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2023年2月19日 キリストの心を心とする(3)〜赦すこと、赦されること〜
2023年2月19日 キリストの心を心とする(3)〜赦すこと、赦されること〜
エペソ人への手紙 4章31~32節 佐藤賢二 牧師
今私たちは、「キリストの心を心とする」というテーマで、みことばを学んでいます。1回目は、「心の中心を明け渡す」と題して、「自己中心から神中心」の生き方へと変えられていく必要性について学びました。2回目となる先週は、「要塞を打ち倒す力」と題して、私たちの心が完全に神のものとされるのを妨げている「要塞への対処方法」について考えました。
そして3回目となる今週は、「赦すこと、赦されること」と題して、キリストの心を心としていくための大切なレッスンについて学んでいきたいと思います。まずは、本日の聖書箇所をお読みしたいと思います。エペソ4:31-32です。
無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。
エペソ人への手紙 4章31~32節
ここで、「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしり」などを、すべて捨て去りなさいと言われています。これらは、すべて「怒り」の感情、そしてそれをどのように表現するかを表しています。「無慈悲」とは英語でBitterness、苦々しい思いのことです。しかし、それを放置すると段々「憤り」となり「怒り」が心を支配するようになります。そして、さらにそれが募ると「怒号」、つまり怒鳴り散らすという行動となり、最後には相手を「ののし」って罵詈雑言を浴びせるような事態となります。「怒り」の種は、放置すると膨れ上がり、私たちの人生に深刻な影響をもたらします。そして未処理のまま蓄積した怒りが爆発すると、自分でもびっくりするような怒り方になってしまうことがあるのです。
私は、割と穏やかに人とコミュニケーションをとるタイプだと思っていました。しかし、結婚して、子供が出来て、しばらくすると、もう一つの自分の姿というのが見えてくるようになったんです。何かのタイミングで突然スイッチが入ると、瞬間湯沸かし器のように熱くなって怒り、子供達に対して大声で怒鳴りつける、なんてことがあるのです。それは本当に時々なのですが、そうなるとほぼ例外なく子供たちを泣かせてしまうんです。そして「はっ」と我に返った時には、「またやってしまった」という自責の念にかられるわけです。その後は、なるべく落ち着いて、何について怒ったのかをゆっくりと話して聞かせるようにします。そして、その後は「聞いてくれたありがとう。パパもあんなに大きい声を出して怒らなくても良かったね。ごめんね。それは赦してくれる?」と聞くと、「うん」と頷いてくれるんです。そして、ハグをして和解をするという、パパと娘たちの一つのお約束のような形が出来てきました。
でも、「なぜ怒るのか」というと、怒る側には、少なくとも自分の視点から見た正当な理由があるわけです。時にそれが、認識不足や誤った見方であることもあります。でもそれが何であれ、「怒り」というのは、何か自分を怒らせる要因があって、それに対して感情がそのように反応しているのだから、自分にはどうすることもできない。その原因を作った相手が悪い、と考えるのはもっともなようにも思えます。聖書でも、「怒り」という感情そのものは否定していません。
ここで、「怒り」という感情のメカニズムについて、少し考えてみたいと思います。
まず、私と誰か他の人がいます。これは、基本的には対人関係の問題です。
誰かが直接私に対して、もしくは間接的に何かの行動をします。それは言葉かもしれないし、行動かもしれません。あるいは期待していることを、してくれないということかも知れません。
そして、その誰かのアクションの結果、自分から何かが奪われます。それは、モノかも知れないし、健康かも知れない。時間かも知れないし、感情かも知れないし、尊厳かも知れません。それは自分が理想としている自分のあり方や、理想としている家族やコミュニティーのあり方だったかも知れません。とにかく、私が得るはずだった何かが奪われてしまったのです。
ここで生じるのが「怒り」です。私たちは、通常、誰かが何かをしたという行為に対して「怒っている」のだと考えます。しかし、実は、「怒り」という感情の背後には、自分から大切な何かが奪われたという思いがあるのです。大切な何かが奪われたのですから、当然それを返してほしい、もしくはなんらかの形で償って欲しいと思う訳です。そして、それを当然の権利と考えます。
しかし厄介なのは、多くの場合、その奪われたものは、全く同じ形では返すことが出来ないということなのです。物やお金であれば同じようなものが返せるかも知れませんが、それが失われていた期間の埋め合わせは出来ません。時間や、感情や、尊厳を全く元の状態に戻すということは出来ないのです。また、幼少期の怒りの場合、すでに相手はこの世にいないかも知れません。ですから、たとえ何らかの返済や、謝罪がなされたとしても、このままでは怒りの感情を、完全に消し去るということが出来ないのです。
先ほど申し上げた通り、聖書でも、「怒り」という感情そのものは否定していません。しかし、その「怒り」を心に持ち続けてしまったり、「怒り」によって自分をコントロールさせてはいけないと教えているのです。エペソ4:26-27ではこのように言われています。
怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。
エペソ人への手紙 4章26~27節
つまり、「怒ること」イコール「罪」ではないけれど、怒りは私たちを罪に導く原動力となる可能性があるということです。それを日が暮れるまで、長い間、心に留めてはいけない。なぜならそれは、悪魔に機会を与えることだからだと言っているのです。この「怒り」を放置すると、それがやがて敵の「要塞」となり、私たちの人格に影響を与える悪しき存在となってしまうのです。ですから、「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしり」などを、すべて捨て去るということは、とても大切なことなのです。
では、どのようにしてそれらを捨て去ることが出来るのでしょうか。もう一度、エペソ4:31-32をお読みします。
無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。
エペソ人への手紙 4章31~32節
ここに、「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい」とあります。そうです。怒りから解放される鍵は「赦す」ことです。でも、これはそう簡単なことではありません。あなたはこう思うかも知れません。「私は、誰かに何かを奪われたのです。私にはそれを要求するだけの正当な権利があるのです。私は被害者です。私は弱い立場にあるのです。赦すだって?それじゃあ、私が一方的に損をすることになるじゃないですか。優しい心で赦しあう?そんなことあなたに言われる筋合いはありません。あなたは何も分からないから、そんな生やさしいことを言ってるんじゃないですか。」
しかし私たちは、この言葉を記したのが誰であるのか、どういう状況で書かれたものなのか、よく考えてみる必要があります。この御言葉を記したのは、パウロです。彼は、不正に捉えられ、ローマに引き渡され、牢獄の中にいました。自分の身の潔白を主張する機会も与えられず、民衆からも、指導者からも疑いの目を向けられていました。この時のパウロこそ、怒りを爆発させる正当な理由を持っていた人です。その、パウロが「怒りをすべて捨て去りなさい」と命じているのです。それには、「赦すこと」が鍵だと言っているのです。
なぜ赦すのでしょうか。パウロは言います。「神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」パウロは、自分がどれほどキリストに背を向けて歩んでいたものであるか、痛いほどわかっていました。それゆえに、自分がどれほど豊かに赦されたものであるかを、一番分かっていたのです。神が、私たちを赦してくださった。だからこそ、私たちも、「赦し合う」ということを選び取る必要があるのです。それゆえに、パウロは牢獄の中にあっても自由だったのです。
「赦し」は、イエス様がこの地上に来られたことの中心的なメッセージです。だからこそ、イエス様は、事あるごとに、「赦しなさい」ということを語り続けておられるのです。
1. 何度まで赦すべきか
12弟子の1人であるペテロは、この「人を赦す」ということについて、ある時イエス様にこのように尋ねてみたことがありました。マタイ18:21をお読みします。
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
マタイの福音書 18章21節
ペテロは、日頃からイエス様の話を聞いていて「人を赦す」ということがどれだけ大事なことか、分かり始めていたのでしょう。日本でも、「仏の顔も三度まで」なんて言葉がありますが、ここで、ペテロが「7回」と言っているのは、彼にしてみれば、かなり思い切った回数だったと思うのです。しかし、それに対してイエス様は言うのです。
イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
マタイの福音書 18章22節
これは別に、7の70倍の490回が限度ですと意味ではありません。もし何回かと問われるのなら、それはもう数えきれないほど、何回でも赦しなさいということです。そもそも、何回赦したら良いかという問いをすること自体、赦しの本質を見誤っているのです。イエス様が考える「赦し」とは、そんなものではありませんでした。そしてイエス様は、このことをきっかけに「赦し」とは何なのか、次のような例え話を使って教えられたのです。マタイ18:23〜27をお読みします。
ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
マタイの福音書 18章23〜27節
2. 多額の負債を赦されたしもべ
ここに「一万タラントの負債」のある者が出てきますが、「一万タラント」ってどのぐらいだか分かりますか。聖書の脚注を見ると、「1タラントは6000デナリに相当する」と書いてあります。そして、1デナリとは、当時の1日分の労働の対価です。つまり、分かりやすく1日一万円の賃金をもらえるとすると、1タラントは6000万円です。ここでは、一万タラントということですので、なんと6000億円の借金をしていると言うことになります。6000億円ですよ?なんでそんなことになったのかは分かりませんが、これはもう、現実的にどんなに頑張っても返済できる金額ではありません。それでも、このしもべは、もう少し待ってくれれば、何とかしてすべて返済しますと言うのです。しかし、主君はこの彼を「かわいそうに思って」、彼を赦し、負債を免除にしてやったと言うのです。この「かわいそうに思う」という言葉は、イエス様が「群衆を見て深く憐れまれた」という時の言葉と同じ言葉が使われています。つまり、このしもべの姿を見て、かわいそうに思って、それを帳消しにしてくれた主人というのは、イエス様ご自身のことを指しているのです。そして、この赦されたしもべというのは、私たちのことです。
イエス様は、私の罪を赦すために、どれほどの代価を払われたのでしょうか。それは、私たちがどんなに頑張っても、どんなに大切なものを売り払ったとしても、どんなに一生かかって払いますと言っても、決して払い切れない代価です。そしてもっと最悪なことに、私たちは、そんなとんでもなく大きな負債を抱えているということに、気がついてすらいなかったのです。でもイエス様は、そんな私のために、十字架にかかってくださったのです。そして、十字架の上で、こう祈ってくださいました。
父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。
ルカの福音書 23章34節
そうです。私たちは、自分が何をしているか分かっていない。でも、こんな恩知らずな者のために、イエス様は、十字架にかかって死んでくださった。それほどまでに、イエス様の愛と赦しは偉大なものなのです。あの多額の負債を赦されたしもべ。それは、他でもない私のことです。そして、これは私たちのちっぽけな頭では理解できない、とんでもなく大きな恵みなのです。さて、この多額の負債を赦されたしもべは、その後どうしたでしょうか。物語の続きを見てみましょう。マタイ18:28-30です。
ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
マタイの福音書 18章28〜30節
3. 赦されたしもべの生き方
今度は、このしもべから「100デナリ」借金をしている者が出てきます。1デナリとは1日分の賃金ですから、先ほどの基準で言えば100万円の借金です。さて、100万円の借金は、大きいでしょうか。小さいでしょうか。もちろん、決して小さくはありません。しかし、頑張って100日働けば返せる金額なのです。そして、何よりもついさっき自分が帳消しにされた金額と比べたら、実に60万分の1の金額です。それなのに、自分が返してもらう立場になったこのしもべは、仲間を赦しませんでした。仲間が、かつての自分と同じように「もう少し待ってください。そうすればお返しします」と嘆願しても耳を傾けず、容赦無く、その人の首を絞め、牢屋にぶち込んだというのです。
これを聞いた、先ほどの主人はどう思うでしょうか。もちろん怒ったんです。激怒しました。そして、そのしもべに対して、こう言いました。
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。
マタイの福音書 18章33節
そして、彼は負債をすべて返すまで牢屋に入れられたとあるんです。彼は、自分が赦されたはずの分まで、結局返済するように命じられたのです。この一連の例え話をした後、イエス様はこのようなことを語ります。
あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。
マタイの福音書 18章35節
これは非常にショッキングな言葉です。もしあなたが自分の兄弟を赦さないなら、わたしもあなたの罪を赦さないと言っているのです。私たちは、これを厳粛に受け止めなければなりません。イエス様の話のポイントははっきりとしています。私たちも、私たちに負債のある人たちの借金を、帳消しにしてあげなさいと言っているのです。
先ほど図を用いて説明しました。私たちは、自分の人生から、自分の思い描いている理想から何かを奪われたことに対して怒りを覚えます。しかし、その返済を要求する権利を手放しなさい、帳消しにしなさい、赦しなさい、というのです。そんなことを言うと、こう思うでしょう。ちょっと待ってください。私は被害者なんです。私はすでに一度傷ついているのです。いくら何でもそれは出来ません。それでは私が損をするばかりではないですか。
なぜ、私たちはそのように感じるのでしょうか。それは、私たちが「自分中心」の視点から見ているからなのです。私たちからすれば、自分たちには借金の支払いを待ち続ける権利があります。しかし、神様がどのようにご覧になっているかと言うと、借金の支払いを待ち続けるのは、最も自分自身を傷つける行いなのだということです。心に怒りを留めている人は、もちろん実際に牢獄に入っているわけではありません。しかし、借金の返済に固執している限り、牢獄に入っているようなものなのです。イエス様が、たとえ話の締めくくりに厳しい警告をなさったのはそのためです。その警告を無視すると、容赦のない結果が待っているのです。解決されていない怒りは、長く影響を及ぼし続けます。誰かから負債が支払われるのを待ち続けていたら、今度は私たちが代償を支払う側になってしまいます。それに対して、誰かの借金を帳消しにすれば、私たちは自由になれるのです。私たちは毎週、主の祈りの中でこう祈っています。
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
マタイの福音書 6章12節
「負い目」と言うのは、文字通り「負債」という意味です。私たちは、神様に負債を帳消しにしてもらった者です。だから私も他の人の「負債」を帳消しにします。イエス様は、そのように祈りの中で宣言するようにと教えてくださったのです。このように、私たちは、人を赦すことを通して、自分がどれほど神に赦されているものであるかを、覚えていく必要があるのです。
4. 自分が解放されるための「赦し」
イエス様が、私たちに「赦しなさい」と命じるのは、それによって私たちが自由になり、解放されるためなのです。では、自分が解放されるための「赦し」とは、一体何をすることなのでしょうか。ここでは、1つだけポイントを上げさせていただきます。
それは、「何が奪われたのかを明らかにする」ということです。私が怒っているのは、何が奪われた事に対してなのか。私たちは、誰かが私たちにした、ひどい行為のことはよく分かります。私たちが傷つけられたということも分かります。しかし、それによって、実際のところ私から何が奪われたのか、私が怒っているのは何が奪われたことに対してなのかということを、ゆっくりと考えてみることをお勧めします。この質問の答えが分かるまで、本当の意味で赦す準備は出来ません。そうでないと、赦したつもりになったとしても、心を自由にすることは出来ないんです。なぜなら、はっきり特定できない負債を帳消しにすることは出来ないからです。
そして、もしそれが何かを特定することができたら、あとはあなたが心に決めるだけです。「私を傷つけたあの人は、もう私に対して何の借りもない」と、心に決めるのです。もし過去の傷から来る「怒り」に囚われているという場合は、その根の深い感情を取り扱うためには誰かの助けが必要かも知れません。その場合は、先週の「要塞」の時と同じように、信頼できる人に手伝ってもらってそのことを宣言すると良いでしょう。大切なのは、相手がした悪に目を留めるのではなく、自分から奪われたものが何かを特定することです。なぜなら、相手のことは自分ではどうすることも出来ませんが、自分に属するものに関しては、聖霊様の助けの中で、自分の意思で手放すことを決断することが出来るからです。
「赦すこと」は、大変大きなテーマです。そして難しく感じることです。でもイエス様は、赦すという決断を通して、私たちが自由になることを心から願っておられるのです。そして、赦すという決断のたびに、私たちがどれほど主に赦されたものであるかを思い起こすようにと、語っておられるのです。
今、主と同じ心をいただいて、赦されたものとして、自由にしていただくことが出来るように、共に祈って参りましょう。