お知らせ
8月 巻頭言「弱さの恵み」
毎日のみことば8月号巻頭言
主任牧師 池田恵賜
人は誰しも強くありたいと願います。
病気やケガをしたら早く回復するように願いますし、多くの人は「いつまでも健康で長生きしたい」と思うのではないでしょうか。また困難が起きてもくじけない強い心を持ちたいと願う人も多くいると思います。反対に自分の弱い部分は人に見せたくないし、知られたくないと考えます。
私たちの中には、「弱くなる」ということは「強さを失うこと」「強くあることをあきらめること」という考えがあるのではないでしょうか。
「弱さ」というのは本来、私たちの力を奪ったり、制限したりするものです。病気やケガだけでなく、お腹が空いているときや、気分が落ち込んでいるときも、また何か罪を犯して罪責感に苛まれているときも、私たちは本来の力を発揮できません。
しかし、そのような弱さの中にも神の恵みが隠されているのです。
例えば、人はお腹が空くから食べてエネルギーを補給します。もしお腹が空かなければ、私たちはエネルギー切れになるまで動き続けて倒れてしまうことでしょう。同じように病気になると具合が悪くなるので、私たちはお医者さんのところへ行きます。つまり人は弱さを認識すると、それを何とかしようと行動するのです。これを「弱さの恵み」と呼ぶことができます。
「人の弱さ」と「神の愛」が出会うとき「神による変化」が起こります。「人の弱さ × 神の愛 = 神による変化」という式が成り立つのです。少し変わった言い方かもしれませんが、「罪人」と「神の愛」が出会ったとき、「イエス・キリストの十字架による救い」が生み出されたのです。ヨハネ4章では、サマリアの女が神の愛に出会ったときに起きたサマリアの町のリバイバルの様子が描かれています。その他にも、聖書には多くの弱さを持った人々が神に用いられている様子が描かれています。
弱さは決して弱さだけで終わらないのです。神様の愛と出会うとき、あなたの弱さを通して神様は何らかの変化を生み出してくださいます。
パウロはコリント教会に入り込んだ偽教師たちに「パウロは実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない(第二コリント10:10)」と攻撃されます。パウロ自身、自分に与えられた弱さを取り去ってくださるように、三度も主に願った(第二コリント12:8)と告白しています。パウロは自分の弱さ、コンプレックスを神の前に持ち出したのです。結果として、その弱さは取り去られませんでしたが、パウロはこのように告白しています。”……私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです(第二コリント12:10)”。彼は弱さと向き合い、それを神の前に持ち出したことによって、あらゆる弱さ、困難を乗り越える力を得たのです。
イエス様ご自身も地上では弱さの中に生きてくださいました。神のみこころゆえに弱ささえも受け入れて歩まれたイエス様を、神様は死からよみがえらせ、その名を高く上げ(ピリピ2:9)、イエス・キリストを信じるすべての者を救う道を開かれました。私たちもイエス様の足跡に従い、弱ささえも恵みとして神の前に持ち出すなら、神は私たちに勝利の人生を与えてくださるのです。その勝利の祝福は私たちの想像を超えて広がっていくのです。