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2023年7月9日 愛に生きる私たちの十戒(9)〜盗んではならない〜
2023年7月9日 愛に生きる私たちの十戒(9)〜盗んではならない〜
出エジプト記 20章15節 佐藤賢二 牧師
「愛に生きる私たちの十戒」というシリーズの第9回目になります。今日も早速、聖書をお読みしていきましょう。出エジプト記20:15です。
盗んではならない。
出エジプト記 20章15節
はい、以上です。ここの所、シンプルな御言葉が続いていますね!これが十戒の第8戒となります。
皆さん、何かを盗んだことはあるでしょうか?もちろん私は、何も盗んだことなんてありません、と言いたい所なのですが、神様はやっぱりそうは言わせてくれないのです。思い返してみると、おそらく小学生の低学年ぐらいの時でしょうか。我が家のダイニングキッチンに収納棚が置いてありまして、そこに色んな雑貨や書類の様なものが入っている引き出しがあったんです。そして、何故かその引き出しの底の方には、小銭がゴチャゴチャっと入っていたんです。10円玉とか、50円玉とか、そんなのばっかりです。そして、私は何がきっかけだったかはよく思い出せませんが、そこからこっそり何十円か盗ってしまったことがあったんです。それで、そのお金を持って、駄菓子屋さんに行って、ちょっとしたお菓子を買って食べてしまった。もう、ちっちゃいケンちゃんは、ドキドキです。バレるかな、大丈夫かなと、しばらくドキドキしていたのですが、これがバレなかったんですね。初めは、もうこれっきりと思っていたのですが、それから私は何回か同じ様なことをしてしまったんです。
そんなある日、私は同じようにして、お店から「小さな水鉄砲の様なもの」を買って帰ってきたことがありました。今でも覚えているのですが、それはバッチのような形をしていて、管が付いていて、こっちの手元で操作するとそのバッチの部分から、ピュッと水が出るというものでした。多分、2〜300円ぐらいのものだったと思います。でも、流石に母もおかしいと思ったのでしょうね。「それ、どうしたの?」と聞かれて、私は正直に答えることが出来ませんでした。本当のことを言うのは怖かったし、お店から盗んだという訳でもないし、友達からもらったと言うとすぐバレそうだし、一生懸命私が考えて出した結論は、なぜか家の中の別の場所でお金を見つけたというものでした。「なんかあっちの部屋の棚の上を見たらさ、なんかお金があったから、そこから取っちゃったんだ」と。
まあ親には、そんな嘘はバレバレだったと思います。でも、とにかくそういうことは良くないと叱られて、その場はそれで終わりました。私はその時、完全に正直だったという訳ではありませんでした。でもその時に、そのぐらいの段階で見つかって良かったという不思議な安堵感があったのを思い出すのです。
皆さんの中には、意図的に常習的に盗みを繰り返していますという方は、あまりいないかも知れません。でも、今まで生きてきた中で、こっそり誰かの何かを取ってしまったとか、出来心であれを盗んでしまったということは、誰にでも一つや二つあるのではないでしょうか。そして、初めは大したことないだろうと思っていたことが、バレないからと段々とエスカレートしていって、気がついてみたら万引きの常習犯になっていたなんてケースは、割とありがちなことだと思うのです。それが自分から始めたのか、誰かにやらされているのかということは、あまり関係ありません。問題は、少しずつ、少しずつ感覚が麻痺していってしまい、気がついたら大きな犯罪を犯す様になってしまうということです。
これは、先週お話ししたような、ブラックホールに吸い込まれていく様な感覚です。初めは小さなことであったはずのものが、だんだんと抜け出せなくなって、取り返しのつかない問題になってしまうことがあるという事です。
「盗んではいけない」という戒めに関しても、私たちは繊細な心を持っていきたいと思います。実際に「盗むな」という戒めを犯すような行為をしていなかったとしても、私たちにはそういう弱さが備わっているということを、自覚する必要があるのです。自分さえ良ければいいというような、自己中心的な思いを持っていないか、また無意識の内に何かを奪ってしまっていることはないか、主の光に照らされて歩んでいきたいと思うのです。
そんなことを踏まえつつ、今回も祈りの中で示された3つことを、お伝えしたいと思います。
1. 時間を盗む
まず第1のことは、「時間を盗む」ということに関してです。あなたは、人から「時間」を奪っているということはないでしょうか。私は、自分で本当にだらしないと思うのですが、いつも時間ギリギリで行動するというタイプの人間なんです。だから、何かちょっとでも想定外のことがあったり、トラブルがあったりすると、ほんの少し、5分とか10分とか遅れてしまうということが、よくあるんです。でも、忙しい皆さんが集まっている中で、時間を守らないということは、相手の大切な「時間」を奪ってしまうことになるんだということが、よく言われます。この中にも、私から、そのような被害に遭われた方が、たくさんおられると思います。本当に申し訳ありません。この場をお借りしてお詫びいたします。なんとか、頑張って、改善していきたいと思います。
しかし「時間」に関して言えば、こういう側面もあると思うのです。それは、私が忙しくし過ぎることによって、誰かから「私と過ごすはずの時間」を、盗んでしまうことがあるということです。例えば、私の家族、私の妻や、私の子供たちは、私と十分な時間、質の高い時間を共に過ごす必要があります。また、その権利があります。それなのに、私が忙しい、忙しいと自分の予定を詰め込み過ぎることで、彼らからその「大切な時間」を奪ってしまっているということがあるんです。
皆さん、ミヒャエル・エンデという人が書いた不朽の名作「モモ」という児童文学をご存知でしょうか。私は中学生の頃にこの本を読んで、とても感銘を受けたのを覚えています。考えてみたら、中学校の文化祭では、この「モモ」を題材にして、クラスで演劇をしたりもしました。今回、準備をしている中で、ふっとこの物語のことが思い起こされたのですが、今こそ、私たちはそこにあるメッセージに耳を傾けなければならないなと思ったのです。「モモ」というのは、こんなお話です。
あるところにモモという女の子がいました。彼女はとても話を聞くのが上手でした。誰もが彼女と話をしているだけで幸せな気分になり、アイデアが湧いてきて、とても充実した毎日を過ごすができるようになったんです。でもそこに「時間泥棒」という灰色の人たちがやってきます。そして一人一人に、あなたの残りの人生の時間はたったこれだけしかない。だから、こんなことをやっている時間はないんだと言って説得し、忙しく働かせるのです。その結果、みんな余裕がなくなって「あー忙しい、忙しい」と言って毎日を過ごすのです。そして、ついに誰もモモのところに来なくなりました。みんな、モモと話したいという思いはあっても、「今は忙しいから」と言って、不機嫌そうに働いているのです。そしてモモは、友人たちを助け出すため、また時間どろぼうから大切な時間を取り戻すために立ち上がる、というのが、この物語のざっくりしたあらすじです。
この物語の中で、本来時間とは「今この瞬間にしかない美しさを輝かせる花びらのようなもの」として描かれています。今、この瞬間を、ここにしかない、かけがえのない今というこの時を、しっかりと生きるということが、大切なんだということなんです。皆さん、ぜひ機会があったら読んでみてください。大人になった私たちだからこそ、心に響くものがたくさんあるのではないかと思うのです。
ギリシャ語では、「時間」を表す言葉がいくつかあるそうです。その中でも代表的なものに「クロノス」という言葉と、「カイロス」という言葉があります。「クロノス」というのは、時計やカレンダーで計れるような「量的な時間」のことです。例えば、1時間は60分、1日は24時間といったもののことです。一方「カイロス」というのは、計ることのできない、かけがえのない「質的な時間」のことを指します。また、そこには「機が熟した時」とか、「適切な時」、「完璧なタイミング」といった意味合いもあって、精神的・霊的な感覚も伴ったものだと言われます。イエス様が、「時は満ちた」とか、「わたしの時はまだ来ていない」とか表現された時に使った「時」は、この「カイロス」です。もちろん、「クロノス」の時間も大切なのですが、私たちがそれ以上に、本当に大切にすべきなのは、この「カイロス」の時間なのではないでしょうか。私たちは、時間で計れる「クロノス」の中に、色々な予定を詰め込んで、結果として「カイロス」の時間、「質的に高い時間」を奪われてしまっているということはないでしょうか。また、一度「クロノス」の世界を中心に生きてしまうと、誰かの大切な「カイロス」も無駄なものに見えてしまう。そして、結果としてそれを人から奪ってしまうなんてことはないでしょうか。
充実した時間というのは、単純に長さでは測れないものだと思います。親として、子供から大切な時間を奪ってしまっていることはないでしょうか。あなたが忙しすぎることによって、あなたを必要としている家族や友人から、その大切な時間を奪ってしまっていることはないでしょうか。また、誰よりも、あなたと大切なその時間を過ごしたいと思って待っている方がおられます。私たちを造られた、神様ご自身です。私たちは、忙しすぎて、神様とゆっくり過ごす、充実した祈りの時間を持つことを、おろそかにしてしまってはいないでしょうか。私たちは、やるべきことがたくさんある、忙しい時代、忙しい社会の中に生きています。だからこそ、「時間泥棒」に私たちの大切な時間、質の高い時間を奪われてしまわないように、気をつけなければならない。また、私たち自身が「時間泥棒」となって、人からその時間を奪ってしまうことがないように、気をつけていきたいと思うのです。
私たちにとっては、「クロノス」の時間も、「カイロス」の時間も、大切なものです。ですから、決してそれを人から奪ってしまうことがないように、気をつけていきたいと思います。そうでないと、感覚が麻痺していき、気がついてみたら、こんなはずではなかったと思うようなこあり得るからです。そのことを、お互い自覚していきたいと思います。
2. 神のものを盗む
第2のことは、「神のものを盗む」ということに関してです。「神のものを盗む」とはどういうことでしょうか。まず、マラキ書3:8-9をお読みします。
人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。
マラキ書 3章8~9節
非常にドキッとさせられる、厳しい表現です。でも、「あなたがたは、盗んでいる」と言われても、イスラエルの民にはそんな自覚はありませんでした。なぜなら、彼らは別に、実際に神殿から献金を盗んだとか、意識的に盗むという行為をしていた訳ではなかったからです。だから彼らは言うのです。「どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか」でも、そんな彼らに対して、預言者マラキは、はっきりとこのように伝えるんです。「それは、十分の一と奉納物においてだ。」言うまでもなく、この「十分の一」とは「什一献金」、すなわち、収入の十分の一を神にささげるということについての戒めです。イスラエルの民は、この「十分の一」を捧げないということによって、「神のものを盗んだ」と言われているのです。彼らは、別に積極的に盗んだのではありません。にもかかわらず、ここでは非常に厳しい言い回しで、「あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる」と警告されているのです。
なぜ、十分の一をささげないことが、「盗んでいる」ことになるのでしょうか。それは、そもそも私たちに与えられているものはすべて、神様のものであって、神様から預かったものであるからです。私たちの命も、体も、託されている財も、時間も、賜物も、すべて神様のものなのです。そして私たちは、神を恐れ、神を神とすることのしるしとして、その一部を取り分けて、まず神様に捧げる。それが、この十分の一のささげ物なのです。だから、これは「献金」というよりも、「返金」、返すお金なのだと言う人もいます。
この「お金のこと」というのは、他の戒めにも増して、私たちの内面の一番正直な部分が反応する、非常にセンシティブな問題です。昨今は、反社会的なカルト集団での多額の献金が社会問題になったりもしましたので、余計に神経質になりがちな話だとも思います。ですから、ここではっきりと申し上げます。献金は強制されてするものではありません。献金は個人の自由意志によって、信仰によって捧げられるべきものです。また人が献金額によって、教会で何かの権利を得たり、失ったり、そういうことは一切ありません。ささげられていないからと言って、人の目を気にして居心地の悪さを感じる必要もありません。なぜなら、献金は、あくまでも神と人との関係の中で、自分の意志で行うべきものだからです。しかし神様は、あなたを責めたり、批判したりするためではなく、ただあなたを祝福したいと思って、あえてこの厳しい言葉を語っておられるのです。
先ほどの続きの御言葉、マラキ3:10にはこうあります。
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。
マラキ書 3章10節
主は、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたに注ぎたいと、心から願っておられる。それゆえに、あれほどまでの厳しい言葉を使って、私たちに教えてくださっているのです。問題とされているのは、私たちの姿勢です。ここでは私たちが、真摯に神様を第一としようとしているかどうかが問われているのです。
ですから皆さん、このことについて、どうか真剣に受け止めて取り組んで頂きたいのです。どうしても什一献金ができないという方は、正直にそれを神様の前に祈ってください。イスラエルの民のように、「どのようにして、私は盗んだのでしょうか」と言って、無感覚になってしまってはいけません。「主よ、今は事情があって捧げられません。でも私はあなたを恐れます。あなたを第一として歩んでいきたいです。どうか助けてください。」と正直に、神様の前に出続けて頂きたいと思うのです。神様は、あなたの心を、ご覧になられるのです。
3. 困っている人に分け与える者となる
第3のポイントは、「困っている人に分け与える者となる」ということです。エペソ4:28にはこのようにあります。
盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。
エペソ人への手紙 4章28節
ここに「盗みをしている者は、もう盗んではいけません」とあります。「盗む」というのは、「自分さえ良ければいい」という考え方の延長線上にあるものです。私たちは、今日話をした「時間を盗むこと」「神のものを盗むこと」の他にも、無意識のうちに、無自覚のうちに何かを盗んでいるということがあり得ます。それは、私たちが自己中心的な存在だからです。ですから、私たちはそのことに気がついたなら、もう盗みをやめて、正しい方向に向きを変えていかなければなりません。そのために必要なこと、それは「困っている人に分け与える」者となるということです。そのためにこそ「労苦して働きなさい」ということが、言われているのです。それは、自分のことばかり考えるのではなく、他の人の必要に目を留める者となるということです。使徒の働き20:35にはこのようにあります。
このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。
使徒の働き 20章35節
ここに「受けるよりも、与えるほうが幸い」だとイエス様ご自身が言ったと書かれています。私たちの本当の幸せは、受けることによってではなく、与えることによって得られるのです。イエス様の人生は、与え尽くす人生でした。イエス様は私たちにいのちを与えるために、私たちの罪を背負って、十字架の上で死んでくださったのです。そして、私たちも、同じように生きなさいと招かれているのです。自分さえ良ければいい、自分さえ豊かになればいい、そういう価値観ではない。むしろ、どれだけ周りの人を豊かにすることが出来たか。どれだけ、イエス様の愛を、必要としておられる方々に対して表すことが出来たか。それによって私自身も本当の祝福、本当の幸せを感じることが、できるのだと思うのです。
最後に、今年私たちに与えられているイザヤ書61:1をお読みしたいと思います。
神である主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
心の傷ついた者を癒やすため、
主はわたしに油を注ぎ、
わたしを遣わされた。
イザヤ書 61章1節
主の御言葉に押し出されて、主の御心を行っていくお互いでありたいと心から願います。お祈りしましょう。