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2024年1月21日 よろこび ひろがる リバイバル①
2024年1月21日 よろこび ひろがる リバイバル①
ヨハネの福音書 3章6〜8節 池田恵賜 主任牧師
今日から数回にわたって「リバイバル」をテーマに聖書から見ていきましょう。
一般的に「リバイバル」という言葉は、昔流行った物の復刻版を出すときなんかに使うかなと思います。例えば、「映画のリバイバル上映」だとか、「あの名曲をリバイバル」というような使い方です。辞書でリバイバルと引くと「再生、復興、回復、復活」と出てきます。
教会で「リバイバル」というと、「信仰復興」のことです。リバイバルが起こると主に3つのことが起こると言われています。
1つは「信仰的に眠っていたクリスチャンが目覚める」ということです。次に「信仰から離れていた者たちが帰ってくる」ということです。そして「未信者の回心。信仰なんか必要ないと言っていた人たちが回心し、救われる」ということです。
1 リバイバルは自分の内側から始まる
リバイバルということを考えるときに、まず押さえておきたいのは「リバイバルは自分の内側から始まる」ということです。どんなに大きなリバイバルも個人から始まります。リバイバルは、「私」の信仰が回復し、再び燃え立つことを意味します。それは「神様と私の生きた関係が回復する」ということです。
「神様との生きた関係の回復」。救われた人は、神様との関係を回復されたわけですが、神様とあなたの関係は生きた関係になっているでしょうか。神様の存在が、今日を生きるあなたにとってどれほど意味のあるものとなっているでしょうか。日々、神様の存在を身近に感じ、神様からあなたへの語りかけを受け取ることができているでしょうか。神様は、人を「神と交わりをもつことができる存在」として造られました。ですから神様との関係を回復したクリスチャンは神様と語り、神様のみこころを聴くことができ、そのことによって神様との関係を深めることができるのです。
しかし、神様のことを思い出すのは日曜日の礼拝の時だけというのでは、あなたと神様との関係は深まりません。1週間7日間、午前も、午後も、神様のことを覚えて、神様に語りかけ、神様の声を聞き、神様と交わりをもつようにしましょう。まず、リバイバルは自分の内側の神様との関係から始まるということを覚えておきましょう。
2 リバイバルは広がっていく
次のポイントは「リバイバルは広がっていく」ということです。リバイバルは「私」の内側から始まりますが、それは個人で留まるものではありません。リバイバルの歴史を見ていくと、それは私の周りの人たちに伝搬し、広がっていくのです。リバイバルは聖霊によるみわざで、聖霊はあなたの内側で働くのと同時に、主にある兄弟姉妹との間においても働くからです。
ここで、実際に起きたリバイバルのことを話しておきましょう。昨年、アメリカのケンタッキー州にあるアズベリー大学でリバイバルが起きました。2023年2月8日、その日の礼拝は、大学のサッカー部のアシスタントコーチで、宣教団体で働くザック氏によるメッセージでした。学生たちは週3日、大学のチャペルでの礼拝出席を義務づけられていました。ザックは、ローマ12章から「生きて働く愛になる」というタイトルでメッセージをして、神の愛と人間の愛を対比させて話しました。メッセージの最後で招きの時を持ちましたが、生徒は誰ひとり前に出てきませんでした。「このメッセージは失敗だった」と思ったザックは、妻に「すぐに帰れると思う」とメールをしました。間もなく頌栄が歌われ、チャペルの時間が終了しました。多くの学生はチャペルをあとにしましたが、18,9名の学生たちが残り、いくつかの塊になって、チャペルの数か所に集まって祈り続けていたそうです。それが2週間後の2月22日まで途切れることなく続くアズベリーのリバイバルの始まりでした。
小さな祈りは讃美となり、やがてチャペル全体を満たし、その場にいた人たちは明らかにこの地上のものと違う感覚を感じたそうです。彼らは「そのときにチャペルにあった平安は言葉で言い表せないものだった」と話しています。やがて、チャペルでの異変に気付いた何人かの学生たちがチャペルに戻って来て、その光景を見て「リバイバルが起きている」と言い出し、それはすぐにキャンパス中に広まったそうです。その噂は町中に広まり、人々が大学のチャペルにやってきました。さらにSNSで拡散され、全米から人々が集まって来るようになりました。町の人口の倍以上の人たちが訪れたと言います。
アズベリーのリバイバルはSNSで同時中継された世界で初めてのリバイバルではないかと思います。世界中の人たちがその光景を見ることができました。私もそれをリアルタイムで見ていて、このリバイバルは、とても静かだけど、とても力強い霊の流れがあるなという印象を受けました。まるで神の愛が軍隊のようにして押し寄せ、次々と勝利しているかのような圧倒的な臨在の力を感じました。
アズベリーのリバイバルを取材したある新聞には、このように記されています。「罪の告白の招きがされたとき、少なくとも100人がひざまずき、講壇の下でこうべを垂れた。肩の上に手が置かれ、一人ひとりが互いに結び合わされ、まさにキリストのからだが表されている。依存症、高慢、恐れ、怒り、敵意を告白する一つ一つの叫びに続いて、人生を変革する宣言が響く。
『キリストはあなたを赦してくださる』」。
個人、そして小さな集まりから始まったリバイバルの波は、人々の人生に変革を与え、ときにそれは地域を巻き込み、やがて国をも変える大きなうねりとなります。
アメリカでは、これまでに4回「大覚醒」と呼ばれる大リバイバルが起きています。1730年の第一次大覚醒の様子を書いた手紙にはこうあります。「巷では、目に見えて風紀が改まっていく。浮かれ騒ぎや不謹慎な会話がなくなり、酒場が空になり、慈善が増える」と。そして、1800年代、1880年代、1960年代にも大覚醒と呼ばれるリバイバルが起き、それらは奴隷解放運動や人種差別撤廃運動にも影響を与えたとされます。そのようなリバイバルの結果、貧困者の救済が進み、各地でキリスト教主義の学校や病院が建設され、数多くの慈善団体や宣教団体が発足しました。その流れは、現在のアメリカという国の在り方や、世界宣教にも大きな影響を与えました。
しかし、リバイバルがどんなに大きくなろうとも、その始まりは個人なのです。そして、キリストの十字架による赦しと癒やしの宣言がなされるとき、それが個人の内面であろうと、グループであろうと、地域や国であろうと神の国の領域が広がり、神の愛による支配が始まるのです。それがリバイバルということです。
また「リバイバルがどこまで広がるか」ということは、人間の側の努力ではなく聖霊の働きによるのです。ヨハネ3:6-8にはこのようにあります。
“肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」”
「風は思いのままに吹きます」。これは聖霊なる神様が主導権を持っておられることを表しています。そして、聖霊によって新しく生まれた者は聖霊の導きに従うということを教えています。
大切なのは、リバイバルがどこまで広がるかということではなくて、私の心に神の国の領域が広がるかどうかということなのです。今まで、神に明け渡せずに自分で握りしめていた分野、フタをしてきた過去の罪や傷を神に明け渡して、神の愛が働く領域としていただくのです。
それが周りにいる主にある兄弟姉妹と共鳴して、教会全体に広がり、やがて地域に、国に神の愛が支配する領域が広がっていくのです。リバイバルというのは、なにか突然、神秘的なことが起きるというのではなく、私たちの内にある神の愛の関係が広がっていくということなのです。教会の中にある愛の関係を人々が見て、ここには世の中にはない何か違うものが流れている、私もそれが欲しい、という人たちが加えられていくのです。
3 リバイバルは悔い改めを伴う
リバイバルのもう一つ大切なポイントは「悔い改めを伴う」ということです。実は、私もアメリカの神学校に通っていた時代にリバイバルを体験したことがあります。
その日は、午前の礼拝の中で証しがなされていました。2本のマイクがチャペルの講壇下の両端にセッティングされ、誰でも自由に証しができる日だったと思います。讃美がささげられ、証し者が証しをしていました。何人目かは忘れましたが、一人の女子学生が進み出て、証しをし始めました。彼女はかつて自分が中絶手術を受けたことを涙ながらに告白しました。彼女の証しの途中から、チャペルに流れている霊の雰囲気が変わったのを感じました。聖霊がその場を支配し、働かれたのです。おそらく、その場にいた全員がそれを感じたと思います。
涙を流しながら証しする彼女の両脇に肩を支えるようにして立つ友人たち。証しが終わっても誰ひとり立ち去らず、その場で祈りと讃美が沸き上がり、次々と罪の告白をする人たちが起されました。チャペル終了時間になってもそれは終わらず、次の授業の開始時間になってもたくさんの学生が証しをするために並んでいました。ついに、学長がその日のすべての授業をキャンセルし、礼拝を継続することを告げました。
このときのリバイバルは1日で終わりましたが、その場に居合わせた私は今も、その時そこにあった霊の流れと心に与えられた平安を覚えていて、思い出すたびに「私もあの場にいたのだ」と、心が満たされます。きっと、あの場にいた一人ひとりの内に聖霊はいまも力強く働いていることと思います。このときのリバイバルは、一人の女学生の悔い改めがきっかけでしたが、リバイバルには必ず悔い改めが伴います。聖霊が働かれると、神の思いと違う私たちの罪の部分が示されるからです。そして罪が告白されると堰を切ったように、聖霊が働き出すのです。
4 リバイバルは目覚めのとき
初めにリバイバルが起きると「信仰的に眠っていたクリスチャンが目覚める」と言いましたが、みなさんは自分のことを信仰的に眠っているクリスチャンだと思いますか?それとも、目覚めているクリスチャンでしょうか?寝ているクリスチャンはなぜ寝ているのでしょう。いつから寝ているのでしょうか?
私たちは目覚めるために、このみことばに目を留める必要があります。ヨハネ10:10bです。
“わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。”
イエス様が来られたのは、単に羊がいのちを得るためではないのです。いのちを得た羊が、そのいのちを豊かに得るためです。みなさんはキリストにあって豊かないのちを体験しているでしょうか。日々の生活が喜びと感謝に満ち溢れ、それがあまりにも豊かなので、自分の中だけで収めておくことができないで、周りにも分け与え、流していくほど豊かなクリスチャン人生を送っているでしょうか。
先週、礼拝に来られた新来者の方が「礼拝中に自分を笑顔で見つめていた人がいるけれど誰でしょうか」と聞かれたそうです。聞かれた人は「あぁ、それはおそらく登喜子先生です」と答えたそうです。確かに登喜子先生の笑顔を見に来るという人もいるので納得しました。登喜子先生のことを考えると、豊かないのちを得るという意味が少し分かるかもしれません。どうでしょう?あなたも溢れるほど豊かないのちを生きていますか?
ここで「はい」と言えない人は、寝ているクリスチャンかも知れません。
このみことばは明らかに、救われて終わりではない、救いの先にもっと豊かな祝福の世界がある、ということを示しています。それなのに、「自分はもう救われた」と言って、その後、神様との関係を深めずに寝て過ごしてしまうのはもったいないことです。
それ以上に、神様は眠ったまま神のみこころを行なわない者に次のように忠告を与えています。
黙示録3:1-2を読んでみましょう。
“また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。”黙示録3:1-2
「実は死んでいる」とは、なんとも厳しい言葉だと思いますが、この忠告が与えられるということは、やり直すことができるということです。回復できる状態だからこそ、神様は厳しい忠告をなさっているのです。
そのように、眠ってしまっているクリスチャンにとって讃美歌「驚くばかりの」を作詞したジョン・ニュートンの証しはとても大切なことを教えてくれます。
ジョン・ニュートンの母親は神を信じる敬虔な婦人でしたが、彼が7才になる前に亡くなってしまいます。父親は再婚し、彼は家を離れて学校に入りますが、非行に走り、学校を中退してしまいます。そしてあこがれていた父の船に乗るようになって船乗りとしての生活をスタートさせました。彼が11才の時です。お金が手に入ると、彼は放蕩にふけるようになり、次々と船を乗り換えて、ついに奴隷売買の仕事に手を染めます。当時、奴隷貿易は貴族階級の特権でそこに取り入ることによって多くの利益を手にすることができました。彼は22才のとき、奴隷船の航海中に激しい嵐に遭い死の危機に直面します。その時に子ども時代を思い出し、神に祈りをささげます。ニュートンの回心として知られている出来事です。
その時は助かったのですが、その後も彼は変わらない生活を送り、奴隷船の船長にまでなります。30才のときに脳出血で倒れるまで船長の仕事を続けます。その後、聖書を学び38才で牧師になるのです。彼が奴隷廃止運動に関わり始めたのは、50代になってからです。ニュートンが「驚くばかりの」を作詞した時点で、奴隷貿易の罪をどれほど認識していたかは分かりませんが、この讃美は多くの人の共感を得て現在でも用いられています。
彼は晩年になり、教会の講壇に立ってこう言いました。「私の記憶はほとんど薄れましたが、二つのことだけははっきりと覚えています。その一つは、私が途方もなく大きな罪人であったこと。もう一つは、キリストは途方もなく大きな救い主であるということです」と。
ニュートンは82才で召されましたが、彼の墓石にはこのように刻まれています。「ジョン・ニュートン,牧師,かつては、不信仰な放蕩者であり、アフリカの奴隷商人であったが、我らの主なる救い主イエス・キリストの豊かな恵みによって、保たれ、復活させられ、赦されて、信仰を宣べ伝える者として任命され、死に至るまで働いた。」
ジョン・ニュートンは、回心して一気に変えられたわけではなく、何度も何度も罪を示され、その度に悔い改めながら、徐々にその心をキリストに明け渡し、変えられていったのです。
私たちがキリストの豊かないのちを体験せずに眠ったようなクリスチャン生活を送っているのは、自分たちがどのようなところから救われたかを自覚できていないからかもしれません。
リバイバルは信仰的に眠ったクリスチャンの目を覚まさせます。聖霊によって自分がどのようなところから救われた者なのか、そしてキリストの十字架と愛がどれほど大きなものなのかを理解することができるように、神様に求めていきましょう。