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2024年12月15日 愛を考える③〜反映する愛〜

2024年12月15日 アドベントⅢ礼拝「愛を考える③〜反映する愛〜」
コリント人への手紙 第一 16章14節 池田恵賜 主任牧師

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ここまで、ご一緒に聖書に基づいた愛について考えてきています。

1週目は「愛の源」について見ました。

「愛の起源はどこだろう」という問いに、聖書ははっきりと「愛は神から出ています」と答えています。そして、最も大きな愛とは「その友のためにいのちを捨てること」だとイエス様は語り、ご自分でその愛を実践されました。イエス様は私たちの罪のために、自ら十字架にかかり死なれたことによって、神の愛を明らかにされたのです。

2週目は「自分を愛する」ということについて見ました。

私たちは、自分を見る「自分の目」、「人の目」、そして「神の目」を持っています。その中で決して揺らぐことのない「神の目」を土台とすべきこと、その「神の目」は、私たちの能力や状況によらず、私たちの存在そのものを、変わることのない愛で愛していること、私たちの存在は神の目で見るとき「高価で尊いもの」であることを見ました。

しかし、私たちには「まとわりつく罪」があって、そのままでは神の愛を受け取ることができません。この罪を解決し、聖めることができるのは、イエス様だけです。私たちは「まとわりつく罪」をイエス様に告白し、悔い改める必要があることを見ました。

さて、今日は「反映する愛」ということを考えていきましょう。

「反映する愛」とは、神の愛を受けた私たちが、その愛を鏡のように反射させていくことです。

罪を悔い改めた私たちは、自分の愛で行動するのではなく、神の愛を反映させて生きることができるようになるのです。しかし、多くの人はいまだ自分の愛で生きています。

今日は「神の愛を反映させて生きる」ということをテーマに見ていきましょう。

まず、今日のみことばに目を留めましょう。Ⅰコリント16:14です。

一切のことを、愛をもって行いなさい。”Ⅰコリント16:14

「一切のことを、愛をもって行いなさい」とは、私たちの動機の部分に光を当てています。

「すべてのことを、愛を動機にして行いなさい」ということです。この愛はもちろん神の愛です。自分の愛では偏ってしまうのは明らかです。

自分の普段の言動が、神の愛から出ているのかどうかを考えることは大切です。

私は多くの方と話す機会がありますが、できる限り自分がクリスチャンであり、牧師であることを意識して話すようにしています。自分がこれから語ろうとしていることは、牧師としてふさわしいだろうか、神の愛が伝わるだろうかと考えるのです。もちろん、いつもそのように考えて行動できているわけではありません。疲れているとき、いくつもやることが重なったときなど、うまくいかないで失敗するときも多くあります。でも、なるべくできる範囲でそのように行動するように心がけています。

皆さんも気づいたときで構いません。何かしようとするとき、何かを話そうとするとき、「これは神の愛を反映しているかな」と考えてみてください。1回できたら、また次、とそれをなるべく習慣化していきましょう。そうすれば、その習慣があなたを徐々に変えていきます。

そして、大切なのは動機の部分だけではありません。コロサイ3:14にはこう書かれています。

そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です”

「すべての上に愛を着けなさい」。初めの動機の部分だけでなく、最後の完成の部分にも愛が必要です。私たちの言動は神の愛から始まって、神の愛で完成するのです。

さらに、新改訳聖書第3版のⅡコリント5:14aには、このように書かれています。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。”

Ⅱコリント5:14a【新改訳改訂第3版】

ここでは「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」と書いてあります。これを料理にたとえるなら「落とし蓋」をするようなものです。落とし蓋をする理由の1つは「味を均一に染み込ませるためである」と聞いたことがあります。四方八方から、キリストの愛が私たちを取り囲んで染み込んでくるのです。そうなると、キリストの愛は、私たちの言動だけでなく、考え方や物事の捉え方にまで影響を与えるようになります。

Ⅱコリント5:14aを第3版で開いたのは、この「取り囲む」という言葉が、新改訳聖書2017の訳では別の言葉に置き換えられているからです。2017の訳も読んでみましょう。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。”

Ⅱコリント5:14a【新改訳2017】

「キリストの愛が私たちを捕らえている」となっています。

私たちは、キリストの愛に「捕らえられている」のです。ここで使われている「捕える」とは「しっかり持つ」という意味の言葉です。キリストの愛が私たちの腕を「しっかりつかんで離さない」イメージです。

自分で好き勝手に歩きまわりたいと思っている人にはうっとうしく感じるかもしれません。しかし、自分の力では人を愛せない、神の愛を行えないと思っている人にはなんとも頼もしい言葉です。私たちは、義務感や一時的な高揚感とか、そういったものでは神の愛を行い続けることはできません。やはり、神の愛にしっかりと「捕らえられる」必要があるのです。

さらに、この「捕らえている」は、別訳で「駆り立てている」とあります。

キリストの愛が私たちを「駆り立てている」のです。私たちを取り囲み、私たちを捕らえたキリストの愛は、私たちを駆り立てるのです。それは私たちがキリストの愛を行うためです。

では、そのようなキリストの愛が私たちにどのような影響を与えるのでしょうか。

愛の形

このキリストの愛がどのように表れるかは、人それぞれ違いがあります。

私たちの教会を例にとっていうなら、障がいがある方や、高齢の方や子どもたちなど、弱い立場にある方々に仕えることによって愛を表す人や、そのような働きを祈って支えることによって愛を表す人、経済的に支えることで愛を表す人、事務的な責任をもつことによって愛を表す人など様々です。また海外からきて神の愛を伝えてくれている宣教師たちもいます。

そして、そのような働きが、コロサイ3:14に「愛は結びの帯として完全です」とあったように、愛によって結び合わされて1つとなるのです。それが教会です。さらに昨日行われたクリスマスマーケットのように、教会同士も神の愛によって1つになります。それぞれ神の愛に捕らえられた人たちが神の愛を反映し、1つに結び合わされて、1人では表せない神の大きな愛を輝かせていくのです。

神の愛はあなたをどこに、どのように駆り立てているでしょうか。

生き方を変える神の愛

この神の愛は、私たちの生き方を変えます。神の愛に捕らえられた人は、「生きる目的」が変わるのです。Ⅱコリント5:14-15を読んでみましょう。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです”

キリストの十字架に表された神の愛に捕らえられた人は、自分のためではなく、キリストのために生きるようになるというのです。

神の愛はイエス様の十字架で最も明らかに表されました。その意味を知り、どれほどの愛が私に注がれているのかということに気づいた人たちは「人生の目的」が変わるのです。自分中心の生き方から、神様中心の生き方となるのです。

たとえて言うなら、それまでは祈るにしても「イエス様、こっちに来てください。ここです、ここ。ここで、このようにあなたの栄光を現してください」と祈っていた人が、神の愛に捕らえられたら「イエス様、あなたに従います。どこであろうとあなたについていきます。あなたの栄光のために私を用いてください」と祈る者へと変えられるようなものです。自分の視点ではなく、神の視点に拠り頼み、従う者へと変えられるのです。

放蕩息子とその兄

聖書の中に放蕩息子のたとえがあります。

ある人に2人の息子がいて、そのうちの弟の方が父の存命中に財産の分け前を父に要求し、それを受け取ると数日のうちに荷物をまとめて家を出て行ってしまいます。これは当時のユダヤ社会では考えられないほど失礼な行為でした、しかし、父は弟の望むままにさせました。

弟は都会に行き、湯水のごとく財産を使い果たし、最終的には豚の世話をする仕事につき、その豚の餌で腹を満たしたいと思うほどに落ちぶれてしまいました。

そんな時、彼は父のことを思い出しました。「父の家では使用人でさえもっと良いものを食べている。そうだ。私は戻って、父の家の使用人の1人にしてもらおう」と、弟は父の家に帰ることを決断します。

しかし、この間、父親は弟が帰ってくるのをずっと待ち続けていたのです。そして、遠くに弟の姿を見つけると走りよって彼を抱きしめ、良い着物を着せて、子牛をほふって祝宴を始めました。

けれど、そのとき仕事から帰ってきた兄は、出て行った弟のために宴会が開かれているのを見て腹を立て、家に入ろうともしませんでした。そこで父が出てきて兄をなだめます。父親は兄に言います。「お前はいつも私と一緒にいるではないか。私のものは全部お前のものだ。しかし、弟はいなくなったのが見つかったのだから、祝うのは当然ではないか」と。

この話を、皆さんは兄と弟どちらの立場で聞くでしょうか。

救われて間もない人は、弟の立場に立って聞き、父なる神の大きな愛に感動するかもしれません。しかし、しばらくして教会で奉仕をするようになり、いろいろ分かってくると、兄の立場に自分を置く人もいるでしょう。ある人は自分よりも奉仕をしていない人が脚光を浴び、褒められたりするのを見ると、心の中に嫉妬の思いが湧いてきたり、「自分はこんなにもやっているのに認められない」という考えが頭をよぎったりするかもしれません。

放蕩息子の兄も、弟が帰ってくるまで「弟に対する嫉妬がある」なんて思ってもみなかったと思います。しかし、弟が帰ってきて状況が変わったことで、兄の心の奥底にあった思いが明らかになったのです。

兄は「父の言いつけを守っている」という意識を持っていました。もう少し言うと、兄は我慢して、犠牲を払って、父の言いつけを守っていたのです。そのため、兄の心は父と繋がっていませんでした。そのことに本人も気づいていなかったかもしれません。しかし、弟が帰ってきたことで調和が崩れて、心の底にあった思いが一気に吹き出したのです。

兄は誰に対して怒ったのでしょう。弟に対してでしょうか。それもあるでしょう。

しかし、それ以上に父に対して怒ったのです。父の弟に対する愛を見たとき、自分に対するそれとの違いに腹を立てたのです。

それに対して、父は兄に「私のものは全てお前のものだよ。お前が求めれば何でも私はあなたに与えるのだよ」と言いました。兄はこの父の心を理解していなかったのです。

さて、この放蕩息子の話は、この後のことが書かれていません。

皆さん、この弟は、そして兄は、その後どうしたと思いますか。イエス様はなぜそこまで話さなかったのでしょう。

それは、これがたとえ話で、この続きは私たちがそれぞれ自分のこととして書き綴るためなのです。

私たちは、父なる神の愛をどこまで理解しているでしょうか。私たちがそのことを振り返ってみるように、イエス様は促しておられるのだと思います。

キリストの示された初めの愛

では、キリストはどのような愛を示されたでしょうか。

その生涯の最後に示された最も大きな愛、「十字架の愛」を私たちは知っています。

今日は、ここまで「私たちはキリストの愛で囲まれている」という話をしてきました。

いまはクリスマスを迎えるアドベントのシーズンです。

イエス様の地上での人生のはじめに表された愛を見ておきましょう。

イエス・キリストの誕生の知らせを最初に受けたのは羊飼いたちでした。

羊飼いが夜、羊の群れを守りながら野宿をしていると、主の栄光が彼らを照らし、天使たちが現れ「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは布にくるまって飼い葉おけに寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです」という言葉を聞きます。

「羊飼い」というのは、当時は身分の低い人たちの職業でした。彼らの仕事は大変でした。賃金も安く、夜も交代で羊を盗賊や狼などの外敵から守らなければいけません。日中も羊が食べる草を求めて何日も移動したりするのです。お風呂にも入れず、体にも獣のにおいが移ります。ですから彼らは普段、町の外で暮らしていました。町の中に彼らの居場所はなかったのです。

一方、ヨセフとマリアも宿屋には居場所がなく、家畜小屋に泊まり、生まれた子を飼い葉おけに寝かせました。

イエス様は神様ですから、どこにでも生まれることができたはずです。高級な宿に生まれることもできましたし、せめて暖かい寝具が整っている場所に生まれることを選択しても良かったのではと思いますが、イエス様は目的をもって家畜小屋で生まれ、飼い葉おけをベッドとされました。

イエス様が家畜小屋で生まれ、飼い葉おけに寝かせられたことで、羊飼いはそこに自分たちの居場所があると思うことができました。

「えっ、救い主が生まれただって。なに!飼い葉おけに寝かされているだって。飼い葉おけなら俺たちにもなじみがある。家畜小屋なら俺たちでも行ける。さあ、救い主の誕生を見届けに行こう」と言うことができたのです。

もしこれが「王宮に生まれた」とか、「エルサレム神殿で生まれた」となったら羊飼いたちは行くことを躊躇したでしょう。そこは自分たちの居場所ではないと思うからです。

しかし、神様はこの世の基準で人々を見ていません。神様は、あえて身分の低い者、見過ごされている者のそばに来られたのです。そして、彼らの友となられたのです。

「救い主イエス様が家畜小屋で生まれた」という事実は、神が羊飼いという、当時、最も低い身分にいた人たちに目を留め、彼らこそ、救い主の誕生会の最初の招待客として相応しいとされたということなのです。

これが、イエス様が地上に生まれて、はじめに表してくださった愛です。

このことから明らかなように、イエス様は、私たち一人ひとりを決して見捨てずに、居場所を用意してくださるお方です。そのような愛を受けて、私たちはいま存在し、そのような愛を反映させて生きていくのです。イエス様に従う者とさせていただきましょう。

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