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2024年4月21日 愛のうちに建てられる教会

2024年4月21日 愛のうちに建てられる教会
エペソ人への手紙 4章16節 佐藤賢二 牧師

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2024年4月21日 愛のうちに建てられる教会
エペソ人への手紙 4章16節 佐藤賢二 牧師

先ほどアナウンスがあったように、今日から「牧会ファミリー体験月間」が始まります。
「牧会ファミリー」とは、教会の交わりの中心となる、小グループの集まりのことです。私たちの信仰生活には、互いの存在を喜び、互いに祈り、互いに愛し合うことが出来る、小グループでの交わりが必要です。メッセージを聞くだけならオンラインでも出来ます。また個人的に聖書を読んだり、学んだりすることも出来ます。でも神様は、弟子たちに互いに愛し合いなさいと言われたのです。私たちの信仰は、単なる知識ではありません。私たちがキリスト者として継続的に成長していくためには、どうしても少人数での交わりが必要なのです。

ペンテコステの日に救われた3000人の人たちは、すぐにその様な交わりを形成しました。

使徒2:42、そして46-47をお読みします。

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
使徒の働き 2章42、46~47節

救われた3000人は、すぐに家々での交わりに加えられ、喜びと真心をもって食事をし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていました。そして、主は毎日、救われる人々を加えて、一つにしてくださったとあるのです。これこそが、私たちの目指す教会の原型です。

私は、かつて、こんなことを聞いたことがあります。「仏教には仏壇がある。神道には神棚がある。しかし、キリスト教には食卓がある。」私たちは、日常生活の中で、ともに食事をするという行為の中にも神様の愛を体験することが出来るのです。なぜなら、そこにイエス様ご自身もいてくださるからです。そのような、小グループでの交わりが、私たちの歩みには不可欠です。

それぞれの牧会ファミリーは、この初代教会の交わりの様に、「ここに来ると心の深い所が喜ぶ!」という場所になることを目指しています。今はまだ、牧会ファミリーに加わっていないという方も、ぜひこの機会に参加してみていただきたいと思います。

それでは、今日の御言葉に耳を傾けていきましょう。エペソ4:16をお読みいたします。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
エペソ人への手紙 4章16節

今日はこの箇所から、3つのポイントでお話をしたいと思います。

1. からだ全体の成長

まず、第1のポイントは、「からだ全体の成長」ということについてです。パウロは、この手紙の中で、「教会はキリストのからだ」だと表現しています。教会とは、キリストをかしらとする、キリストのからだです。そして、私たち一人ひとりは、そのキリストのからだを構成する、各部分だと言われています。

ですから、教会とは建物のことではなく、人の集まりことを言うのです。
でも、ただの人の集まりではなく、神様ご自身が選ばれた人々の集まりなのです。
今日、ここでともに礼拝を捧げている皆さんは、きっと自分の意志でここに来られているのだと思います。自分自身で神様を信じることを、あるいは教会に来ることを選んだのだと思います。でも、実はその背後には神様の選びがあって、神様があなたを、命懸けで愛し、目的をもって導いておられるのだということなのです。

第1コリント6:20にはこうあります。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
コリント人への手紙 第一 6章20節

神様は、イエス・キリストの十字架の血潮というとてつもなく大きな代価を払って、私たちを買い取ってくださいました。だから、そのからだで神の栄光を現しなさいと言われています。私たちは、ただその事実を受け取り、感謝して、自分自身を差し出していくのです。

先ほどのエペソ4:16では、「キリストによって、からだ全体は愛のうちに建てられる」とありました。教会の中心は、教会のかしらである、キリストです。教会は、主キリストの教会です。教会というのは、人間の思いつきや、考えで出来た物ではありません。もちろん、教会をどのように運営していくのかということについては、私たちが独自に判断していかなければなりません。しかし、その原点として、教会は、神様の計画の中で、神様の御心によって、始められ、存在しているのです。

そしてまた、「からだ全体が成長して」と書かれていました。ということは、私たちはまだ未熟だということです。私たち人間は、不完全なので、たくさんの過ちを犯します。でもどんな時でも、教会のかしらは主であるということを心に刻んで、成熟を目指して、へりくだって歩んでいきたいと思います。

私たちは、個人的に、また色々な働きを通して、成長していきます。しかしその全てが、からだ全体の成長のためにある、ということを心に留めたいと思います。

2. あらゆる節々の役割

第2のポイントは、「あらゆる節々の役割」ということについてです。もう一度、エペソ4:16をお読みいたします。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
エペソ人への手紙 4章16節

ここに、「からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ」とあります。この「あらゆる節々」というのは、何のことでしょうか。これはからだの中では、「関節」と言い換えても良いと思います。「関節」もからだの中でとても重要な役割を果たしています。

私は、3年ほど前に、関節炎の一種である「五十肩」になりまして、とにかく生活に支障をきたすほどの痛みがありました。まず、服を着ようとする時、脱ごうとする時、激痛が走ります。可動域が極端に狭くなって、スムーズに手を上に上げることも出来ません。整骨院に行った時には、なんでこんなになるまで放っておいたんですかと言われました。その後、少しずつ良くなってはいきましたが、1年以上はその痛みは完全には治らなかったように思います。五十肩自体の原因というのはよく分かっていないらしいのですが、私の場合は、加齢と運動不足で周りの筋肉が弱って、関節が固まってしまったのだと思います。日頃から、適度な運動をして、関節が固まってしまわないようにしておくべきでした。

少し余談になってしましましたが、「関節」には主に以下の3つの役割があるように思います。

(1)からだ全体をつなぎ合わせる役割

1つ目は、「からだ全体をつなぎ合わせる役割」です。
先ほどの御言葉では、「からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされる」とありました。それぞれの部分は、それぞれの関節を支えとして、組み合わされ、つなぎ合わされます。ですから、からだ全体が1つとなり、正しく機能するために関節は不可欠なものです。

「関節」には、「靭帯」という強靭な繊維状の結合組織があって、2つの骨を繋いでいます。この支えがあるからこそ、からだ全体は成り立っているのです。キリストのからだには、時に意見の違いや、考え方の違いが生じることもあるでしょう。でも、そういう時に、しっかりと両方と繋がりながら、キリストの愛によって繋ぎ止めることができる、結び目のような役割をする人がとても大切になってくるのです。

(2)それぞれの部分が、力を発揮出来るようにする役割

2つ目は、「それぞれの部分が、力を発揮出来るようにする役割」です。御言葉には、「それぞれの部分がその分に応じて働くことにより」とありました。

それぞれの部分は、違った賜物と役割を持っていて、それをふさわしく発揮させることが期待されています。そして、その力は、他の部分と繋がり、協力することで発揮するように造られているのです。

(3)それぞれの部分を滑らかに連動させる役割

3つ目は、「それぞれの部分を滑らかに連動させる役割」です。
いくら、それぞれの部分をしっかりとつなぐことができたとしても、それらが滑らかに連動して動くことが出来なければ、関節の役割を果たしているとは言えません。

脳からの指令を受けて、それぞれの部分が連動して何かの働きをしようとしても、どこか一つの関節が固まって動かなくなっていたら、それを実現することは出来ません。

実際の関節には、関節砲という組織で覆われていて、その中は滑液という潤滑油の働きをする液体が分泌されていて、滑らかな動きをすることが出来るようになっています。また、関節部分の骨は軟骨になっていて、衝撃を吸収できるような構造になっています。教会の中には、見えないところ、目立たないところで、この軟骨や潤滑油のような働きをしている人たちがたくさんいます。皆さんに心から感謝いたします。

「関節」は、一人ひとりが生かされ、キリストのからだ全体を建て上げるために不可欠なものです。そしてそれは、人と人とが繋がる場所のことです。

「牧会ファミリー」は、まさにこの関節の役割を果たしているのではないかと思うのです。そこは、一人ひとりがつなぎ合わされ、賜物が生かされ、滑らかに連携していくための大切な場所です。この関節が強められることは、これから多くの人が教会に加えられる時になくてはならないのです。

3. 愛によって建てられる

第3のポイントは、「愛によって建てられる」という事です。キリストのからだ全体が成長して建てあげられていくこと、そしてあらゆる節々が強められ、それぞれの部分が適切に力を発揮できるようになるために、最も必要なものは何でしょうか?

それは、「愛」です。教会は言うまでもなく、愛の共同体です。教会は、キリストの愛に満ち、互いの愛に満ちた、「愛によって建てられる」場であるべきです。ですから、最後にこの「愛」ということについて考えてみたいと思います。

最近目にした記事で、とても心に響いたことがありました。今年2月に召天された、細川勝利先生が10年前にキリスト新聞に掲載したという記事です。

少し長いですが、そのまま引用して読ませていただきたいと思います。

教会は言うまでもなく。愛の共同体である。ところが、我々日本人は一般に甘えを持っている。社会全体に甘えがあり、一つひとつの社会、例えば会社にも、学校の教師と生徒の関係にも、また友人関係、同僚の関係、そして夫婦の間にも甘えがある。甘えが許されないような関係は、冷たいとか愛がないと思うのである。

 これは、教会の中にもそのまま適用できる。甘えが許されないと「この教会は愛がない」「牧師は愛がない」「誰々さんは愛がない」ということになる。教会にとって「愛がない」とは一大事である。教会であるかどうかということであるからこれほど強力な言葉はないのである。

 「愛がない」と言われて、「愛があります」などと言える人はいないから、「甘え」を認めるようになる。そうすると教会は「愛」の名の故に最も「甘えの共同体」になってしまうのである。牧師は兄姉に甘え、兄姉は牧師に甘え、兄姉同士も甘えという構図になる。そして「わたしたちの教会は愛に満たされている」となる。

 しかし、これは甘えと愛とを混同しているところから来ることである。甘えと愛は似て非なるものである。コリント人への手紙第一に、「愛の讃歌」と言われる次のような節がある。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない」(13章4節)。この「愛」のところに「甘え」を入れると、「甘えは忍耐強い。甘えは情け深い。ねたまない。甘えは自慢せず、高ぶらない」となる。これでは意味が通らない。愛と甘えは似ているようで、まったく対極のことだということがわかる。

 教会はどこまでも愛の共同体である。愛の共同体となっていくためにはこの愛と甘えを混同しないことである。混同すると先述のように教会は他の社会以上に「甘えの共同体」になり、他の社会でも考えられないような異常な社会になり、また、異常な人間関係の群になる。
(【ジセダイの牧師と信徒への手紙】 最終章 次世代の教会に贈る この世にはない「愛」による共同体へ 細川勝利 2014年7月5日より引用)

これを読みながら、私はグサグサと心を刺されたような気分になりました。私はあまりにも多くの状況で、「愛」と「甘え」を混同していたと思うのです。

先ほど、キリストのからだを支えるために、見えないところで「関節」の役割をしている人がいると言いました。そのような働きはとても大切です。でも、私たちはそのような人たちを「愛」しているでしょうか。すっかり「甘え」て、当たり前だと思ってしまってはいないでしょうか。

私自身が「愛」の名のもとで、甘えてきたこと。また、自分が「愛ある者」と思われたいが故に、「甘え」を許してきてしまったこと。そういったことをあまりにもたくさん示され圧倒されました。

でも、この記事の最後の文章に、希望を見出したのです。続きを読みます。

 しかし、キリスト者や教会が甘えではない愛の共同体となるとき、人々は日本人や日本社会にはない「愛の共同体」に驚き、目を見張るに違いない。つまり、愛と甘えの混同の危機は、この社会に生きる人たちへの宣教の好機でもある。

皆さん。ここに、私たちの教会全体が、成長し続け、愛のうちに建てられ続けていく必要性がはっきりと示されています。この愛と甘えの混同の危機にある日本という社会全体にとっては、「本当の愛の共同体」を現していくことが、宣教のチャンスなのです。

教会は、本当の愛の共同体です。牧会ファミリーも、本当の愛の共同体です。
愛は忍耐強く、愛は情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶりません。

ご一緒に、そのような、本当の愛の教会を、建てあげていこうではありませんか。
お祈りをいたします。

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