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2023年2月12日 キリストの心を心とする(2)〜要塞を打ち倒す力〜

2023年2月12日 キリストの心を心とする(2)〜要塞を打ち倒す力〜
第2コリント10:3-5 佐藤賢二 牧師

私たちは先週から「キリストの心を心とする」というテーマで学んでいます。前回は、私たちの「自己中心」の問題について考えました。私たちは、イエス様を信じて心にお迎えしてからも、「心の中心」に自分自身がいる限り、神様の思いとはかけ離れた考え方しかできません。しかしイエス様は、私たちの失敗や、試練や、様々な経験を通してそのことを気づかせてくださり、「心の中心」をイエス様に明け渡していくことが出来るようにと導いてくださいます。主が私を取り扱ってくださるということに同意し、自分自身を差し出していくこと、それが日々自分の十字架を負うということです。その時、主は私たちに御霊を注ぎ、私たちを造り変え、私たちに勝利の人生を歩ませてくださるのです。

しかし私たちが完全に主のものとされるのを、望んでいない存在がいます。サタンです。サタンは何とかして、私たちの心を古い性質のままにとどめようとします。サタンは、私たちが、人の考え、この世の考えの中にとどまるようにと、必死になって対抗します。そして私たちが、「心の中心」を明け渡すのを妨げ、失望させ、実を結べないようにして、私たちを神様の愛から引き離そうとするのです。こうして、私たちの心を舞台にして、神様とサタンとの霊的な戦いが、いつも行われているのです。

今日は、その霊的な戦いについて考える上で大切な概念である、私たちの心の中にある「要塞」について、そしてその「要塞を打ち倒す力」について考えてみたいと思います。まず御言葉をお読みします。第2コリント10章3節から5節です。

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。
コリント人への手紙 第二 10章3~5節

ここに要塞という言葉が出てきます。皆さん、要塞とは何かご存知でしょうか。分かりやすいように、まずは写真を見てもらいたいと思います。

これが要塞です。城壁のようなもので囲まれていますね。辞書を見るとこのように書かれています。「外敵から、戦略上重要な地点を守るために築かれた構築物」。つまり、戦っている相手を攻略するための基地のようなものです。

聖書では私たちの心の中にも、要塞があると言っています。そしてこれは、敵の要塞です。先ほどの御言葉を見ると、要塞とは「様々な議論」と「神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」のことだと分かります。つまり、私たちの心の中にありながら、神の真理に逆らい、議論を挑み、自分は神なしでやっていけるという高ぶりがある状態。それこそが要塞だというのです。この要塞を放置していると、私たちはサタンに攻撃する機会を与えることになってしまいます。そして、キリストとともに歩んでいるにもかかわらず、勝利ではなく、敗北感を感じながら生きていくことになってしまうのです。

この事を、少し整理して見てみたいと思います。

先週も見たように、イエス様を信じた瞬間から、私たちの心の中にはイエス様が住んでくださっています。

私たちの目指すことは、私たちの心が、完全に神の思いと一つとなる事です。そのために私たちは、「心の中心」をイエス様に明け渡し、イエス様に心の隅々まで満たして頂くことが出来るようにと願って歩んでいます。

しかし、私たちの心の中には、敵が支配している要塞があって、私たちの心が完全に神のものとされるのを妨げているのです。

それどころか、サタンはその要塞から私たちを攻撃し、神の真理と対立します。その結果、特定の分野において私たちは繰り返し敗北感を味わってしまったり、正しい自己認識ができなくなってしまったりするのです。

ですから私たちは、その要塞の一つ一つを処理し打ち壊していく方法を学ばなければなりません。これは、一度に簡単に消し去ることのできるものではありません。しかし、その問題の一つ一つに十字架による勝利を宣言していく必要があるのです。

1. どのようにして要塞が出来るのか

では、なぜ私たちの心の中には、このような敵の要塞があるのでしょうか。そして、これはどのようにして出来上がっているものなのでしょうか。実はこの要塞は、敵の攻撃を受けて、私たち自身が作り上げてしまってきたものなのです。

敵であるサタンは、様々な形で私たちに嘘・偽りを語り、私たちの「思い」、私たちの「思考」に攻撃を仕掛けてきます。聖書には、サタンは「偽り者であり、偽りの父」だと書かれています。人類に罪が入り込んだのは、サタンが、アダムとエバに「神のようになれる」と言う嘘を信じ込ませたからでした。しかし、もともとアダムとエバは、そんなことをしなくても、「神の似姿として」造られた存在です。でも、サタンは巧妙に嘘をつき、まるで神様が悪意をもって人を制限しているかのように感じさせました。そして、人に罪を犯させ、神の祝福から引き離したのです。サタンが攻撃してくるのは、いつも私たちの「思考」に対してです。サタンは私たちの「思い」の中に偽りの情報を、提案してくるのです。それを「誘惑」と言います。そしてその誘惑に負けて嘘を信じ込み、信じ込んだことに則って行動し、罪を犯してしまうのです。悲しいことに、私たちは、私たち自身の選択で、それを選び取ってしまっているのです。

2. サタンの偽りに気づく

今、私たちの周りには、偽りの情報、フェイク・ニュースがあふれています。ですから、これからの時代、何が本当に正しい、信頼に足る情報なのかを、見極める能力が求められています。しかし、神の国の住民とされた私たちにとっては、それだけでは不十分です。なぜなら、それが世の中でどんなに正しい、当然だとされる考え方であったとしても、神様の基準から見ると、全くの嘘・偽りであるということがあるからです。

皆さんも経験があるかもしれませんが、SNSとかYouTubeとかを見ていると、私むけにカスタマイズされた様々な広告が表示されてうんざりします。これを飲めば痩せられるとか、健康になれるとか、異性にモテるとか、お金が稼げるとか、ここで新しい出会いが与えられるとか、そんな広告ばっかりです。そして、これらの広告は、50代男性の私の心の隙間を巧みに察知し、これを手に入れさえすれば、「あなたが本当に求めているもの」が手に入りますよ、と誘ってくるわけです。

別にそれらの商品のすべてを否定するわけではありません。でも、ただ一つのことは言えます。私の、本当の必要を満たすのは、ただ、主お一人です。私の、本当の必要を満たすのは、ただ、主お一人です。しかし世の中は、私が世の基準に従って歩むようにと、絶えず私を誘惑してくる訳です。そして、その背後には、私たちを欺くサタンの攻撃があるのです。

サタンの嘘には大きく分けて2つの方向性があるように思います。

1つ目は、「罪に対して無感覚にさせてしまうもの」です。こんなこと、みんなやってるから大丈夫。あいつに比べたら大したことない。1回だけだったら、問題ない。あなたには、それをやる権利があるんだから、それを用いないともったいない、というような囁きです。初めは小さな罪からのスタートかもしれません。しかし段々と心が無感覚になり、エスカレートしていき、気が付けばすっかり罪の虜になっていたなんてこともあるのです。

2つ目は、「神と私との関係を正しく認識できなくさせるもの」です。お前は神を信じていながら、こんな失敗を犯すなんて、なんてダメなやつなんだ。本当は、神はお前のことなんか愛していない。お前は一生懸命頑張って神の愛を勝ち取らなければならない。そのような声に縛られると、神様がどんなに「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言っても、いつも否定的な声に打ち消されてしまい、勝利の歩みができなくなってしまうのです。

3. 心の奥底にある要塞に気付く

少し、私自身のことを話したいと思います。

私は2000年に、本郷台キリスト教会の弟子訓練コースであるMDCで学びをしていました。その時、こういった心の問題を取り扱う「祈りのミニストリー」の中で、幼少期のことについて祈ってもらう機会がありました。父と母との関係だとか、どんな環境で育ったかとか、そういうことを質問されましたが、私は特に何も問題に感じていなかったので、何をどう話して良いのか分かりませんでした。そして、その程度の理解のままMDCでの学び、そして「祈りのミニストリー」の学びを終えました。

しかしその数年後、「あれ、これは何かおかしいな」と気がついたことがあったのです。ちょうどサッカーのワールドカップの時期だったと思うのですが、実家に家族が揃って集まっていました。その当時、私の兄はヨーロッパのサッカーを観るのが大好きだったようで、雑談の中で、自分のサッカーの知識を色々と話して聞かせていました。それを、他の兄弟が「へー、すごーい。よく知ってるねー」と盛り上がっているのを聞きながら、突然、「自分には価値がない」という思いにとらわれたのです。え、何を突然、と皆さんも思われると思いますが、私自身、そのことに気づいてとてもビックリしました。そして、そのことをきっかけに神様に祈りつつ、自分の心の奥底を探ってみたのです。すると、こんなことが見えてきたのです。

私は3人兄弟の末っ子で、小さい頃はいつも「みそっかす」扱いされていました。「みそっかす」とは能力が低く、一人前の仲間として認められない子供のことです。これ、結婚して分かったんですが関西では「ごまめ」って言うらしいですね。ともかく、そんなわけで、自分は知らず知らずのうちに、いつも兄や姉を追い越さなければならない、いい子にして親の愛を勝ち取らなければならないと思って育ってきたんだという事に気付かされたんです。自分は何かができる事によって自分の価値を証明しなければならない。そのように、勝手に信じ込んでいたんです。その結果、そんな他愛のない雑談においても、「そんなことも知らない自分は、価値がない存在だ」と無意識のうちに心が反応していたのでした。

別に、親や兄弟たちがそのようなメッセージを発していた訳ではありません。しかし、私自身が勝手にそのようなメッセージを受け取り、解釈し、信じ込んでしまっていた事だったんです。確かに、小さい頃の写真を見ると、兄の写真はパラパラ漫画のように連写してたくさんある。しかし、私の写真はほんの数えるほどしかない。あったとして、兄弟で一緒に写っている写真で、私だけが写っている写真ではない。

親になったら分かることですが、これはもうしょうがないことなのです。別に親の愛情が下の兄弟に対して薄くなった訳ではありません。しかし、私の方では無意識にそのようなメッセージを受け取り、知らず知らずのうちに、自分は良い子にしていないと、自分は頑張ってよくしていないと、愛は勝ち取れないと思い込んで育っていったのです。

私の場合はそれが、はた目には良い方向に働いて、周りからは、どちらかといえば優等生のように思われる過ごし方をしてきました。しかし、私が受け取った偽りのメッセージは、クリスチャンになってからも私を縛り、私は相変わらず自分の力で自分の価値を証明しなければならないと感じていました。そして裏を返すと、ほんのちょっとの失敗でも、自分には価値がない、生きている意味がないと思うほど落ち込むことも、しょっちゅうありました。そして極端に失敗を恐れてしまう自分自身がいたのです。

幼少期の経験は、より根が深い要塞となって私たちを縛ってしまうことがあります。それは、どんな環境で育ったとしても、結局のところそれを私たちの側でどう受け取ったか、そこでどのようなことを選び取り、何を信じてしまったのかということが問われるのです。ですから、もし皆さんが過去を辿って、自分自身を縛っているものを見つけようとしているのであれば、決して誰かのせいにしないでください。もちろん、あなたに大きな影響を与えた存在はいるでしょう。でも、だから自分はこうなったんだというような言い訳をするのはやめましょう。そして、そのような言い訳をしている限り、癒しは起こりません。

でも、過去に遡ってでも、それら一つひとつの選択を自分の罪として認め、正しく扱うなら、そこには希望があります。なぜなら、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして十字架にかかって死ぬためにこの地上に来られたからです。ローマ人への手紙5:8にこうあります。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
ローマ人への手紙 5章8節

神の愛を勝ち取るために、良い人になる必要はありません。神様は、私たちがまだ罪人であった時に、いのち懸けの愛を表してくださったのです。神様の愛は条件付きの愛ではありません。神様は、ありのままの私を愛してくださっているのです。ですから、古い性質、自分の力で愛を勝ち取ろうとしている、そのような要塞に気づいた時には、神様の前に悔い改め、いつでも御言葉の真理によって、神様の方向に向き直ることが大切なのです。

4. 要塞を打ち倒すために

それでは、この要塞を打ち倒すために、私たちは何をすべきなのでしょうか。ここでは、癒しのための4つのステップをご紹介したいと思います。まず第1に要塞の存在を認めること、第2に悔い改めること、第3にみことばの真理を適用すること、第4に告白と祈り、です。一つひとつ見ていきたいと思います。

(1)要塞の存在を認めること

まず第1に、要塞の存在を認めることです。別に要塞という言葉を使わなくても構いません。あなたが信じ込んでしまっている嘘、あなたが繰り返し敗北感を味わうような分野、そういう部分がないか、主との交わりの中で探っていただくのです。詩篇139:23、24にはこのようにあります。

神よ 私を探り 私の心を知ってください。
私を調べ 私の思い煩いを知ってください。
私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て
私をとこしえの道に導いてください。
詩篇 139篇23~24節

自分の内側に、過去の傷や、自分の罪によって築き上げた要塞があると認めることは、とても辛いことかも知れません。しかし、すべての解決はそれを光のもとに持ち出すことから始まります。ですから、自分自身について主の光の中で思い巡らし、私の心のどこに傷ついた場所があるか、どこに敵の要塞となってしまっている場所があるか教えていただきましょう。

(2)悔い改めること

第2のステップは、「悔い改めること」です。悔い改めるというのは、向きを変える、考え方を変えるという意味です。単に「自分が悪かった」と思うことではありません。そうではなく、その原因となった考え方を特定し、その考え方を変えるということです。ローマ12:2をお読みいたします。

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
ローマ人への手紙 12章2節

ここで「心を新たにすることで、自分を変えていただく」と書いてありますが、この心というのは、英語で言うマインド(mind)、つまり私たちの思考・考え方のことを言います。サタンが嘘で攻撃してくるのは、私たちの考え方に対してです。ですから、これからはサタンの嘘ではなく、御言葉の真理を信じると決心することが、「心を新たにする」と言う意味です。私たちが、人の思いではなく、神の思いを選び取るならば、私たちは「自分を変えていただく」ことができます。この箇所は、新改訳第3版では、「心の一新によって自分を変えなさい」と訳されていました。つまり、「自分を変える」というのと同時に「自分を変えていただく」のです。この言葉には、その両方の意味が含まれています。私たちの側では心を一新し、変わる決心をする。そして、それと同時に神様が私たちを変えてくださるのです。

(3)みことばの真理を適用すること

第3のステップは、「みことばの真理を適用すること」です。エペソ6:17には、「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」と書かれています。私たちの攻撃の武器は「神のことば」です。サタンの偽りに対して、勝利することが出来るのは、神のことばの真理です。神のことばに根ざし、神様のご性質と、神様の約束を宣言していくことで、私たちの思いの中にある要塞を崩していくことが出来るのです。

(4)告白と祈り

第4のステップは、「告白と祈り」です。第1ヨハネ1:9にはこのようにあります。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
ヨハネの手紙 第一 1章9節

私たちが、悔い改めたり、みことばの真理を適用したりすると言う時、それは実際に口を開いて告白し、祈るという方法をとる必要があります。告白には力があります。これは、私たちの思いにおける戦いですから、それを単に頭の中で解決することは難しいです。誰かに話し、告白するというプロセスを通して、同時に神様にも聞いてもらうということが、とても助けになります。ヤコブ5:16にはこのようにあります。

ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。
ヤコブの手紙 5章16節

もし、皆さんが牧会ファミリーに属しているのであれば、その中で互いの要塞が打ち砕かれるようにお祈りする機会があると良いかも知れません。ただし、ここで少しだけ注意点をお伝えします。できれば、牧会ファミリーの中でも、あまりたくさんの人がいる中ではなく、2人か3人でお祈りすることをお勧めします。なぜなら、時にとても深い、プライベートなことに踏み込む可能性があるからです。ですから、告白する人が、信頼して安心して話ができる環境を作ることが大切です。そして、そのような祈りをする場で必ず守っていただきたいことがあります。それは、(1)教えない、(2)裁かない、(3)秘密厳守、ということです。

誰かが罪を告白した時、それが主の前に出された時にすでに癒しのプロセスは始まっています。告白されたあなたは、主にとりなして祈りつつその方にしっかりと耳を傾けてあげてください。あなたが何かを教える必要もありませんし、何を言われても裁くことはやめてください。ただ、みことばの真理にもとづいて赦しと癒しを宣言し、もし励ましとなる御言葉が示されればそれを伝え、その方に祝福が注がれるように祈ってあげてください。そのような祈りには、とても大きな力があります。

今、全体でしばらく祈る時を持ちたいと思います。もし、メッセージを聞く中で、自分の要塞が明確になったという方がおられたら、それを打ち砕く時としたいと思います。そうでない方も、主に心を探っていただき、私たちの心が完全に主のものとされるように、祈りたいと思います。どうぞ心を合わせてください。

ハレルヤ、愛する主よ。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたは天地万物を造られた偉大な神です。
あなたは全てにまさって力強いお方です。
あなたは完全に義なるお方であり、完全に愛なるお方です。
主よ。私はあなたの御前に出ています。
どうか、私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに、傷ついた道があるかないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。

今、主よ。私の心の中に、あなたの喜ばれない思いがあることを認めます。
あなたの御心から離れて、私が信じ込んでしまっている嘘や偽りがあります。
それが私の要塞となり、私を縛っています。
私の古い傷が要塞となり、私を縛り、私を苦しめています。
光ではなく、暗闇の中に歩んでいる私がいます。
繰り返し犯してしまう罪や、恐れや、敗北感によって、自分の無力さを感じています。
そして、敵である悪魔が、私の心を責め続けています。
「お前には価値がない。お前はダメな人間だ。お前は一生変わることができない。」

しかし私は、サタンの嘘ではなく、御言葉の真理に耳を傾けます。
あなたは私に約束してくださいました。
わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している。
わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」

主よ、私はあなたのものです。
私は、あなたに愛されている神の子です。
私を、あなたの愛から引き離すものは、何もありません。
あなたの十字架が、その愛のしるしです。
私はいつでも、大胆にあなたに近づくことができます。
たとえ死の影の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたこそ、私の慰めです。力です。希望です。
私はとこしえにあなたとともに歩みます。

ですから、今、信仰をもって宣言します。
イエス・キリストの十字架と、血潮の力によって、この要塞を打ち砕きます。
イエス・キリストの十字架と、血潮の力によって、この要塞を打ち砕きます。
今、あなたの血潮によって、私をきよめてください。
今、あなたの平安と祝福で満たしてください。

感謝します。
今、あなたが私を解放してくださったことを信じます。
私はあなたにあって自由です。
ハレルヤ。感謝します。
これからも、私たちは世にあっては患難があります。
しかし、あなたはすでに世に勝利してくださいました。
ですから、これからも、さまざまな誘惑に打ち勝つ力を与えてください。
どうか、真理を見分ける力を与えてください。
今、私たちは信仰によって、あなたとともに前進します。
私たちを、あなたの御心のままに導いてください。
あなたを信じます。
あなたを愛します。

感謝して、イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。
アーメン。

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