト記20:1-3をお読みします。

それから神は次のすべてのことばを告げられた。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
出エジプト記 20章1~3節

これが「十戒」の第一戒です。特に、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」という部分が、この第一戒の中心ということが出来ます。今日は、この箇所から3つのポイントでお話をさせて頂きたいと思います。

1. 「わたし」とは誰なのか

まず、第一のポイントは、ここで言われている「『わたし』とは誰なのか」ということです。当然、この「わたし」とは、私たちが今礼拝をお捧げしている、この世界を造られた、唯一のまことの神様のことです。しかしその唯一のまことの神様は、この「十戒」を授けられた時、改めて「わたし」とは誰なのかということを、自ら語っておられるのです。もう一度、出エジプト記20:2を見てみましょう。そこにはこうあります。

わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
出エジプト記 20章2節

ここで神様は、「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した、あなたの神、主である」と宣言しています。これはとても大切なことです。ここで分かるのは、「イスラエルの民がかつてエジプトで奴隷であった」ということです。そして、ここで語っておられるお方が「彼らをそこから救い出してくださった」神ご自身であるということです。

かつてイスラエルの民は、ヨセフの時代に、エジプトに移り住むことになりました。それ自体、不思議な神様の計画なのですが、その当時ヨセフは、エジプトの王ファラオに次ぐ権威を持つ実力者となっていました。ですから、ヨセフの民族であるイスラエルの民も、当初はエジプトで敬意をもって受け入れられていました。しかしそこから長い年月がたち、ヨセフのことを知らない王がエジプトを治めるようになります。するとこの王は、イスラエルの民が、エジプトにおいて非常に多く、また強い民族として存在することに脅威を覚え始めるのです。そこで彼らは、イスラエルの民を奴隷として扱い、過酷な労働を課すようになり、彼らの生活は非常に苦しいものとなっていったのです。しかし、神様はそこに介入されます。モーセという人物を選び、彼に対してこのように語られたのです。出エジプト3:7-8をお読みします。

主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
出エジプト記 3章7~8節

神様は、「彼らの苦しみを確かに見」、「彼らの叫びを聞き」、「彼らの痛みを知っている」と言われました。そして、「わたしは彼らを救い出し、乳と蜜の流れる地に導く」と宣言されたのです。ここから、神様の壮大な救いの御業が始まっていったのです。

それは私たちに対しても同じです。私たちは、かつては罪の奴隷として重荷を負い、縛られて歩んでいた存在です。自分勝手な道を歩み、生きる目的を見失って、疲れ果てて倒れていた。そんな者に過ぎません。でも神様は、私たちの現実の様々な苦しみを確かに見、叫びを聞き、痛みを知ってくださるお方なのです。そして、その愛するひとり子であるイエス様をこの地に送り、私の罪の身代わりとして十字架につけてくださり、救いの道を開いてくださいました。この力強く、実際に生きて働いておられる神様が、イスラエルの民に、そして私たちに語っておられるのです。

神様は、モーセに約束した通り、イスラエルの民を実際にエジプトから救い出されました。十の災いの後にイスラエルの民をエジプトから連れ出し、昼は雲の柱、夜は火の柱で彼らを守り導かれました。そして海を分け、彼らに乾いた地を渡らせ、その後追ってきたエジプトの兵士たちを根絶やしにしてしまったのです。そのようにしてイスラエルの民を約束の地へと導かれる途上で、神様は彼らに対してこのように語られたのです。出エジプト19:4です。

あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。出エジプト記 19章4節

神様はそれまでのことを振り返って、わたしは「あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきた」という表現で、美しく言い表しています。「鷲の翼に乗せて」とは、とても詩的な表現、詩人が語るような言い方です。ここに、神様のイスラエルの民に対する、熱い思いを感じないでしょうか。そして、続けてこのように語られます。出エジプト19:5-6aです。

今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。出エジプト記 19章4~6a節

神様はここでイスラエルの民に対して、愛の告白をしておられるのです。「わたしはあなたに真実を尽くし、あなたを幸せにすることを約束しよう。あなたはわたしの宝となるのだ。これからはわたしの愛の中に留まりなさい。」つまり神様は、心を定めて、彼らと特別な関係に入りたいと、神様の側から申し出てくださっているのです。そして、イスラエルの民からの返事を待つのです。神様からの愛の告白を受けとった、イスラエルの民はどうしたでしょうか。出エジプト19:8a。

民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主の言われたことをすべて行います。」
出エジプト記 19章8a節

彼らはそのプロポーズを、ためらうことなく「はい、喜んで!」と言って受け取ったのです。いやー、良かったですね!もはや彼らにとって、その神様からの告白に応えるのは、ごく自然なことでした。なぜなら彼らは、すでにこのお方がどれほど素晴らしく、信頼できるお方であるかを、その身を持って十分に体験して来ていたからです。ですから、彼らはためらわずに、この「愛なるお方のことばに留まる」ということを誓ったのです。このような、お互いの愛の契約のもとに与えられたのが、「十戒」なのです。

もし、そのような前提がなく「十戒」を捉えるなら、それはとても冷たく厳しい命令に感じてしまうかもしれません。でも、これが神様との愛の関係を前提とした、神様との関係を深めるためのものであるということがわかれば、「十戒」は私たちに与えられた素晴らしい贈り物であるということが理解できるかと思います。「十戒」は決して、よく分からない神様が突然、人間に押し付けた戒めやルールではありません。そうではなく、お互いの愛の契約のもとで与えられた、愛の贈り物なのです。

2. 「ほかの神」とは何なのか

第二のポイントは、「『ほかの神』とは何なのか」ということです。十戒の第一戒は、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」というものでした。ここには、「ほかの神があってはならない」と命じられています。しかし「ほかの神」という表現がなされていますが、別に本当に「ほかの神」がいるわけではありません。それは、この命令を語っておられる神様が一番ご存知です。

では、ここで言う「ほかの神」とは何なのでしょうか。それは、本来「神」がおられるはずの場所に、私たちが置いてしまう、あらゆるもののことです。私たちは、「神」に代わって、あるいは「神」と並べて、私たちの人生の最も大切な場所、私たちの心の中心に、何かを置いてしまうことがあります。そして、それが私たちの行動を導く原動力となっていると言うことがあります。それが、「ほかの神」なのです。マタイの福音書6:24にはこうあります。

だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。
マタイの福音書 6章24節

ここでは、「神」と「富」とが挙げられていて、私たちはその両方に仕えることは出来ないということが語られています。しかし、ここでのポイントは、「富」だけが問題なのではなく、「だれも二人の主人に仕えることはできません」というところにあります。私たちが、実際に「何を主人として」「何に従って」生きるのか。つまり、あなたの行動力の原動力となっているものは何か、ということです。そこが問われているのです。私たちが、実際の生活の中で、まことの神以上に、あるいはそれと並べて従っているようなものがあれば、それらはすべて「ほかの神」を神としていることになるのです。もちろん、それらが必ずしも、悪いものであるとは限りません。いや、むしろそれらは良いもの、魅力的なものであることが多いでしょう。しかし、どんなに良いものであっても、私たちが神以上の存在を持っているなら、それはまことの神様の悲しまれることなのです。

では、たとえばどのようなものが、あなたにとっての「ほかの神」となりうるでしょうか。この世の「富」でしょうか。「名誉」でしょうか。「成功」でしょうか。「仕事」でしょうか。「異性の存在」でしょうか。「周りからの目」でしょうか。もちろん八百万と言われる日本の神々のもそうです。あるいは、「大切な家族」かも知れませんし、「教会の奉仕」かも知れません。または「偉大な先生」や、「仲間の声」かも知れません。これらは、みな素晴らしいものなのですが、私たちがそれらを神以上の存在としてしまうことがないか、私たちは皆、問われなければならないのです。

神様は、「あなたには、ほかの神があってはならない」と言われています。これだから「一神教」の教えは、排他的で、息苦しい、心の狭い教えだと感じる人もいるかも知れません。しかし、「十戒」がどのようにして与えられたかを考えるならば、そうは思わないはずです。「十戒」はまるで結婚関係であるかのように、特別な愛の関係を深めるために与えられた、愛の贈り物です。であるならば、「ほかの神があってはならない」という教えは、むしろ当然のものだと言えるのではないでしょうか。

私たち夫婦は結婚してもうすぐ16年になります。神様の恵みによって、本当に祝福された関係を築いてくることが出来たことを感謝しています。でも、私たちのどちらかが、実はこっそり別の異性と、不適切な関係を持っているとしたら、どうでしょうか。私は、寛容な心でそれを「いいよ、いいよ。全然OK!」と受け入れることが出来るでしょうか。・・・それは、出来ないんです。

もちろん、それでも愛する、それでも赦す、ということになるかも知れない。でも、それは二人の関係を深く傷つけ、大きな痛みを味わうことになります。だからこそ、私たちは結婚の誓約において、互いに真剣な面持ちで「その健やかなる時も、病める時も、・・・その命の限り、堅く節操を守ること」を誓うのです。そしてそれは、その時限りの口約束であってはならない。少なくとも、それを本気で守り抜くという、意志と継続的な努力が必要になってくる訳です。

もちろん、現実の結婚生活においては、色々とうまくいかないこともあるでしょう。でも、神様との関係においては、少なくとも神様の側は、徹底的に真実を尽くし、変わらない愛で愛し続けてくださっているのです。ですから、心を定めなければならないのは私たちの方です。神様は、真剣に私たちのことを愛してくださっています。遊びではありません。ですから、私たちも、この愛に真剣に応えなければならないのです。だからこそ、私たちが、決して「ほかの神」を、まことの神と同じ立場に置くようなことがあってはならない。そのことが、厳しく、命じられているのです。

3. 神を神とする

では私たちには、何が求められているのでしょうか。それが、第三のポイント「神を神とする」ということです。それは、単に「ほかの神があってはならない」というだけでなく、もっと積極的に、「神を愛するという決意」が必要だということです。何かほかの戒めを守るという以前に、まず、私たちが心を定める必要があるのです。私たちは、本当に「神を神とする」ことが出来ているでしょうか。教会にいる時だけ、あるいは奉仕をしている時だけ、「神を神とする」歩みになってはいないでしょうか。自分の信仰を語る時には、自分は神様を信じていると語りつつも、誰も見ていないところや、実際の生活においては、まるで神様を信じていないかのような生活になっていないでしょうか。私たちは、教会においてだけでなく、家庭においても、仕事場においても、学校においても、地域社会においても、果たして、本当に神を神としているでしょうか。礼拝でメッセージを聞いたり、デボーションで何か語られることがあったとしても、その場所を離れたら、結局その御言葉と関係ない生活を送っているということはないでしょうか。それは、「神を神とする」歩みではありません。「神を神とする」という時、それは24時間、365日、どの瞬間をとっても、「神を神として」歩むことが求められているということです。これも、先ほどと同じように結婚関係に置き換えて考えることが出来るかも知れません。私たちは、家庭にいるとき、直接伴侶と一緒にいる時だけが結婚関係なのではありません。私は、どんなに、家内と離れていても、目が届かないように見える時も、自分は愛する彼女の夫であることに誇りを持ち、感謝して、夫としてふさわしい振る舞いを選び取るべきなのです。それは別に、完璧であれということではありません。しかし、私たちは、「神を愛するという決意」が必要です。そして、「愛しぬくという覚悟」が必要なのです。

でもはじめに申し上げた通り、私たちはしばしば、どんなに愛そうとしても、私たちのうちに本物の愛がないという現実に直面し、打ちのめされます。そして、その度に十字架の前にひれ伏し、そこであらためて、神様の愛の偉大さを知ることになるのです。

今日、改めて、共に、この方を愛することを決意していきましょう。そして、神様が約束してくださった通り「神様の宝」となり、聖なる祭司として、神様の豊かな祝福を、この世界に輝かせていきたいと思います。お祈りをいたします。

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