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2023年11月5日 愛が結ぶ教会(2)〜初代教会の模範〜
2023年11月5日 愛が結ぶ教会(2)〜初代教会の模範〜
使徒の働き 2章41~47節 佐藤賢二 牧師
先週から、私たちは「愛が結ぶ教会」というテーマで学んでいます。「愛が結ぶ教会」というのは、私たちの教会の目指す「教会のあり方」です。私たちは「何を行うか」という前に、「どのような教会であるべきなのか」という点での一致が不可欠です。それが、この「愛が結ぶ教会」という言葉に表されているのです。
教会というのは、実際には罪人の集まりに過ぎません。少なくとも、自分の罪を自覚した普通の人たちが集まっている所です。ですから、当然そこには様々な弱さや問題もあります。でも、イエス様はそんな私たちの身代わりとして十字架にかかってくださり、その罪を赦し、私たちに本当の愛を教えてくれました。だからこそ私たちもこの愛を中心に据え、互いに赦しあい、その愛を反映した生き方を選び取っていくということ。それが「愛が結ぶ教会」の姿なのです。「愛は結びの帯として完全です」とあります。私たちは「4つの愛」、すなわち、神を愛し、人を愛し、地域を愛し、世界を愛する、そういう教会でありたいと願います。
今、私たちが更なる広がりを期待する中で、もう一度この「愛が結ぶ教会」という原点を、共有していく必要性を感じます。ずっとここで育ってきたという方も、最近新しく加えられた方も、それぞれが、今必要な主の御声を受け取れるようにと祈りつつ、今日も御言葉から学んでいきたいと思います。
それでは今日は、使徒の働き2章の御言葉を中心に見ていきたいと思います。使徒の働き2:41-47をお読みいたします。
彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
使徒の働き 2章41~47節
この箇所には、世界で初めての「教会」が生まれた時のことが、生き生きと描かれています。そしてこの箇所からは、非常にたくさんの事を学ぶことができますが、今日は、準備する中で示された3つのポイントに絞って、お分ちしたいと思います。
1. 3000人の救い
まず第1のことは、「3000人の救い」ということです。初代教会は、一度に3000人の人が救われるところからスタートしたのだという事に目を留めたいと思います。
ミッション3000の「3000」という数字は、この御言葉に基づいたものです。神様は一度に3000人もの人を救ってくださる。そのことを信じ、そのための備えをする。そして、この3000人からスタートした初代教会を、私たちの模範とするということです。
(1)数字は人であって、ただの数ではない
皆さん、「3000人の救い」と聞いて、どう思われるでしょうか?もう「ワクワクしてたまらない」と感じるでしょうか。それとも「何かちょっとついていけない」という気持ちが、どこかでくすぶっていないでしょうか。実は正直に申し上げますと、私はこの3000人という数字に、初め「ちょっとついていけない」という気持ちが強かったんです。
私が初めて「ミッション3000」「3000人の救い」というビジョンを聞いたのは、まだ大学生の頃でした。その頃私は、神を愛し、喜んで奉仕をする教会生活をしていたと思います。でもその一方で、自分の問題で精一杯だったのかも知れません。3000という数字の前に恐れをなして、漠然とした不安を抱えるようになりました。「教会は大きくなりさえすればいいのか」とか、「数字を追いかけ出したら、何か大切なものを見失ってしまうのではないか」、「教会は量よりも、質を求めるべきなのではないか」とか言って、ちょっと斜に構えていた時期があったのです。
でもある時、自分の中で、ある気づきが与えられました。3000人の救いとは、人間の方策や知恵によって成し遂げられるものではない。それは、純粋にただ神様のみが、なせる御業である。でも、神様が3000人を一度に救いたいと願っておられるのに、私がそれを望まない、ついていけないという理由で、主の御業をとどめてしまうようなことがあってはならない。不信仰という大きな岩が邪魔をしている限り、主の御業を見ることは出来ない。だからその部分においても、自分自身を明け渡して、神様の御心がなされるように求めていきたい。そのような思いに変えられていったのです。
そしてそのようにして自分自身を明け渡してみた時、改めて、理解できたことがあります。それは、池田博先生がいつも、「数字は人であって、ただの数ではありません」と話していたそのことが、自分でもしっくりとくるようになったのです。
皆さん、私たちは、3000人という数字をあげる時、それは決して「ただの数」を求めているのではありません。そうではなく、そこには、イエス様が捜し求めた大切なお一人お一人がいる。だから、私も主と同じ心をいただいて、一人の人を捜し求めたい。それが、根底にあるのです。それが、ミッション3000の精神なのです。
皆さんの中に、私と同じようなタイプの方がおられるか分かりませんが、私は割と大きな変化とか、大きな考え方の違いに、心から納得してついていくのに時間がかかるタイプなのです。「石橋を叩いて渡る」どころか、「石橋を叩いた挙句に渡らない」ということもよくあります。そして、一つひとつのことを消化していくのに、とても時間がかかる。私自身がそうなので、きっと皆さんの中にも、この動きの速い教会の働きの中で、消化不良になってしまっている部分もあるのではないかと想像するのです。
私にとって幸いだったのは、当時そういう思いを、ざっくばらんに話せる相手がいたということです。時には愚痴にしか聞こえないこともあったかもしれません。でもお互い、本質的にはそうではないことが分かっている。真剣に、神様の御心に従っていきたいという思いの中で、私の正直な気持ちを注ぎ出すことが出来る場があったということなのです。そして、私の弱さを、裁くのではなく、真剣に聞いて、祈り、一緒に主の御心に向かって歩み出す手助けをしてくれた友達の存在。それが、私自身の成長にとって、欠かせなかったと思うのです。皆さんも、ぜひそのような信仰の友を見つけて頂きたいと思うのです。
(2)心を一つにして祈る
さて、使徒の働きの2章において、3000人の人が一度に救われました。そのきっかけを作ったのはペテロの説教です。ペテロは、あのペンテコステの日に他の弟子たちとともに、圧倒的な聖霊の注ぎを受けました。これは何事かとそこに集まってきた人たちに対して、ペテロが福音を語ると、それを聞いた多くの人たちが悔い改め、主を信じて、3000人もの人が仲間に加えられたというのです。ペテロを通して、聖霊が豊かに働かれたのです。これは、聖霊の御業です。
では弟子たちは、聖霊が働かれるために、どのような備えをしていたのでしょうか。使徒の働き1:14をお読みいたします。
彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。
使徒の働き 1章14節
ここに、彼らはみな「いつも心を一つにして祈っていた」とあります。イエス様は、天にお戻りになる前、弟子たちに対して「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と言っていました。その約束とは、聖霊のバプテスマ、すなわち聖霊による満たしです。彼らは、この「父の約束」が与えられるようにと、心を一つにして、熱心に祈っていたのです。
皆さん。祈りは、リバイバルの鍵です。彼らは、「父の約束を待ち望んで」「心を一つにして」「熱心に祈っていた」のです。彼らは、実際のところ、これから何が起こるのか、全く分かりませんでした。でも、何かが起こるための備えは出来ていたんです。
(3)破れを繕う
先ほど読んだ箇所は、このように続きます。使徒1:15です。
そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、ペテロがこれらの兄弟たちの中に立って、こう言った。
使徒の働き 1章15節
ペテロはここで、立ち上がって何を語ったのでしょうか。ここでは詳しく見ませんが、この後の記述を見ると、それは彼らを裏切って、仲間から離れていった「イスカリオテのユダ」に関することだったことが分かります。そしてペテロは、ユダの代わりに使徒を補充すべきだと主張し、その結果マッティアという人物が選ばれていきました。
私はここで、思わされたことがあります。この時、主を待ち望む群れの中に、まだイスカリオテのユダの出来事を消化し切れていない人がいたのではないか。それが何かモヤモヤとした「しこり」となり、聖霊の注ぎをとどめている原因となっているのではないか。その痛みや不安に寄り添い、そこに対する相応しい手を打たない限り、次に進むことが出来ない。ペテロは、祈りの中で、そのように示されたのではないかと思ったのです。
私たちも、リバイバルのために、聖霊の注ぎのために、父の約束を待ち望むために、と祈っている中で、むしろ自分たちの内側の問題が示されることがあります。今、そこにこそ癒しが必要である。それを無視して、誰かを置き去りにして、突っ走ることは出来ない。ペテロはそのようにして、祈りの中で示されたことに、一つひとつ、誠実に対応していったからこそ、神様は3000人の救いを与えてくださったのではないかと思うのです。
私たちには、そのような破れに立つ人物が必要です。イザヤ58:12にはこうあります。
あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは代々にわたる礎を築き直し、『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる。
イザヤ書 58章12節
私たちは、「遠心力」とともに「求心力」が必要です。私たちの内側に綻びがあるならば、その礎を築き直す必要があります。破れを繕う者。通りを住めるように回復する者の働きが必要なのです。「受け皿を整える」というのは、そういう綻びを直していくことでもあります。
スポーツミニストリーで良く用いられる格言にこのような言葉があります。
If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.
(早く行きたければ、一人で行きなさい。遠くへ行きたければ、みんなで行きなさい。)
私たちは、どちらを選んだら良いのでしょうか。もちろん、遠くへ行きたいですよね。そして、みんなで行きたいです。みんなで行くということは、別に早く辿り着けないということではありません。私たちが、心を一つにして進む時に、そこには大きな力が働きます。そのような所にこそ、聖霊が豊かに注がれるのだと思うのです。
2. 交わりの力
第2番目のポイントは、「交わりの力」ということについてです。救われた3000人は、バプテスマを受けてそれで終わりではありませんでした。そこから豊かに成長し、主を証しする弟子たちへと変えられていったのです。3000人の救いは、3000人の養いでもあります。使徒2:42を見てみましょう。
彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
使徒の働き 2章42節
ここに、彼らが、日常生活の中で、具体的に何をしていたのかが描かれています。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。つまり彼らは、イエス様を中心とした「交わり」をしていたのです。この交わりという言葉は、ギリシア語で「コイノニア」と言います。コイノニアとは、「ともに分かち合う」という意味を持つ言葉です。教会の交わりとは、ただの交流ではなく、「ともに分かち合う」交わりなのです。
それでは、何を分かち合うのでしょうか。
(1)イエスのいのちを分かち合う
第一に、「イエス様のいのちを分かち合う」ということです。それが私たちの聖餐、パン裂きの意味です。
聖餐は、イエス様が私たちの罪のために、十字架にかかり死んでくださったことを覚えるためのものです。私たちが、イエス様の裂かれた体であるパンをいただく時、また流された血潮であるぶどう液をいただく時、私たちはイエス様のいのちそのものをいただいているのです。また、イエス様という一つの身体をともに分け合う時、それを頂いた私たちが一つになるということも表しています。
今日も、私たちは聖餐式を行おうとしています。イエス様が、私たちを一つとするために、またその私たちにいのちを与えるために、ご自身のいのちを差し出してくださったという事を、特別に覚え、心に刻む時としていきたいと思います。
(2)信仰を分かち合う
第二に、「信仰を分かち合う」ということです。
私たちの交わりは、ただ単に交流を深めるためのものではありません。もちろん、一緒に集まり、ただ楽しい時を持つことも大切です。なぜなら、それは互いを愛するということの一部だからです。でも、教会の交わり「コイノニア」という時、そこには基本的に御言葉があり、祈りがあります。私たちが、少しずつ、主に似た者として変えられていくために、ともに御言葉をいただき、それを消化していくということが不可欠だからです。また、そこには日常生活の分かち合いも含まれます。私たちの信仰生活は、日常生活と切り離すことが出来ないからです。
牧会ファミリーはそのための場所です。それぞれの牧会ファミリーが用いられ、豊かに祝福されるようにと祈ります。
(3)一切の物を分かち合う
第三に、「一切の物を分かち合う」ということです。使徒2:44-45にはこのようにあります。
信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
使徒の働き 2章44~45節
教会の交わりである「コイノニア」とは「ともに分かち合う」交わりだと申し上げました。しかし彼らは、その交わりを体現する者として、自発的に、財産や所有物までも共有にして、皆に分配していたというのです。これは、本当に驚くべきことではないでしょうか。イエス様の心を頂いた彼らは、喜んでそうしていたのです。それこそ、第二コリント9:7にあるように、「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに」喜んでささげたのです。そして、貧しい人や、必要のある所に分配していきました。
彼らが交わるその姿は、この世の交わりとは明らかな違いがありました。そこには、イエス様の愛が映し出されていたんです。それが、教会が持つ「交わりの力」なのです。
3. 地域への証し
それは、必然的に第3のポイントへとつながります。それは、「地域への証し」ということです。使徒の働き2:46-47をお読みします。
そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
使徒の働き 2章46~47節
地域の人たちは、彼らが毎日、心を一つにして集まり、家々で交わり、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美する姿を見ていたんです。そこには、明らかにこの世のものとは違う、美しい姿が映し出されていた。彼らは、クリスチャンたちの愛し合う姿を見て、赦し合う姿を見て、互いに分け合い、助け合う姿を見て、ああ、これこそがイエス・キリストの愛なのか。彼らの中心には、イエス様が生きていると思ったんです。だからこそ、主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
ヨハネ13:34-35で、イエス様は弟子たちにこのように話していました。
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。
ヨハネの福音書 13章34~35節
愛が結ぶ教会。
私たちが互いに愛し合い、その愛が広がっていく教会。
そのような教会でありたいと心から願います。
お祈りをいたします。