お知らせ
2024年12月1日 愛を考える①〜愛の源〜
2024年12月1日 アドベントⅠ礼拝 愛を考える①〜愛の源〜
ヨハネの手紙 第一 4章7節 池田恵賜 主任牧師
メッセージを読む
今日からアドベントです。
アドベントとはラテン語で「到来」という意味です。救い主キリストが来られるという約束と期待をもって「待降節」と訳されています。クリスマスを待ち望みつつ、この期間を過ごしましょう。
今日は第3礼拝で韓国から来られたヤダインターナショナルクリスチャンスクールのみなさんが特別讃美を披露してくださいます。ヤダインターナショナルクリスチャンスクールは、今から6年前の2018年にのあインターナショナルスクールを見学に来られた牧師先生ご夫妻がはじめられたチャーチスクールです。
のあインターナショナルが、学校に行けなくなった一人の子の祈りから始まったという証しを感動しながら聞いておられたのを思い出します。帰国された先生ご夫妻は早速ヤダインターナショナルクリスチャンスクールを立ち上げ、翌2019年にはのあインターナショナルスクールと提携を結び、調印式も韓国で行いました。のあISの姉妹校になります。
同世代の若者が、国籍を超えて交流し、お互いの文化を知り、友情を育むことはとても素晴らしいことです。このような取り組みが世界の平和に繋がっていくのだと思います。これからも交流が深められて、良い関係が築かれていくことを願っています。
さて、今日から「愛を考える」という新しいメッセージシリーズを始めます。
「愛」というのは大きなテーマでありつつ、ありふれたテーマとも言えます。この世界には愛が溢れています。テレビドラマや映画も愛をテーマにしたものが多く作られています。音楽の世界でも流行りの歌謡曲には愛や恋をテーマにしたものが沢山あります。1000年近く前に作られた百人一首も100首中43首は恋や愛についての歌だそうです。古今東西「愛」というテーマは多くの人たちが考え、取り組んできたのです。
聖書の語る「愛」
では、聖書は愛についてどう語っているか見ていきましょう。
まず、今日の聖書箇所Ⅰヨハネ4:7を読みましょう。
“愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。”Ⅰヨハネ4:7
ここに大切な真理が書かれています。
それは「愛は神から出ている」ということです。つまり、聖書の教える「愛」とは神様から始まっているのです。聖書は「神が愛の源だ」と教えているのです。
もし今日、本当の愛を知りたいと思っている方や、愛で傷ついたという方、愛が分からないという方がいらっしゃったら是非、この聖書の神様のもとに来て、この方から学んでください。このお方から私たちは本当の愛を知ることができるのです。
さて、本当の神の愛を示すために神様はイエス・キリストをこの地上に遣わしました。イエス様はあるとき、愛についてこのように語られました。ヨハネ15:13です。
“人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。”ヨハネ15:13
人の持てる最も大きな愛は、友のためにいのちを捨てることだというのです。
愛するとは与えることです。
例えば、お父さんやお母さんが働いて得たお給料を子どものために使います。それは子どもを愛しているからです。
もし臓器移植を必要としている人がいて、自分が提供できる立場にいた場合、その相手が自分の子どもなら親は迷わず提供するのではないでしょうか。しかし、その相手が身内ではない人だったらどうでしょう。あるいは、見ず知らずの人だったらどうでしょう。
あなたはどこまで、誰にまでだったら自分を犠牲にしてでも自分の持っているものを与えるほどの愛を示すことができるでしょうか。
イエス様は、このヨハネ15:13を他ではないご自身のこととして語られたのです。弟子のヨハネは、そのことばをしっかりと受け止めました。そして、Ⅰヨハネ3:16にこのように書き記しました。
“キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。”Ⅰヨハネ3:16
「人がその友のためにいのちを捨てるほどの大きな愛はない」という愛は、まさにイエス・キリストによって示されたことをヨハネは証ししています。
さらにローマ5:8にはこのようにあります。
“しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。”
私たちがまだ罪人であったときに、イエス様は私たちのために死んでくださったのです。神に背を向け、神を無視し、神に反逆していた状態の人間に対して神は愛を示してくださったのです。
このことを考えるときに、神様はどれほどの愛をもって私を愛してくださっているのかと思います。誰が、自分を無視するような人のために、また自分を裏切るような人のために、自分に反抗してくる人のために、いのちを投げ出すほどの愛を示せるでしょうか。そんな人のためにいのちどころか、自分の持っている物の一つでも与えたくないと思うのが普通でしょう。
しかし、神様は私たちがまだ罪人であったときにも関わらず、私たちのためにいのちまで献げてくださったのです。ここに神の愛が明らかにされました。神の愛は相手が誰であっても変わりません。神に背を向け、無視するような人に対しても、反逆し、暴言や暴力を振るうような人に対しても、自らのいのちを与えるほどに愛してくださっているのです。そして神の愛は見返りを求めない無償の愛です。愛の対象がその愛を受け止めなくてもその愛は変わらないのです。
私たち人間はそこまでの愛を持ち合わせていません。無償の愛を表せたとしてもせいぜい家族や親友に対してまででしょう。それも相手が自分を裏切らないという前提があってのことです。私たち人間の持っている愛は相手や状況によってすぐに変わってしまいます。神の持っている「無償の愛」と、人間の持っている「条件付きの愛」には大きな違いがあるのです。
私たちの立つ岐路
さて、この神の無償の愛を知った私たちは岐路に立つことになります。
この先の人生を「神の愛を受けて歩む」のか、それとも「神の愛を無視して生きていくか」の道が分かれています。
神の愛の大きさに気づいた人は心に葛藤を覚えることでしょう。
ペテロもそんな一人でした。彼はイエス様を通して神の愛に触れたとき、きっと自分の持っている愛に当てはめてみたのでしょう。そしてこんな質問をイエス様に投げかけます。「イエス様、もし人が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか」と。「さすがに7回も赦せば充分だろう」とペテロは考えたのです。しかし、イエス様の答えは「7を70倍するまで赦しなさい」ということでした。つまり「何度でも赦しなさい」ということです。
私たちは神の愛の大きさ、偉大さを知れば知るほど、それと比べて自分の持っている愛がいかに小さく自己中心的であるかを知ることになるのです。ですから神の無償の愛を知ったとき、自分はそうなれないと、神の愛から離れていく人もいます。しかし、そうではなく神の愛を受ける道を選ぶ人たちもいます。そして神の愛を受ける道を歩む人たちはその人生が変えられるのです。
雷の子ヨハネ
十二弟子の1人ヨハネがそうでした。
ヨハネはマルコの福音書でイエス様によって「雷の子」というあだ名を付けられていたことを明らかにされています。マルコ3:17です。
“ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。”マルコ3:17
マルコは十二弟子ではありませんが、ペテロの通訳だったと言われています。彼は、ペテロから聞いた話をもとに福音書を書き記しました。ボアネルゲ「雷の子」というあだ名は他の箇所には記されていないので、あまり使われなかったのかもしれません。しかしペテロは覚えていたのでしょう。
このあだ名はヤコブ、ヨハネ兄弟の性格を表していました。ルカの福音書には「イエス様のことを受け入れなかったサマリヤ人」に対するヤコブとヨハネのこのような発言が書き記されています。ルカ9:54です。
“弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」”ルカ9:54
このような発言をした2人はイエス様に叱られていますが、この箇所から二人があだ名どおりの性格であったことが分かります。
さて、4つの福音書のうちマルコとルカは、ヨハネの切れやすい性格に言及していますが、ヨハネの福音書にはそのような記事は見当たりません。むしろヨハネは自分のことを「イエスが愛された弟子」と表現しています。
そして、ヨハネ15:13で「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません」というイエス様のことばに触れ、Ⅰヨハネ3:16で、イエス様ご自身が私たちのためにいのちを投げ出したことによってその愛を明らかにされたと、ヨハネは語ったのです。
ヨハネの中にはいつもイエス様を通して明らかにされた神の愛がありました。そして、その神の愛が「雷の子」を「イエスが愛された弟子」へと変えたのでしょう。きっとヨハネは自分ほどイエス様に愛された弟子はいないと思っていたことでしょう。
しかし、同時に他の弟子たちもそれぞれ、自分ほどイエス様に愛された弟子はいないと思っていたと思います。だからこそ彼らは殉教の死さえも受け入れることができたのです。
もし私たちの中に愛を感じるセンサーがあるとしたら、それがマックスに達してもなお神の愛は注がれているのだと思います。だから一人ひとりが「自分が最も神に愛されている」と感じてもなんの矛盾もないのです。
私たちも、イエス様に一番愛されているのは私だと実感して生きているでしょうか。
純度100%の神の愛
聖書の示す愛は変わることのない本質的な愛です。それは神ご自身が持っている愛です。
この愛を私は「神様サイズの夢を語ろう」の本の中で「純度100%の愛」と表現しました。この世の中は愛を薄めて安売りしているような状態です。ドラマでも、映画でも、歌謡曲でも、本物でない愛を強調しているものが多いです。サタンが本物の愛に目を向けさせないように偽物の、一時的な、変質していく愛を提供しているようです。そして、そのような偽物の愛に振り回され、傷ついている人たちがいます。
しかし、この神の「純度100%の愛」は人を救い、人を変えます。ヨハネはこの神の愛に触れ、この道を歩んだときに愛の人へと変えられました。
そして、私たちも変えられるのです。そもそも私たちは神の愛を一身に受ける「愛の対象」として造られたのです。あなたがいま存在しているのは神があなたを愛しておられるからです。あなたは愛から生まれた存在なのです。あなたは神にとことん愛されている。あなたの存在を神は喜んでおられるのです。そこからあなたの人生は始まっているのです。
あなたが自分にはそれほどの価値がないと思ったとしても、少なくとも神の目には、神がいのちを捨てても構わないと思うほどの価値が、あなたにはあるのです。
私なんて神に相応しくないと思わないでください。もしそう思うとしたら、あなたにまとわりついている罪がそう思わせているのです。しかし、その罪はすでにイエス様が十字架で取り除いてくださいました。
イエス様が十字架で明らかにしてくださった「罪の赦し」と「神の愛」を受け取ってください。そこからあなたの新しい人生が始まります。