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2023年1月29日 キリストの心とともに(2)
2023年1月29日 キリストの心とともに(2)
イザヤ書 61章1節 池田恵賜 主任牧師
今日も、まずご一緒に今年教会に与えられたイザヤ61章1節のみことばを読んで始めていきましょう。
“【神】である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、【主】はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。”イザヤ61:1a
先週は、このみことばから「貧しい人」という言葉に焦点を当てました。「私たちは自分の犯した罪ゆえに神の祝福の外側に立っている者であって、自分で自分を救う力のない貧しい者であること」、「神はそんな私たちを見捨てずに助けてくださった」ということをお話しました。そして、私たちは「神の憐れみの心」をいただいて、弱い立場に置かれた人々を顧みるために遣わされていることを確認しました。私たちが遣わされた場所で弱い立場に置かれた人たちを助けることは、イエス様にしたこととなるのです。
今日は「心の傷ついた者を癒すため」という言葉に注目しましょう。私たちが遣わされている場所には「心の傷ついた人がいる」というのです。「心の傷ついた人」とは誰のことでしょう。誰しもみな、心に傷をもっています。傷の大小の違いはあると思いますが、傷がまったくないという人はいないでしょう。「あのとき、あの人に傷つけられたことは決して忘れない」という人もいるでしょう。傷つけられたことによって人生が変わってしまったという人もいます。自分の故郷を破壊され、ウクライナから避難してきている若者たちを見ると「どんなに大きな傷を負ってしまったことか」と、心が痛みます。神様は、そのような心の傷ついた人を癒すために、私たちを遣わされるのです。
今日は「心の傷」ということを、ご一緒に考えていきましょう。
1. 傷ついた姿は、あなた本来の姿ではない
「心の傷ついた者を癒すために」ということは、遣わされた私たちは「癒す側」にいるのです。しかし、癒す側の私たちの心が深く傷ついたままでは、相手を癒すことはできません。
今日のメッセージを聞いている人の中にも、まだ癒されていない心の傷を抱えた人がいるかもしれません。今日まず覚えたいのは、「傷ついた姿は、あなた本来の姿ではない」ということです。黙示録21:4に、イエス様が再臨された後の新天新地の様子が記されていますが、そこにはこうあります。
“神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」”黙示録21:4
神様は完全なお方で、その神様がご支配される世界も完全です。そこには死も、悲しみも、恐怖も、苦しみも、涙もないのです。そこには喜びと、祝福と、楽しみが満ち溢れています。新天新地においては傷つくことも、傷つけられることもないのです。神様が造られた本来の私たちの姿は、「傷のない」状態でした。しかし、堕落した罪の世界で人々はそれぞれ自分勝手に生きるようになり、その結果、お互いに傷つけあうようになってしまったのです。
「昔は明るい性格だったけど、いじめを受けて変わってしまった」とか、「人から騙されてそれ以来すっかり人を信用しなくなった」というような話を聞くことがあります。心に傷がある状態では、人間関係や新しいこと、変化に対して積極的になれなかったり、周りの人が楽しそうにしていても心から喜べなかったりするものです。普段は平気でも何かの拍子に過去にフタをしていた傷が思い出されて、ある事柄に過敏に反応したり、同じようなシチュエーションで苦しさがよみがえってきたりもするのです。しかし、そのようなことがあったとしても、それは本来のその人の姿ではないのです。神様は私たちを傷のない者として造られましたが、人は神様から離れ、お互いに傷つけあうようになってしまい、その傷により本来の自分と違う自分となってしまった人もいるのです。そんなことを覚えて、次のポイントに移りましょう。
2. 傷ついたときこそ神に出会うチャンス
神様から離れた世界で、お互いに傷つけあうようになった私たちですが、実は「傷ついたときこそ、神に出会うチャンス」なのです。人間関係もうまくいって、元気で、自分の力で何とか出来ているうちは、人はなかなか神様の方を向きません。しかし、自分の力ではどうしようもなくなったとき、人ははじめて自分以外のものに目を向けるのです。心が傷ついて、自分の限界を知ったとき、私たちは神様のすぐ近くまで来ているのです。イエス様は、あるときこのように言われました。ルカ5:31-32です。
“そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」”ルカ5:31-32
人は健康なときには医者を必要としません。しかし病気になると、お医者さんのところに行きます。同じように、私たちは心の傷に気づいて「自分ではどうすることもできない」と分かったとき、はじめて「自分には、神様の助けが必要かもしれない」と、神の存在に目を向けるのです。そして、イエス様はそんな傷ついた人たちを「招くために来られた」と言われるのです。
傷は私たちから力を奪います。傷があると、私たちは本来の力を発揮することができなくなるのです。心の傷は見えませんが、その傷が深ければ深いほど、私たちの生き方に影響を及ぼします。ですから「自分の心には傷がある」と気がついたなら、神様のもとに行くことをお勧めします。
3. 癒しのとき…傷のないささげもの
しかし、本来私たちは「傷を持ったまま」では神の前に出ることはできません。ここからは「傷のないささげもの」ということを考えてみましょう。旧約時代、罪ある者が神の前に出るためには「いけにえ」が必要でした。そして、そのいけにえは、「傷のない」動物でなければいけませんでした。人々は全焼のいけにえや、罪の聖めのためのいけにえとして、神殿で「傷のない」羊や牛や、やぎをささげたのです。
また新約時代を生きたパウロは、エペソ1:4でこのように言っています。
“すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。”エペソ1:4
このみことばからも分かるように、神の前に「傷のない者として出る」ということは大切なことなのです。いえ、大切なことという以上に、神の前には「傷のない状態のもの」しか立てないのです。それは神が完全なお方であって、神の内には一点の曇りもあってはいけないからです。
人は本来、傷ついた不完全な状態では神の前に立つことはできません。そんなことを言うと、「それでは一体だれが神の前に立つことができるのか」と考えてしまいますが、そうです、罪ある世界に生きている私たちは、誰ひとり神の前に立つことができないのです。旧約時代に「傷のない動物」をささげて、人々は神を礼拝していましたが、じつはそれも不十分だったのです。しかし、それでも神様は「人が心から神を思い、ささげるものを吟味して、最良の『傷のないもの』をささげるなら良い」とされたのです。なぜなら、それらのいけにえは、やがてささげられる「傷のない」完全ないけにえを指し示していたからです。その「傷のない」完全ないけにえとは、イエス・キリストです。罪が支配する堕落した世界では、私たちが何をささげても完全なささげものとはなりません。だから罪のない神のひとり子イエス・キリストが人となってこの世界に生まれて、神の前に「傷のない」完全なささげものとなってくださったのです。それによって、動物ではなく、イエス・キリストというささげものを通して、人は神の前に立つことができるようになったのです。
4. キリストによる癒し
神の前に出る者たちが「傷のない状態でいる」ということは大切なことです。なぜなら、神とともにいるということは「神のご性質にあずかる者になる」ということだからです。神とともにいるならば、そこには何の傷もあってはいけないのです。だから、私たちの傷をいやすためにイエス様は十字架にかかられたのです。Ⅰペテロ2:24を読んでみましょう。
“キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。”Ⅰペテロ2:24
私たちはみな傷をもっていましたが、イエス・キリストの打ち傷によって、それらの傷は完全に癒されたのです。普通なら、傷は薬を塗ったり、治療したりして治しますが、私たちの傷は「キリストの打ち傷によって癒される」と、みことばは語るのです。
「傷が傷によって癒される」とは、どういうことでしょうか。イエス様は私たちと同じ痛み、苦しみを味わってくださったのです。そして、その傷をすべてその身に受けて、ご自身のもとに来る人たちの傷の痛みに代えて、愛を注いでくださるのです。キリストの傷から流れているのは、神の愛です。私たちがキリストのもとに行き「あのとき私の心は傷つきました」、「あのときこんなくやしい思いをしました」と、一つ一つの痛みを告白するとき、キリストはその身に受けた傷をあなたに見せて「さあ、見てごらん。あなたの受けた傷は全部わたしも受けたのだよ。あのとき、わたしはあなたと一緒にいて同じ傷、同じ痛みを受けたのだよ。あなたはあのとき決して一人ではなかった」と言ってくださるのです。そして「さあ、あなたの痛みに代えて、いま私から神の愛を受け取りなさい。そうすればあなたの傷は癒されます」と、語られるのです。
あなたは自分と同じ傷を受けたキリストの打ち傷から、神の愛を受け取ったでしょうか。「傷ついた自分」と「イエス様の負われた傷」が結びつくとき、私たちはイエス様の十字架が私のためであったと知るのです。そして「私の傷は、イエス様の十字架によって癒されました」と宣言できるのです。この神の愛が無限に溢れ流れているキリストの十字架を思えば思うほど、それは私たちを罪の生活から離れさせ、神様の近くを歩ませるものとなるのです。ヘブル9:14をお読みします。
“まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。”ヘブル9:14
イエス様の十字架の愛と癒しを知れば知るほど、私たちは罪の生活から離れ、神との生きた交わりを楽しむようになるのです。
さて、ここまで、神の前に出るためには「傷のないささげもの」が必要で、イエス・キリストご自身がそのささげものとなって十字架で「死んでくださった」ことを見てきました。イエス・キリストという「傷のない完全なささげもの」がささげられたので、私たちの傷が癒され、私たちの罪が赦されて、私たち罪人が神の前に出る道が開かれたのです。これは単に、私たちが神を礼拝するときのことだけではありません。私たちが24時間、365日、どんなときも神の子どもとして「神の前に生きる者となった」ということです。
5. 私たちが神にささげるもの
イエス様が、傷のない完全なささげものとなってくださったことにより、私たちは動物のいけにえをささげる必要がなくなりました。かつての旧約時代のように、神の前に出るために「傷のないもののいのち」が奪われることはなくなったのです。そして、いま私たちは自らが「生きたささげもの」となって、神の前に出ることが求められているのです。ローマ12:1を読んでみましょう。
“ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。”ローマ12:1
キリストの十字架以前は、「生きたささげもの」なんてあり得ませんでした。私たちが神の前に出るために「傷のないもののいのち」がささげられなければいけなかったのです。しかし、キリストが「傷のない」完全なささげものとして神にささげられたことによって、私たちは「死なずに」神の前に出ることができるようになり、「生きたまま」ささげられる神へのささげものとなったのです。「神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物」。それは私たちの「生き方」を通して、神をあらわすということです。
聖書には、神の前に出るときにいけにえだけでなく、贈り物を携えて出るように命じられています。申命記16:16b-17です。
“【主】の前には何も持たずに出てはならない。あなたの神、【主】が与えてくださった祝福に応じて、それぞれ自分の贈り物を持って出なければならない。”
なぜこのように命じられているかと言えば、「祝福は神から与えられる」からです。「主が与えてくださった祝福に応じて、贈り物を持って出なければいけない」とは、私たちが神の前に出るときに、この祝福が神から出たものであることを覚え、神に感謝をささげる行為なのです。私たちが死なずに、生きたままで神様の前に「ささげもの」として出ることができるとは、なんという祝福の時代でしょうか。イエス様の十字架の故に、私たちの讃美も、感謝も、すべてが「神へのささげもの」となるのです。
6. あなたの傷は、神への「道しるべ」
さて、今日のメッセージを締め括っていきますが、もし、まだ自分の心の傷が癒されていないという方は、ぜひこのみことばを覚えてください。詩篇139:24です。
“私のうちに傷のついた道があるかないかを見て私をとこしえの道に導いてください。”詩篇139:24
あなたの傷は、あなたを神のもとにまで導く「道しるべ」なのです。ですから、あなたが受けた傷をそのままにして、その傷があなたの心を支配することがないようにしてください。神様のもとへ行くときにあなたの傷は完全に癒されて、その傷を覆って余りあるほどの神の愛をあなたは体験することができます。
あなたが受けた傷によって、ゆがめられたり、閉じ込められたりしてしまっているあなたの良い賜物が解放され、神様が造ってくださった私たち一人ひとりの本来の姿に回復されていくのを体験するならば、それは神の愛と栄光の現れとなり、同じように傷ついて苦しむ人たちの希望となるのです。
そのようにして、心の傷の癒しを体験し、私たちは今年、心の傷ついた人たちを癒すために神様によって遣わされるのです。あなたを通して素晴らしい癒しのみわざが広げられていくことを期待していきましょう。