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2023年6月25日 愛に生きる私たちの十戒(7)〜殺してはならない〜
2023年6月25日 愛に生きる私たちの十戒(7)〜殺してはならない〜
出エジプト記 20章13節 佐藤賢二 牧師
「愛に生きる私たちの十戒」というシリーズの第7回目になります。早速今日の聖書をお読みしましょう。出エジプト記20:13です。
殺してはならない。
出エジプト記 20章13節
はい、無茶苦茶シンプルです!これが十戒の第6戒ということになりますが、皆さん、どうでしょうか。この御言葉を聞いて、どう思うでしょうか。「殺してはならない」なんて、あまりにも当たり前すぎだと思わないでしょうか。いや、流石にこれだけは私も守ってます!十戒の中にも、ようやく私にも守れそうな戒めが出てきた、そんな風に感じるかも知れません。一般的に言っても、これほど、皆さんの同意を得られやすい戒めはないかも知れません。でも、実はよく考えてみると、事態はそれほど単純ではないのです。
現代の社会問題に照らしてみると、例えば戦争の問題があります。今も、ロシア・ウクライナで現に戦争が行われています。そこでは、お互いの大義名分のもと、痛ましい殺し合いが起こっている訳です。私たち日本人は、一応「平和憲法」で戦争はしないということになっています。しかし、万が一国が攻め込まれてきた時には、自衛のために武力を使ったり、その結果相手を殺すことになったりということが起こるわけです。
また終末期医療においては、いたずらに命を延命することの是非が問われます。じゃあ、一度延命措置をした場合、医師や家族の判断でそれをやめるのは「殺人幇助」、つまり殺人を助けたということになってしまうのではないかとも言われます。妊娠中絶の問題もあります。お腹の中の子供が99%障害を持って生まれてくるということが分かっている場合、果たしてそのまま産んで良いのだろうかと迷う人もいるでしょう。また、母体を守るために中絶を選ばざるを得ないというケースもあるかも知れません。強姦による望まない妊娠の場合はどうしたら良いのでしょうか。ですから、ただ単に「中絶は殺人だから反対」と正論を振りかざすことが、果たしていつでも正しいと言えるのでしょうか。このように、「殺してはならない」という戒めは、当たり前のようでいて、深く考えさせられる多くの問題が絡んでくるのです。
今日は、そのような問題を踏まえつつも、その一つ一つに「これはOK」で「これはダメ」といった線引きをすることは致しません。しかし、私たちを愛しておられる神様が、この命令を私たちに与えられたその思いに、なるべく心を向けていくことが出来るようにと祈りつつ、導かれたことを、3つのポイントでお分ちしたいと思います。
1. 殺人はどこから始まったのか
まず、第一のことは「殺人はどこから始まったのか」ということです。「殺してはならない」とありますが、「殺人」はどこから始まったのでしょうか。
この事を考えるために、カインとアベルという兄弟の話を見ていきたいと思います。カインとアベルというのは、初めの人アダムとエバから生まれた、一番初めの兄弟です。なんとその兄弟の間で、すでに「殺人」という悲しい出来事が起こるのです。
創世記4:1-8を見ていきたいと思います。
人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、主によって一人の男子を得た」と言った。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。
創世記 4章1~8節
これが、人類で初めての、殺人事件です。なんとお兄さんが、弟を殺してしまった。なぜこんなことが起こったのでしょうか。状況を整理したいと思います。まず、兄のカインは大地を耕す者となり、弟アベルは羊を飼う者になりました。しばらく時が過ぎた時、二人とも、自主的に神様にささげ物を持ってきました。まず兄のカインは、大地を耕す者でしたので、「大地の実り」を神のもとに持ってきました。弟アベルも、飼っている羊の初子の中から肥えたものを選んで持ってきました。すると神様はなぜか、「アベルとそのささげ物に目を留められた」けれど、「カインとそのささげ物には目を留められなかった」とあるのです。神様は、なんでそんなことするかなーと思うのですが、その理由は分かりません。この箇所だけで読み取るなら、恐らくアベルは最高のものを捧げようとしたけれど、カインは形だけ捧げたということなのかも知れません。とにかく、神様の目には何か決定的な違いがあって、その結果アベルだけが神様に目を留められたのです。
面白くないのはカインです。皆さんも経験あるでしょうか。おんなじようにやったつもりなのに、なんでいっつもアイツだけ認められて自分は評価されないんだとか。兄弟ではよくありますよね。片っ方を褒めると、別にもう一人のことをダメだと言ったわけではないのに、勝手にそういうメッセージを受け取って怒ったり、褒められている方を妬んで手を出したり。まさに、そういうことがカインとアベルとの間で起こったのです。この箇所では、「カインは激しく怒り、顔を伏せた」とあります。カインは、神様から顔を伏せたのです。私たちは、怒った時には真っ直ぐに顔を見れなくなります。素直に声が聞けなくなるのです。そして、こうなったのはアベルのせいだ、アベルさえいなければという感情が沸々と湧き上がってきたのです。そんなカインに対して、神様は諭すように声をかけてくださるのです。もう一度6-7節を読みます。
主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
創世記 4章6~7節
「もしあなたが良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている」と言われました。ねたみや怒りという感情は、そのまま放置していると、大きな罪の引き金となるのです。サタンは、そのような感情を足がかりとして、私たちを悪の道へと引きずり込もうとする訳です。でも、私たちはそれを治めなければならないのです。しかし、カインにはその声は響きませんでした。心に届かなかったのです。なぜでしょうか。それは、顔を伏せていたからです。素直にそのことを認めて、神様の前に出ることが出来なかったのです。その結果、彼は自分の心の赴くままに行動しました。弟を呼び出し、彼を殺してしまったのです。
私は小学生の頃、6歳年上の兄と何かの理由で口論になったことがありました。もう何について話していたかはよく覚えていないのですが、多分他愛のないことです。でも、私には自分の方が正しいと思っているのに口では勝てない、そんなイライラが溜まっていったんです。そして、気がついてみると、なんと食卓にあった包丁を手にしていたんです。別に、それで本当に兄を刺そうと思ったわけではありません。少し脅かしてやろうと思ったのでしょう。それ見た兄は、すかさず私のほっぺたを「ベチーっ」と平手で引っ叩きました。私はその包丁をその場に置き、泣きじゃくったんです。ほっぺたに、はっきりと手の跡がついていたそうです。しばらくして母が家に帰って来て、私の姿を見てびっくりして兄を呼び出しました。でも、事情がわかった母は私に言いました。「それは、あんたが悪い」
私は、ほんの出来心で、ちょっと脅かしてやろうと思って、そこにあった包丁を握っただけのつもりでした。でも考えてみると、サタンは、そうやって心の中に起こった小さなマイナスの感情を踏み台として、私たちの人生を破壊しようとして来るのです。あの時、兄が私に張り手をしてくれて、また母が私を叱ってくれて、本当に良かったと思います。でないと、ひょっとしたら私の人生は全く違ったものになって、今ここに立つことすらなかったかも知れないのです。
「殺人」はどこから始まったのでしょうか。殺人はカインから始まったのでしょうか。いいえ、そうではありません。殺人は「心の中」から始まったのです。私たちの心に、処理されない妬みや、怒りがある時、そして神様からの語りかけが聞こえない状態にある時、やがてそれが「殺人」という形で大きな罪を犯してしまうことになるのです。
2. 「殺すな」という戒めの真意
そしてそのことは、そのまま第2のポイントにつながります。第2のポイントは、「『殺すな』という戒めの真意」についてです。新約聖書で、イエス様はこの「殺してはならない」という箇所を引用してこのように教えています。マタイ5:21-22です。
昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
マタイの福音書 5章21~22節
律法学者たちは「人を殺さない」ということさえ守れば、大丈夫だと考えていたようです。しかしイエス様は、この「殺してはならない」という教えは、表面上の殺す、殺さないというよりももっと内面の問題なのだと言っているのです。カインとアベルの問題の本質から考えると、当然のことです。でも私たちも、ともすると律法学者のように「これさえ守っておけば大丈夫」という線引きをして、それ以上心の内面の問題に踏み込ませないということはないでしょうか。でもイエス様は、もっとストレートに心の問題に光を当ててくださるのです。
皆さんは、兄弟姉妹に対して「怒った」ことはないでしょうか。誰かに対して、「ばか者」とか「愚か者」とか言った事はないでしょうか。別にこれは「いや私はバカなんて言った事はありません。アホなら良く使いますけど」とか、そういう問題ではありません。要は、これは私たちの心の中でどんな感情が湧き起こっているかという問題なのです。誰かのことを憎み、「アイツさえいなければ」と、心の中で相手を抹消してしまったことはないでしょうか。イエス様の基準で言うならば、私たちが、心の中で誰かに対して妬みや怒りと言った感情を抱く時、それはすでに殺人の種が蒔かれているのだという事なのです。
大切なのは、このような種が蒔かれていると気がついた時に、それを早いうちに適切に処理するという事です。先ほどの御言葉はこのように続きます。マタイ5:23-24。
ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
マタイの福音書 5章23~24節
ささげ物をささげようとしている時というのは、どういう時でしょうか。それは礼拝をしている時という事です。神様の前に出ている時です。私たちは、神様の前に出る時、神様との関係が正しい状態に置かれる時、私たちの隣人との関係に光が当てられるのです。私は、あの人に恨みを買うようなことをしてしまった。あるいは、どうしても赦せない思いがある。いろんな形で、自分の心の中の闇が照らされ、そこに壁があるのに気が付かされのです。それを、示された側から、アクションに移して、仲直りをしなさいと言うのです。
ささげ物はまずそこに置いてとありますが、何も礼拝の最中に抜け出して、ということではありません。私たちは、毎週毎週、あるいは毎日・毎瞬間、神の前に出ます。私たちは礼拝者として生きるのです。そしてその時、そのようなことが示されたなら、速やかに、まず自分から和解のために何が出来るか、考えて行動しなさいとイエス様は言っているのです。
それは、誰かのところに行って、「赦してください」と素直に謝ることかも知れません。あるいは「あなたを赦します」と言うことかも知れません。そのようにして、神様の前に出ることを通して、隣人との関係も正しくされていくということが大切なのです。そのようにしていくならば、「殺してはならない」という問題が芽を出す前に処理することが出来るようになるのです。ですから、私たちは、普段から神様の前に出続けることが大切です。カインのように、怒りや、さまざまな感情で神様から顔を伏せてしまってはいけません。むしろそうなる前に、神様との交わりを最優先にするライフスタイルを確立し、神様の声にいつも敏感であれるように、そして自分の中に湧き起こる「怒り」や「ねたみ」といった小さな感情に気づけるようにならなければなりません。そして、それを示された時にどのように行動するのか、神様の御心に従っていく従順さが必要なのです。
「殺すな」という戒めの真意。それは、殺すという行為に至るまでの私たちの心の問題に、きちんと向き合いなさいということなのです。
3. 愛することへの第一歩
第3のポイントに移ります。それは、「愛することへの第一歩」ということです。カトリックのローマ教皇であるフランシスコは、十戒の「殺してはならない」という戒めを引き合いに出して、こんな言葉を残しています。
愛さないことは、人殺しへの第一歩です。
そして、殺さないことは愛することへの第一歩なのです。
これは、非常に考えさせられる言葉だと思います。私たちは、神に愛され、互いに愛し合う存在として召されています。そして、私たちの周りに置かれた一人一人は、誰一人、例外なく、「神様のかたち」として造られたのです。私たちは、神様の目から見れば、神に愛されている、大切な、高価で尊い存在です。私たちは、「神のかたち」である、その人のいのちを奪うことは出来ません。「愛さない」ということは、その人の存在を無視するということです。
マザーテレサは、「愛の反対は、無関心だ」と言いました。それはもう、人殺しへの第一歩が始まっているということなのです。そして逆に、「殺さない」と言う選択をすることは、すなわち身体的に相手を殺さないと言うだけでなく、罵ったり、存在を無視したり、妬んだりしないということを選び取るなら、それは愛することへの第一歩だと言うのです。
それは、あまりにもナイーブな考え方でしょうか。でも、私たちは、「殺してはならない」という教えを、決して律法的な線引きをして満足してはいけないと思うのです。そうではなく、現実の問題の中で、ある時にはもみくちゃにされながら、何が愛することなのか、それを考え、取り組んでいくことが求められているのではないでしょうか。
私たち自身がそのような状況に置かれた時、生ける神様の御心を選び取っていけるように祈りたいと思います。また、今まさに、線引きが難しい、その狭間に立たされているお一人お一人が、神様の御心をしっかりと受け取って、愛するという決断をすることが出来るように、とりなして祈っていきたいと思います。
今、現実に戦争が起こっています。争いや憎しみが溢れています。簡単な問題ではありません。でも、そこに神様の御手が述べられるように祈りましょう。その他、様々な問題があります。複雑な問題が絡んだ妊娠中絶。末期の患者に対する延命治療。生きる希望を見出せないで、自らの命を絶ってしまいたい誘惑に駆られている方。そのような所に立たせられているお一人お一人が、「神のかたち」として造られた、お互いを、また自分自身を愛することが出来るように、神様が知恵と力を与えてくださるように祈りたいと思います。そして、私たち自身も、もっと繊細に心の問題を主に取り扱っていただくことが出来るように。妬みや憎しみというような種が、私たちの内側で燻っていないか、主が心の中を照らしてくださるように祈りましょう。それぞれ主からの語り掛けを聴くことが出来るように、しばらく祈る時を持ちましょう。
最後にもう一つ、もう一歩踏み込んで考えてみたいと思います。それは、「霊的ないのち」ということに関してです。神様は、誰も滅びることがないようにと、望んでおられます。神様は、すべての人が真理を知って、救われることを願っておられるのです。もし、私たちが彼らの存在を素通りして、「愛さない」のなら、それは彼らが霊的に滅んでいくことを、黙って見捨てていく、ある意味「人殺し」への第一歩なのではないでしょうか。しかし、もし私たちが「彼らが、誰ひとり滅びることがないように」願って祈ることは、愛することへの第一歩なのです。今、私たちたちの周りに置かれている、まだ救われていない方々のために。この地域の方々のために。日本の魂の救いのために。心を砕いて祈る時を持ちましょう。