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2023年8月13日 テモテの生涯から学ぶ(1)〜同じ心で仕える〜

2023年8月13日 テモテの生涯から学ぶ(1)〜同じ心で仕える〜
ピリピ人への手紙 2章19~24節 佐藤賢二 牧師

先週、私は1週間ほどお休みを頂きまして、家族ともゆっくり過ごすことが出来ました。皆さんのお祈りに心から感謝いたします。

それで先週の日曜日は、せっかくの機会なのでどこか別の教会の礼拝に出て刺激を受けたいと思ったんです。そこで恵賜先生に、どこかお薦めの教会とか、気になっている教会はないかと、相談してみました。すると、東京のある教会を紹介されました。そしてそこで、すごいリバイバルが起きているというのです。それで色々と調べて、前日の夜になってようやくある方と連絡がつき、日曜日の礼拝に出席させていただくことが出来ました。

到着すると、私をしっかりと出迎えてくださり、ビルの地下に案内されました。初めはカフェの店舗で礼拝をしていたそうなのですが、今は人数が集まり過ぎてビルの地下1フロアを借り切って礼拝しているとのことです。そして、そこには30代、40代と思われる若者たちが、恐らく150人ぐらい集まっていました。そして、それはそれは元気でノリノリの讃美が1時間、そして、そのあと何とメッセージが4時間ノンストップで続くという、なかなか他では経験したことのない礼拝でした。聞いてみると、彼らが大きく成長し出したのは、この2、3年の事で、毎回50人とか80人とかが洗礼を受け、名古屋、大阪、福岡など各地にその働きは広がっているというのです。

ある信徒の方に、こんなにたくさんの人が惹きつけられている秘訣は何だと思いますか?と聞いたところ、「やっぱり、毎週福音を3、4時間かけて語ることではないでしょうか」と言われていました。ですので、私も今日からメッセージに3時間使わせていただきます。

冗談はさておき、私自身、ちょっと刺激を受けるどころか、かなり衝撃を受けて、「教会」というものの既成概念を打ち砕かれる経験になりました。そして何よりも、今まさにこの日本でもリバイバルが始まっている、10×10は必ず実現する、そんな励ましを受けて帰ってきました。主は素晴らしいお方です!!お祈りを感謝します。

さて、今回から新しいメッセージ・シリーズに入っていきたいと思います。テーマは「テモテの生涯から学ぶ」とさせて頂きました。なぜ、テモテなのかということは、また少しずつ分かち合うことが出来ればと考えていますが、思いの中心にあるのは、「共に教会を建て上げる者となる」という事です。今日は、基本的にテモテという人物のおおまかな人物像に目を留めて、私たちの原点についてもう一度思い起こしていきたいと思います。

それでは、今日の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。ピリピ2:19-24をお読みいたします。

私は早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。あなたがたのことを知って、励ましを受けるためです。テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。ですから、私のことがどうなるのか分かり次第、すぐに彼を送りたいと望んでいます。また、私自身も近いうちに行けると、主にあって確信しています。
ピリピ人への手紙 2章19~24節

パウロはこの時、ローマの獄中にいました。そして、これから死刑になるかも知れない、あるいは釈放されるかも知れない、そんな先の読めない不安定な状態にあったのです。ピリピの教会の人たちは、そんなパウロのために自主的に献金を集め、獄中のパウロに贈り物を届けました。パウロは、そんなピリピの人たちに感謝を伝えるため、また彼らの信仰を励ますためにこの手紙を書きました。そしてその励ましの中心は、イエス・キリストの姿に倣う者となるようにとのメッセージでした。ピリピ2:5-8をお読みします。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
ピリピ人への手紙 2章5~8節

パウロは、この自らを低くされたイエス様の姿を指し示し、「キリストの心を心とすること」こそが、どんな境遇においても、心を一つにして喜ぶことができる秘訣である事を、ピリピの人たちに伝えたかったのです。パウロは、出来れば自分自身が早くピリピの人たちに会って、互いに励まし合いたいと思いました。でもそれが出来るかどうか分からないという状況の中、先ほど見たように、自分の代わりにテモテを送りたいということを伝えているのです。

パウロはここでテモテの事をこのように評価しています。もう一度、ピリピ2:20-22をお読みいたします。

テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。
ピリピ人への手紙 2章20~22節

パウロはここで、テモテは私と同じ心を持っていると言っています。これは、テモテは「キリストの心を持っている」と言っているのと同じことです。みんな、自分自身のことばかり求めているのに、テモテは違う。真実にあなたがたの事を心配し、イエス・キリストの事を求め、私とともに今までずっと福音のために奉仕してきた。テモテが適任であることは、あなたがたも知っています、と自信を持って彼の事を推薦しているのです。

テモテとは誰でしょうか。なぜ、テモテは、そこまでパウロから評価されるようになったのでしょうか。なぜ、テモテはパウロと同じ心、すなわち「キリストの心」を持つことが出来たのでしょうか。今日は、テモテとパウロの出会いについて見て行きたいと思います。

1. テモテについて

聖書でテモテという人物が初めて登場するのは、パウロの第2次宣教旅行の途中の出来事です。使徒16:1-2にはこうあります。

それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。彼は、リステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった。
使徒の働き 16章1~2節

ここでテモテについて3つのことが分かります。
1つ目は、リステラという小さな街の出身であること。
2つ目は、お父さんはギリシア人、お母さんは信者であるユダヤ人であるということ。
3つ目は、すでにその地域で評判の良い弟子であったということです。

リステラというのは、パウロが第1次宣教旅行で訪れて多くの人たちを弟子とした場所です。ですから、テモテもお母さんも、その時にパウロから福音を聞いて救われて弟子となったのだと考えられます。テモテは兄弟たちの間で評判の良い人であったとありますが、この時まだテモテは若くて、恐らく20歳前後であっただろうと言われています。続く3節にはこのように書かれています。

パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた。彼の父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。
使徒の働き 16章3節

ここで2つの疑問が湧きます。

1つ目は、なぜパウロはテモテに割礼を受けさせたのか、ということです。パウロはこの旅に出る直前に、この問題で信者になったパリサイ人たちと激しく論争をしていました。そして、「救われるために割礼の有無は関係ない」という同意を得ていたばかりなのです。それなのに、なぜパウロはあえてテモテに割礼を受けさせたのでしょうか。それは、テモテの救いのためではなく、福音の宣教のためです。ここに「その地方にいるユダヤ人のために、割礼を受けさせた」とありますが、これは信者ではないユダヤ人のためにと言う意味です。宣教旅行中、パウロは会堂に入って教えることもありましたが、割礼を受けていないと会堂に入れない、つまり福音を伝えることが出来ないのでテモテに割礼を受けさせたのです。

2つ目の疑問は、ではなぜパウロはそうまでしてテモテを連れて行きたかったのかということです。パウロは、この第2次宣教旅行に出かける前、実は誰を連れていくかでバルナバと大喧嘩をして、結果として別行動をとることになってしまったほどのこだわり持った人物です。ですから、当然連れて行くのはだれでも良かったという訳ではありません。それが、なぜそうまでしてテモテを連れて行きたかったのでしょうか。

2. なぜパウロはテモテを選んだのか

まず考えられるのは、彼が「評判の良い人物であった」という事です。評判が良いというのは、クリスチャンにとって、とても大事な事です。もちろん、高い評判を得るために人の目を気にして行動するようなことにもなりかねないので、それが全てではありません。でも、しっかりとした信仰に歩んでいる人は、周りの人が評価をしてくれるものです。ですから、彼が評判の良い人物であったというのは、とても大切なことです。

また、彼がユダヤ人と異邦人の子であったというのは、パウロの宣教にとって、とても有意義に働くと考えられたのかも知れません。当時、ユダヤ人とギリシア人との混血というのはとても珍しかったようです。それゆえに、ユダヤ人コミュニティにも入りきれず、ギリシア人からはユダヤ人として扱われ、辛い思いもしてきたかも知れません。でも、両方の気持ちや文化が分かるというのは、ユダヤ人も異邦人も福音によって一つとなるというメッセージを伝える上でプラスとなると考えられたと思うのです。

でもそれ以上に、私はもう一つ、テモテのうちに、パウロが見出した大切な要素がそこにあるように思います。そのヒントとなる言葉が、パウロがその生涯の最後にテモテに宛てて書かれた手紙である、第2テモテ3:10-11にあるように思うのです。そこには、こう書かれています。

しかしあなたは、私の教え、生き方、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、また、アンティオキア、イコニオン、リステラで私に降りかかった迫害や苦難に、よくついて来てくれました。私はそのような迫害に耐えました。そして、主はそのすべてから私を救い出してくださいました。
テモテへの手紙 第二 3章10~11節

ここに、あなたは「アンティオキア、イコニオン、リステラで私に降りかかった迫害や苦難に、よくついて来てくれました」と書かれています。パウロがこの地域で迫害にあったのは、第1次宣教旅行中のことです。ですから、これはパウロがテモテに会うよりも前の出来事であり、実際にその迫害の現場にいた訳ではないと解釈することもできます。でも私は思うのです。救われたテモテは、実際にパウロがこの町にいる間、ずっとパウロに付き従って歩んでいたのではないでしょうか。そして、彼らが激しい迫害に遭い、パウロが石打ちにあった時にもその現場にいたのではないかと。そしてむしろ迫害に屈することなく、勇敢に福音を伝え続けるその姿に、本物の信仰を見出したのではないか。そのように思うのです。

信仰には苦難がつきものです。特にこの宣教旅行には、想定外の苦難が待ち受けている。でもその苦難を共に歩むことが出来る覚悟を持った人物。初めから福音を伝える者が苦難を受けることを知っていて、なおついていく覚悟のある人物。パウロが、テモテを連れて行きたかった理由はそこにあるのではないかと思うのです。

3. パウロが受けた迫害

では、パウロが第1次宣教旅行中に受けた迫害とはどのようなものだったのでしょうか。その経緯は、使徒の働き14章に書かれています。パウロとバルナバはイコニオンという場所で福音を宣べ伝え、多くの人が信者になりました。でもそこでユダヤ人たちが、彼らを石打ちにしようとしたのでパウロは、リステラに場所を移して福音の宣教を続けていました。そこで素晴らしい主の奇跡を経験するのですが、なんとユダヤ人たちが追いかけてきて、彼らを本当に石打ちにしてしまうのです。使徒14:19にはこうあります。

ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。
使徒の働き 14章19節

皆さん、パウロは周りの人の目から見て、もう死んだと思われる状況まで石打ちを受けたのです。「この時、パウロは本当に死んだんだ」という学者もいます。でも、パウロはそこから主の力を得て立ち上がるのです。使徒14:20-23を読みます。

しかし、弟子たちがパウロを囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバとともにデルベに向かった。二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。
使徒の働き 14章20~23節

彼らは、こんな仕打ちに遭いながらも、再び立ち上がり、福音を宣べ伝え続け、弟子たちの心を強め、このように語るのです。「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」実際に一度石打ちにされて、死んだも同然の状態になったパウロの言葉です。パウロのその真剣な姿を通して、どれほど、イエス様のいのちが伝わって行ったことでしょうか。

皆さん、私たちが救われるために、私たちが出来ることは何一つありません。ただ、イエス・キリストが私たちのために、十字架にかかって死んでよみがえってくださった。その御業を信じ、へりくだって受け入れる以外にないのです。でも私たちは、この福音を受け入れた者として、キリストと共に、十字架を担う者として召されているのです。ルカ9:23-24にはこうあります。

イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。ルカの福音書 9章23~24節

だれでもわたしについて来たいと思うなら、とあります。自分を捨て、日々自分の十字架を負って従う覚悟。それこそが、キリストに従う者に求められる唯一の姿勢だと思うのです。パウロが、テモテに見出したのは、その覚悟だったのではないでしょうか。

今、私たちの教会の中にも、多くのテモテがいます。東北宣教旅行に遣わされた多くの若者たちもそうです。また、子どもたちのためにと、ジョイジョイやユースのキャンプのスタッフとして、自分たちの休みも削って、全力で仕えている若者たち。本当にキラキラ輝いています。もちろん、若者たちだけではありません。あるものは見えるところで、あるものは見えないところで、あるものは地域に仕える働きで、あるものは裏方で、祈りの働きで、それぞれの場所で、主の十字架を担って一生懸命仕えてくださっている。そこにイエス様のいのちがあふれているのです。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と主は言われます。この主の招きに応えるところから、私たちの弟子としての訓練はスタートするのです。

私たちは、たくさん整えられなければならない所があります。テモテにもたくさんの弱さがありました。でも、まず第一に必要なのは、どんな困難があっても、主に信頼して十字架を負って歩み続けるという覚悟です。先ほども見ましたが、パウロは、後にテモテの事をこのように評価しました。

みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。ピリピ人への手紙 2章21~22節

テモテは、弱さの中にあっても、福音のために、この志を最後まで持ち続けたのです。今、私たちも、同じ思いを持って仕えるようにと招かれています。共に、私たちの人生を主にお捧げして仕えて行きたいと思います。
お祈りしましょう。

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