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2023年4月2日 ろばの子に乗って来られた王
2023年4月2日 ろばの子に乗って来られた王
マルコの福音書 11章1~10節 佐藤賢二 牧師
皆さん、いよいよ来週はイースター、復活祭です。そして、今日から来週日曜日のイースターまでの1週間を、教会では「ホーリー・ウィーク」と呼んでいます。これは、イエス様の公生涯の最後の1週間を覚える時です。この1週間の間に、イエス様は十字架に付けられ、苦しまれたということから、受難週(パッション・ウィーク)という風にも呼ばれます。呼び方としては、どちらも正しいのですが、私たちの教会では、その苦しみそのものよりも、その苦しみを通して、神様が救いの道を開いてくださったという点に焦点をおいて、受難週ではなくホーリー・ウィーク(聖なる週)という呼び方を、主に使わせていただいています。この1週間、教会では先ほどもアナウンスがあった通り、特別な「讃美と祈り」の時を持ちます。私たちのために、十字架にかかってくださったイエス様を特に覚える時としていきたいと思います。
さて、そのホーリー・ウィークの初日である今日は、「棕櫚の聖日」、パーム・サンデーと言います。棕櫚というのは、ナツメヤシのことです。なぜこの日を「棕櫚の聖日」と呼ぶかというと、この日イエス様がエルサレムに入城された時、人々が、ナツメヤシの枝を持ってイエス様を出迎えたという記事があるからです。ヨハネ12:12-13にはこのように書かれています。
その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
ヨハネの福音書 12章12~13節
イエス様がエルサレムに来られるということを知った群衆は、ナツメヤシの枝を持って迎えに出て行き、「ホサナ!イスラエルの王に!」と叫びながら讃美したとあるのです。「ホサナ」というのは、讃美の叫びの定型句です。元々は、ヘブル語で「どうぞ、今救ってください」という意味の言葉です。彼らは、約束されたメシア、救い主が来られるのを待ち望んでいました。そして彼らは、イエス様が「自分たちの待ち望んでいた救い主に違いない」という思いを抱いて、心からイエス様をお迎えしたのです。
今日、私たちも、このホーリー・ウィークを始めるにあたって、まずイエス様を心から待ち望みたいと思います。イエス様は、私たち一人ひとりを救うためにこの地に来てくださいました。そして、私たちのために十字架への道のりを、一歩一歩歩んでくださったのです。イエス様は、今を生きる私たちの人生にも入ってきてくださいます。そして、私たちの魂を救ってくださるだけでなく、私たちの抱えるすべての問題のただ中に来てくださって、勝利を与えてくださるのです。今日は、このエルサレム入城の出来事に目を止めつつ、イエス様がどのようなお方なのか、ご一緒に心に刻んでいきたいと思います。
それでは、今日のみことばをお読みします。マルコ11:1-11aです。
さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。
マルコの福音書 11章1~10節a
今日はこの箇所から、3つのポイントで学んでいきたいと思います。
1. イエス様は、ろばの子に乗って来られた
まず第1のポイントは、「イエス様は、ろばの子に乗って来られた」ということです。
なぜイエス様は、エルサレム入城という、とても大切な瞬間に、「ろばの子」に乗られたのでしょうか。イエス様は、そこにたまたま「ろばの子」がいたから、それに乗ったという訳ではありません。そうではなくて、イエス様は、あえて意図的に「ろばの子」に乗られたのです。それは、イエス様ご自身が、あの「ろばの子」を連れてくるようにと、弟子たちに具体的に指示を出しておられることからも分かります。しかし、その指示を受けた弟子たちであっても、なぜ「ろばの子」を連れてくるのかと、正確に理解できた人はほとんどいなかったと思われます。
「ろばの子」というのは、体が小さく、ずんぐりむっくりしているので、あまり見栄えがするものではありません。普通、選べるのなら、もっと強くてかっこいい「馬」に乗って来られるのではないでしょうか。ではなぜ、イエス様は、「馬」ではなく、あえて「ろばの子」に乗られたのでしょうか。
それはイエス様が、聖書で預言された「王」であり、「救い主」であるということを示すためなのです。ゼカリヤ書9:9には、このように書かれています。
娘シオンよ、大いに喜べ。
娘エルサレムよ、喜び叫べ。
見よ、あなたの王があなたのところに来る。
義なる者で、勝利を得、
柔和な者で、ろばに乗って。
雌ろばの子である、ろばに乗って。
ゼカリヤ書 9章9節
ここで「あなたの王」とあるのは、「メシア」すなわち油注がれた者、約束された救い主のことです。そして、その「あなたの王」である「救い主」は、馬ではなく、「ろばの子」に乗って来られると書かれているのです。イエス様は、この預言が自分自身のことについて書かれたものであることを悟っていました。そしてエルサレムに入城される時、はっきりと自分は、聖書で預言されている救い主だということを自覚し、身をもって、人々に対して、公に示されたのです。
イエス様は、それまでもたびたび弟子たちに対して、ご自分に対する神様の計画を明らかにしておられました。マタイ16:21にはこのようにあります。
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
マタイの福音書 16章21節
イエス様は、自分自身の使命をはっきりと理解していました。それは、私たちを救うために、自分自身のいのちをささげるという使命です。そして、ここでエルサレムに行くということは、この後、多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえるという、神の御心に従うことだということも分かっていました。イエス様は、その時が近づいていることを悟っていました。そしてイエス様は、たとえ弟子たちが、その時には理解できなかったとしても、後になって理解できるように、粛々と、預言の通りに、自分自身に備えられた道を歩まれたのです。そして、その来たるべき苦しみから逃げ出したり、目を背けたりすることなく、十字架への道を選び取ってくださったのです。
イエス様は、ろばの子に乗って来られた。それは、イエス様が確かに、預言された王、救い主であることのしるしです。今日、まずそのことをしっかりと心に刻んでいきたいと思います。
2. イエス様は、ろばの子を必要とされた
第2のポイントは、「イエス様は、ろばの子を必要とされた」ということです。イエス様は、神様の御心が実現するために、あの「ろばの子」を名指しで選び、用いられました。皆さん、先ほども少し触れましたが、「ろば」ってどんな動物だかご存知でしょうか。
これが「ろば」です。私は、あまり詳しくないので、「ろばなんて、小さい馬だ」という程度にしか思っていませんでした。でも調べてみると、「ろば」には馬と比べて違う点がいくつかあり、それゆえに馬とは扱われ方も違うということが分かりました。
まず第1に、「ろば」は馬よりも「価値の低い存在」と考えられていたということです。「ろば」は一般的に馬よりも小さくて、耳が長くて、ずんぐりした感じです。つまり、馬と比べて、とても格好いいとは言えません。速く走ることも出来ません。それゆえに「ろば」は、馬よりも「価値の低い存在」と考えられていたというのです。ですから、王様や貴族は、普通「ろば」に乗ることはありませんでした。むしろ、庶民が乗るための家畜、または荷物を運ぶための家畜として用いられていたというのです。
第2に、「ろば」は馬よりも「扱いにくい」ということです。「ろば」は、昔話などでは「愚か者」の代名詞のように扱われることが多いようです。そして「ろば」は一般的にも「頑固で人間の言うことを聞きにくい」動物だと言われます。でも実は、本当にロバが愚かかというと、そういうことでもないというのです。実はロバは知能が高く、相手を見て態度を変えるところがある動物なんだそうです。そのため信頼している人間にはよくなつく一方で、嫌いな相手から指示をされても無視したり、気分を害して1歩も歩かなくなったりすることもあるそうです。こうした反抗的な様子が、人間から「愚か」と捉えられる原因となってしまったのだそうです。まあ、いずれにせよ、ちょっと「扱いにくい」ということは言えるでしょう。
イエス様は、エルサレム入城に際して、「まだ誰も乗ったことがない、ろばの子」を選ばれました。ただでさえ扱いにくい「ろばの子」です。そして、まだ誰も乗ったことがない「ろばの子」ですから、ちゃんと人を乗せて歩けるかすら、怪しい状態だったと思います。でも、イエス様はそんな「ろばの子」を、「主がお入用なのです」と言って名指しで選び、神様のみこころのために用いてくださったのです。第1コリント1:26-27にはこのようにあります。
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
コリント人への手紙 第一 1章26~27節
ここで神様は、「この世の愚かな者」や「この世の弱い者」を選ばれたとあります。私たちも、あの「ろばの子」のように、愚かで、弱い者に過ぎません。この世においては、「価値の低い」、「扱いにくい」存在かも知れません。でも、イエス様は、そんな私たちのことを一番よく知っていてくださるお方です。そして、イエス様は、どうすれば私たち一人ひとりが一番輝くのかをご存知なのです。
皆さん、ちょっと想像してみてください。まだ誰も乗ったことがない「ろばの子」に、イエス様が乗っておられる姿を。初め私は思ったのです。あの扱いにくい「ろばの子」であっても、きっとイエス様の手にかかれば、素直にちゃんと言うことを聞いて、おとなしく歩いたのかな・・・。でも、思い巡らせているうちに、だんだんと、いやそうじゃないかも知れない、と思うようになりました。ひょっとしたら、「ろばの子」は、初め全然見たこともないイエス様を見て、パニックになってしまったのではないか。そして、引っ張っても動こうとしない、上に乗ろうものなら振り落とされてしまう。しまいには、よろけたり、あちこちぶつけたりしながら歩いている。あまりにも滑稽で、とても、王様の尊厳を表すような光景ではなかったんじゃないか。そう思ったのです。でも、しばらくそんなことを繰り返すうちに、ようやく、なんとか真っ直ぐに歩けるようになった。そして、気がついたらイエス様を、エルサレムまでお連れして、神様の大切な働きのために用いられていた。それはそのまま、私自身の姿だ、そう思わされたのです。
まだ誰も乗ったことがない「ろばの子」に乗るというのは、へりくだらなければ出来ないことです。でもイエス様は、誰よりもへりくだって、その「ろばの子」である私にまたがり、取り扱い、主の最も大切な働きのために、誇らしげに用いてくださっているのです。同じように、神様は、私たち一人ひとりを用いてくださいます。神様は、私たち一人ひとりに特別な、ユニークな計画を持っておられます。そして、イエス様は私たち一人ひとりに声をかけてくださいます。「主がご入用なのです。」この主に、私たちの人生を差し出していきましょう。
3. イエス様は、私たちの讃美を受けてくださるお方
第3のポイントは、「イエス様は、私たちの讃美を受けてくださるお方」だということです。
先ほども見たように、人々は、ろばの子に乗ってエルサレムに来られたイエス様を見て、棕櫚の枝を振りながら、「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」とほめたたえました。人々は、イエス様に大いに期待していました。ついに、約束された王が来られた!そして、今こそ、私たちをこの苦しみから解放してくださるに違いない!と思って、讃美を捧げたのです。恐らくこの時は、誰一人イエス様が約束された「王」として来られた、ということの意味をきちんと理解していた人はいなかったでしょう。それでも彼らは、イエス様に、このローマの圧政から解放してくださる力ある王であることを期待し、讃美を捧げたのです。しかしそれを快く思わない人たちもいました。ルカ19:39を見てみましょう。
するとパリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、「先生、あなたの弟子たちを叱ってください」と言った。
ルカの福音書 19章39節
パリサイ人たちは、人々がイエス様をメシアとして讃美しているのに気づき、とんでもないことだと思ったのです。しかし、イエス様は、そんなパリサイ人たちに答えてこう言うのです。
イエスは答えられた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」
ルカの福音書 19章40節
イエス様は、讃美を受けるのにふさわしいお方です。私たちは、ひょっとしたら、この群衆と同じように、イエス様に対して、少し見当違いの期待をして、讃美を捧げていることがあるかも知れません。神様を求めているように見せかけて、実は自己中心で、自分の期待通りになることばかりを求めているのかも知れません。そんな自分自身の姿を見せられると、嫌になってしまうこともあるでしょう。でもイエス様は、そんな群衆の未熟な讃美も、へりくだって、喜んで受けてくださったのです。それどころか、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」と言われました。
私たちは、決して讃美をやめてはいけません。神様は、「イスラエルの賛美を住まいとしておられる」とも言われます。私たちが讃美を捧げる中に、イエス様ご自身がいてくださり、そのイエス様ご自身が私たちに触れてくださるのです。
実際、この時イエス様を熱狂的な讃美で迎え入れた群衆は、その数日後には手のひらを返したように、イエス様に敵対しました。彼らは、イエス様が、自分たちの思い描いていたような王ではなかった思い、失望したのです。ルカ23:21にはこうあります。
しかし彼らは、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた。
ルカの福音書 23章21節
ほんの数日前には、「ホサナ!イスラエルの王に!」と讃美していたその唇が、今度は「十字架だ。十字架につけろ」と叫んでいるのです。あり得ないことです。でも、そのあり得ないことが起こっている。それが、人のリアルな姿なのではないでしょうか。
良いことをしたいと願いながら、その通りに生きることが出来ない。100%神の御心に従っていきたいと願いながら、人の見ていない所では、神様に喜ばれないようなことを平然とやってのけてしまう。日曜日に、あんなに神様に触れられて、このように生きていこうと決心したばかりなのに、家に帰ると、また元の生活に戻ってしまう。そんな、揺れ動く姿。それが、私たちの現実なのではないでしょうか。そんな的外れな生き方こそが、私たちの「罪」なのです。そして、そんな罪人の私たちが、イエス様を十字架につけた張本人なのです。でもイエス様は、その十字架の上で、このように祈ってくださいました。ルカ23:34です。
父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。
ルカの福音書 23章34節
私たちは、本来神様の前に立つことが出来るような存在ではありません。でもイエス様は、そんなことは、百も承知の上で、私たちのために、祈ってくださいました。そしてそんな私たちのためにこそ、罪の身代わりとして十字架にかかって死んでくださったのです。今日、このイエス様が、私たちに声をかけてくださっています。「主がご入用なのです。」
私たちも、素直な気持ちで私たち自身を差し出し、主の計画のために用いていただきたいと思います。そして、たとえ自分では相応しくないと感じたとしても、心を込めて、力の限りこのお方を讃美していきたいと思います。
主の御業に加わるというのは、神様からの一方的な恵みです。私たちの側に、何の良いものがなかったとしても、神様が真実なので、神様が私たちを用いてくださる。私たちの唇がどんなに汚れていたとしても、神様ご自身がきよいお方なので、神様が私たちの讃美を受け入れてくださるのです。
私たちは、十字架の血潮によってきよめられたのです。今日、もう一度感謝をもって、主に近づかせて頂きたいと思います。