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2023年10月1日 リバイバルの鍵(1)〜キリストのいのちに生きる〜
2023年10月1日 リバイバルの鍵(1)〜キリストのいのちに生きる〜
コリント人への手紙 第二 4章10〜11節 池田恵賜 主任牧師
先日、岐阜県で行われた日本伝道会議に行ってきました。7年に1回開かれる福音派の牧師や宣教団体の集まりです。現地に1200人、オンラインで300人が集まりました。今回は50代以上の牧師は講壇に上がらないということで、若手が活躍した集会となりました。若手中心に進められた集会らしく、メインセッションの中で「ITとの付き合い方」という提言がありました。そこでAIによる自動画像生成ソフトというものがあることが紹介されました。AIにキーワードを入れると自動で画像が作られると聞いたので、私も早速やってみました。
1枚目のキーワードは、「モーセに連れられてエジプトから出発するイスラエル民族」です。それがこちらです。
どうでしょうか?私が思い描くモーセとはちょっと違いましたが、まあまあかなと思います。
そして、2枚目のキーワードは「傷ついた子羊を抱きあげて歩くイエス・キリスト」です。それがこちらです。どうでしょうか?
これらは大体15秒程度で出来上がった絵です。
AIは様々な分野で技術革新を生み出していますが、どのように付き合っていったらよいのかまだまだ分からないことも多い分野です。ちなみに、これは「契約の箱が戻って来て喜び踊るダビデ王」というキーワードで作ったものです。これは微妙ですね。
変化の時代
それにしても、今後AIの活用により技術革新が加速度的に進んでいくことでしょう。農業や医療、製造業においても、AIの登場により革新的な変化がもたらされていると聞いています。車の自動運転なども近い将来当たり前になっていくでしょう。社会を取り巻く環境はどんどん変わり、変化の激しい時代になっていきます。一方で自然災害や、新型のウィルス感染など予測不可能な事態も発生しています。そのような意味で私たちは先が見えない、不確実な未来を前にしていると言えるのではないでしょうか。そんな時代に生かされている者として、私たちは様々な変化に対応していく必要があります。
「今までこうやってきた」という常識が通用しない時代に突入していると言えるでしょう。
「おわり」から「はじめる」宣教協力
今回の日本伝道会議も、そのような時代にあって教会にも「変化の時が来ている」という認識を持ち、テーマは『「おわり」から「はじめる」宣教協力』ということでした。変化の時代となったいま、なにかを新しく始めるには、なにかを終わらせなければいけないということです。
少子高齢化の波は教会にも押し寄せ、いまや1/3の教会で子どもが集まらず、CSの働きをしていないという統計があります。牧師の高齢化や献身者の減少が叫ばれ、1教会1牧師というのは当たり前でなくなる時代が来ると言われています。またコロナ禍で否応なしに礼拝の在り方も変わり、新しい交わりや伝道の方法が検討されています。在留外国人も増え、日本国内で外国語での礼拝や外国人教会は増加しています。そのような教会とどのような宣教協力ができるのか、従来の日本の教会にも多様性が求められています。
教会も宣教団体も変化していかなければいけないというとき、当然私たちクリスチャンも変わる必要があります。しかし、どうでしょうか。クリスチャン歴が長い人ほど変わるのが困難な状況がないでしょうか。「私たちはこの方法でやってきた」「この方法で上手くいった」という成功体験があると、かえって変化の妨げになるように思います。
何を変えて何を変えないのか
一方で真理であるみことばは変わりません。ですから、変化する必要があるといっても当然、みことばに基づいて変えてはいけない部分もあります。何を変えて何を変えないのか、いまの時代の教会は真剣に考える必要があります。
近年、教会に若い子が集まらない、または教会から若い子たちが去っていくという現状がありますが、その理由の一つは「教会が窮屈に感じる」ということです。クリスチャンになると「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」とできないことが増えるから、クリスチャンになりたくないという人の話もよく聞きます。高齢化している日本の教会を見るときに「何を変えて何を変えないのか」を考えて、実行するときが来ているといえます。
地域宣教における変化
地域への宣教も同じです。これまで日本の福音派の教会は日本の文化、風習に対して必要以上に対立的な姿勢をとってきたのかもしれません。とくに異教的な習慣が強い背景からクリスチャンになるケースだと、しっかりとした信仰を確立していくために、この世と戦って信仰を勝ち取るという意識が強く働くのかもしれません。
「クリスチャンになる」ということは「世との戦い」という側面も確かにありますが、それだけではありません。対立的な姿勢は孤立も生みだします。イエス様は決して私たちがクリスチャンとして世と分離して「孤高の生活を送りなさい」と言われたのではなく、キリストに従う者として「地の塩、世の光として歩みなさい」と、あくまで世との接点を持つことを教えています。
本郷台キリスト教会は、「地域に仕えることによって福音を伝える」ということを大切にしていますが、今日のメッセージを準備する中でこんな出来事を思い出しました。
ダイヤモンドチャペルを献堂して一年目の秋に、教会に隣接している飯島市民の森の30周年の記念イベントを、ダイヤモンドチャペルの礼拝堂を使ってさせて欲しいという依頼が役所からありました。そして、その際に礼拝堂の壁一面に紅白の垂れ幕をつけさせて欲しいというのです。紅白の垂れ幕の由来を私は知りませんが、あまり教会的でない印象です。もし当時の私が主任牧師だったら断っていたかもしれません。しかし、当時の主任牧師 博先生はOKしました。そして記念式典が盛大に行われました。式典には、地元の方々、役所の方々、議員の方々が大勢来られ、大変感謝されました。
このときはこれで終わったのですが、そのときの参列者の一人に市会議員がおられました。10年後にこの方と再会するのですが、大切な礼拝堂に紅白の幕までかけさせてくれた牧師さんということで覚えておられ、野七里移転の際に尽力してくださったのです。もし市民の森のイベントを断っていたら、いまの野七里での働きはなかったかもしれません。
このように本郷台キリスト教会は地域の方々との出会い、繋がりを大切にすることによって証しをし、働きが広げられているのです。
地域宣教の在り方について、「リバイバルジャパン」という雑誌の中で、山形の千田先生と博牧師の対談が掲載されています。少し古い記事ですが、とてもよくまとめられていますので、許可を得てホームページに載せておきます。ぜひご一読ください。(リバイバル・ジャパン2009年1月1日号 新春対談)
相手ではなく自分が変わる
私は本郷台キリスト教会に仕える中で、相手ではなく自分が変わることによって、神の働きが進められていくことを教えられています。このことについて、先日の日本伝道会議の分科会で、ある宣教師のこのような証しを聞いたのでお分かちしたいと思います。
この宣教師は宣教が困難な国の少数部族に遣わされ、人口数百人の因習の強い村に入っていきました。「イエスのことを知らないこの村の人たちを救いに導こう」と意気込んで遣わされたのですが、イエス・キリストの名を口にした途端、この宣教師家族は村八分にされてしまいました。あとで分かったことですが、以前その村に来た宣教師が「あれはダメ」「これはダメ」と村に伝わる伝統行事をことごとく否定し、村の人たちの心は閉ざされてしまっていたのでした。
そんなことを知らずに村に入った彼ら家族は何をしてもうまくいかず、とことん打ちのめされ、実を結べずに第一期の派遣を終えました。帰国した彼はうつになり、相当な期間、聖書も読めなくなったと言います。そんな辛い時期を通らされていたある日、突然、彼の頭に一つのみことばが響いてきました。それがルカ3:23aでした。
“イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。”
このみことばがなぜ思い浮かんだのか分かりません。しかし頭から離れないこのみことばを瞑想し、静まりました。そして啓かれました。
そうか、イエス様は救い主としてこの地上に来られたのだけれど、30才までヨセフの子と思われる程人々の中に入り込んで生活していたのだ。赤ちゃんとして生まれ、母マリアからミルクを飲ませてもらい、言葉や生活習慣を学び、ヘロデ王にいのちを狙われたときは両親に抱きかかえられてエジプトに逃げて助けられたのだ。
そうか、イエス様は地上に来られたときすぐに「あなたたちを救いに来た」と救いのメッセージを語るところから始めたのではないのだ。イスラエルの言葉を学び、文化、習慣を学ぶところから始められたのだ。「いのちのパン」だと言われるお方が、ミルクを飲ませてもらわなければ死んでしまうというところから始められたのだ。全人類の救い主なるお方が、両親に抱えられエジプトに逃げて「いのちを救われる」というところから始めてくださったのだ。これこそイエス・キリストが救い主として来られたときに見せてくださった「へりくだりの姿勢」だ。
それに比べて自分はなんて傲慢な態度でいたことか。初めから「彼らの知らない真理を教えよう」という態度で、彼らの言葉も、文化も、背景も知ろうとせずに、「私の言う通りにすれば救われます」、「これをしてはいけません」、「この習慣は捨てなさい」と、相手を否定するところから始めていたのだと気づかされたと言います。
彼が打ちのめされていた期間は、神様からの訓練のときでした。そして辛い、しかし大切なその訓練期間を経て、彼は再びその村に派遣されていきます。
そして今度は、「助けてもらうこと」から始めたそうです。相手を理解し、相手から教えてもらうことを大切にしたのです。すると村の人たちの生活の知恵はなんと素晴らしいことか、自分が見えていなかった村の人たちの素晴らしさ、尊敬できる部分を沢山見つけることができたと言います。
村のために、彼らと一緒になって貯水池を掘ったときは一日で手にできたマメが潰れてしまい使い物にならずに村人から笑われたそうです。それでもスコップの使い方を習うことから始めました。イエス・キリストの名前は一切出さずに、彼らと関係を築き、彼らから学び、彼らを理解するところから始めたのです。
さらに彼は村長のところに行って、その村の信仰している宗教についての教えを受けることにしました。毎週1回、数か月に及んで真剣にその教えを学びました。すると、その教えの素晴らしさに目が開かれていったそうです。もうあと数週間学んでいたら、改宗してしまうのではないかというほどに真剣に向き合って学んだそうです。
そんなある日、「聖霊のわざでしかない」と、彼が振り返って言うのですが、村長が学びの時間が終わったときにポロっと小さな声で「でも教えが素晴らしすぎるんだ」と言ったそうです。そして続けて「正直な話、教えが素晴らしすぎて、その規準が高すぎて、誰もこれらすべてを守ることなんてできないんだ」と言った後に、村長は「お前が信じている神について話してみろ」と言ったのです。
そして、この宣教師は聖霊に導かれて、そんな「規準に従えない人間のために、人となってくださった神の子イエス・キリストについて」話をしました。それを聞いて、村長はしばらく考えた後に「俺はお前の神を信じることにする。俺に洗礼を授けろ」と言って、洗礼を受けたのです。その後、村長の家族も救われ、村長は村の人たちにも福音を伝え、村長の息子はいま伝道者として働いているそうです。
宣教師として遣わされたのに、むしろ相手から助けてもらうなんて「いったい自分は何をしているのか」、「これでいいのか」と、以前の彼なら悩んだと思います。しかし神様によって自我が砕かれ、「これこそがイエス様が見せてくださった模範なのだ」と分かっていたのです。
彼が自分に死んで、キリストのいのちに生きたときに神が働かれたのです。
キリストのいのちに生きるために自分自身に死ぬ
何を変えて何を変えないのかを考えるとき、私たちは人を本質的には変えることができないことを知る必要があります。人を本質的に変えて、人を救うことができるのは聖霊なる神様だけです。
しかし、神様は人を用いられます。ですから大切なのは、私が「神が用いることのできる器」へと変えられることです。私たちは人を変えることはできませんが、自分を変えることはできます。
聖書を見ると「自分を変える」とは、自分自身に死ぬことだと教えられます。そして、自分に死ぬことによってキリストのいのちが現わされるのです。先ほどの宣教師のように、自分ではなく相手を教えようとしていたとき、相手を変えようとしていたときには神は働かれず、自分自身に死んで、キリストに従って、相手に仕えたときに神が働かれるのです。
マタイ16:24-25にこうあります。
“それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。”マタイ16:24-25
一見矛盾しているようですが、自分のために生きようとする者はそのいのちを失い、自分を捨てて、自分の十字架を負ってイエス様に従う者はいのちを見出すのです。
キリストが私の内に生きて働くために、キリストにあって死ぬこと、これがリバイバルの鍵です。Ⅱコリント4:10-11です。
“私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。”Ⅱコリント4:10-11
私たちが人々に教えて、形だけの礼拝を守らせても、形だけの祈りをさせても、キリストのいのちは現されていきません。むしろ、自分に死んでキリストのいのちに生きるときに、キリストのいのちが満ち溢れ、人々に流れていくのです。
今日、洗礼式がありますが洗礼を受ける人は、一度水に沈められて、水の中から起き上がります。水に沈められるのは、古い自分に死ぬことを表しています。そして水から起き上がるのはキリストのいのちによって新しく生まれ変わったことを表しています。
私たち一人ひとりが自分に死に、それぞれ遣わされている場でキリストのいのちに生きるとき必ず神は働かれます。10×10において次々と救いのみわざがなされていくことを信じています。
お祈りいたします。しばらく応答の祈りのときを持ちましょう。