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2023年4月16日 愛に生きる私たちの十戒(1)〜神を愛し、隣人を愛す〜
2023年4月16日 愛に生きる私たちの十戒(1)〜神を愛し、隣人を愛す〜
マタイの福音書 22章36~40節 佐藤賢二 牧師
今日から、新しいメッセージシリーズに移っていきたいと思います。シリーズのタイトルは、「愛に生きる私たちの十戒」とつけさせて頂きました。
「十戒」と「律法」
皆さん、「十戒」というのは何だかご存知でしょうか。「十戒」とは、旧約聖書の時代、イスラエルの偉大なリーダーであったモーセに授けられた「十の戒め」のことです。エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの民が、モーセのリーダーシップによってエジプトを脱出し、海の真ん中の乾いた地面を渡って荒野に導かれたという話はとても有名です。そして彼らが、神様によって約束された地に向かう途上、シナイ山という所でモーセに授けられたのが、この「十戒」です。「十戒」には、「〜してはならない」あるいは「〜せよ」という命令が10個並んでいます。それは、その後それに付随するようにして与えられた、合計613あると言われる「律法」の中核をなすものだと言われています。
イスラエルの民は、これらの「律法」を特別なものとして受け取りました。そして、神に選ばれた者として、この「律法」を守ることこそが自分たちのアイデンティティーであり、これを守ることによって祝福が与えられると考えたのです。そして、その後彼らは、どうすればこれらの「律法」を守ったことになるのかという解釈を加えた細かい説明書を作り、それを厳格に守ることが彼らにとって最も重要なこととされるようになったのです。
しかし後にイエス様が来られた時、そんな彼らの姿勢を痛烈に批判しました。マルコ7:6-8で、イエス様は、律法学者たちに対してこのように語っています。
イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」
マルコの福音書 7章6~8節
イエス様は、彼らが口先では神を敬っているように見せかけて、実は神様の心から遠く離れてしまっていると批判しているのです。それは彼らが、間違った動機で律法と向き合っているために、神様が律法を与えられた時の精神から、大きく離れてしまっていることを示しています。神の律法は、「こうすれば、律法を守ったことになる」と、安易に規定すべきものではありません。また、形式的に守ることで自分を誇ったり、自己満足したりするような性質のものではありません。それを行うかどうかで、優越感や劣等感が生じるようなものであってはならないのです。これは、私たちも気をつけなければならないことです。形式主義、律法主義というのは、私たちが簡単に陥りやすい罠です。
私たちは、日々の信仰生活の中で、「これさえやっていれば安心」というものを作り、ただ形だけそれを実行して安心しているということはないでしょうか。神様は、私たちが「律法」を形の上で守るかということよりも、「私たちの心が、本当に神様の近くにあるか」ということを気にかけておられるのです。
私たちは「律法」とどのように向かうべきか
では、私たちはどのように「律法」と向き合うべきなのでしょうか。もう旧約の「律法」なんて無視して歩んで良いのでしょうか。決してそうではありません。
キリスト教界における理解として、伝統的に「律法」には3つの用いられ方があると言われています。今日は、その「律法の3つの役割」について、まず簡単に頭に入れておきたいと思います。
(1)何が正しいことなのかを分からせる
まず第1に、律法には「何が正しいことなのかを分からせる」役割がある、ということです。国には、憲法や様々な法律があって、それが社会を保っています。また、どんな組織にも何らかのルールがあって、その秩序が保たれます。私たちの社会は、「何が良いことで、何が悪いことなのか」「それらに違反したら、どんな罰があるのか」という決め事があることで、秩序が保たれているのです。当然、神様が与えられた「律法」にも同じ役割があります。私たちは、罪によって堕落してしまった存在なので、明文化された「律法」がないと、悪に歯止めが効かなくなってしまいます。だから、律法には、みんなが「何が正しいことなのか」を分からせる役割があるのです。
(2)キリストの救いを求めさせる
第2に、律法には「キリストの救いを求めさせる」役割がある、ということです。ガラテヤ3:24でパウロは、このように述べています。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
ガラテヤ人への手紙 3章24節
ここに「律法は私たちをキリストに導く養育係」となったとあります。養育係というのは、まだ未熟な人を、養い育てる役割を持った人のことです。ここで言う「未熟な人」というのは、自分は自分の力でやっていけると考えている人です。律法学者たちは、そういう意味で「未熟な人」と言えるでしょう。神を知らなかった時の私自身もそうです。でも、そういう人が神の「律法」が求める高い基準と向き合った時、自分がいかに無力で力のない存在かということを知るのです。「律法」は、私たちが、徹底的に罪人であることを、知らしめてくれます。そして、そんな自分の姿に絶望した時、私たちはキリストの元に行くしかないということに、気づかせられるのです。私たちは、必要を感じなければ、求めもしません。「律法」は、私たちに罪を示し、救いの道を求めさせるのです。
イエス様は、私たちに救いの道を開くために、私たちの身代わりとして十字架にかかって、死んで、よみがえってくださいました。それがイースターになされた御業です。自分には出来ないけれど、イエス様のもとに救いがある。だから私たちは、ただ信仰によって、恵みによって、感謝してこの救いを受け取ります。「律法」には、キリストの救いを求めさせるという重要な役割があるのです。
(3)救われた者を感謝と献身の生活へと導く
第3に、律法には「救われた者を感謝と献身の生活へと導く」という役割がある、ということです。私たちは、主イエス・キリストによる救いをいただいた今、もはや律法に縛られることなく、恵みによって新しい人として生きています。では、そのような私たちに、「律法」はもはや必要ないでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ主イエス・キリストの救いに感謝し、新しいいのちに生きる私たちの自由の指針、感謝の生活の指針として、「律法」は、今も重要な意味を持っているのです。
ここに、今私たちが改めて「十戒」を学ぶ意味があります。「十戒」は、私たちが神の御心を自由に選び取って歩んでいく時の、大切なガイドラインです。私たちが、キリストに贖われた者として、真の神の民として、どのような価値観で、どのようなライフスタイルを送っていくのか。「十戒」は、そのような指針を与えてくれる重要な道しるべなのです。モーセがこの「十戒」を受け取った時、それは2枚の石の板に書き記されたとあります。しかし、今私たちはそれを、私たちの心の板に書き記す必要があるのです。エゼキエル11:19にはこのようにあります。
わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
エゼキエル書 11章19節
「石の心」とは、まさに「石の板」に記された律法を、自分の力で守ろうとする人間的な努力です。しかし神様は、その「石の心」を取り除いて、新しい「肉の心」を与えてくださると約束してくださっているのです。それは、私たちがもはや救いを得るための手段として「律法」に向き合うのではなく、御霊の力をいただいて、神様の御心に生きていくということです。その時、神様の律法は、私たちの心に直接刻まれます。
私たちは今年、主の御霊によって「キリストの心とともに」遣わされるということを心から願っています。その時に問われるのは、私たちの「心」です。私たちは、御霊の助けなしに「十戒」と向き合うことは出来ません。でも御霊により頼みながら、私たちを取り巻く様々な状況に具体的な解決を求めて祈る中で、神様は私たちを通して神の御心を実現してくださるのです。
今日は、このシリーズのイントロダクションとして、イエス様ご自身が旧約聖書の「戒め」について、どのように語っているかを見ていきたいと思います。それでは、今日の御言葉をお読みいたします。
マタイの福音書22:36-40です。
「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
マタイの福音書 22章36~40節
ここで、律法の専門家が、「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか」と尋ねています。それに対してイエス様はここで、明確に2つの戒めの重要さを語っています。
第一の戒め:神を愛す
まず第1に、「あなたの神、主を愛しなさい。」という戒めです。これは、申命記6:4-5からの引用です。そこにはこのように書かれています。
聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
申命記 6章4~5節
この「聞け」という言葉はヘブル語で「シェマ」と言います。イスラエルの人たちは、この「聞け」から始まる命令自体を「シェマ」と呼び、彼らの信仰告白として、繰り返し、繰り返し告白していました。申命記では、このシェマを「これをあなたの子どもたちに、よく教え込みなさい」、「これをしるしとして自分の手に結び付け、小さな箱を作って額の上に置きなさい」、「あなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい」と命じられています。そして彼らは、それを文字通り守っていたのです。ですから、律法学者たちも、この戒めが最も重要だと考えていました。そういう意味で、第一の戒めは「神を愛することだ」という見解は、イエス様も律法学者と一致していることになります。
でも大きく違う点があります。律法学者たちにとって、「神を愛する」というのは、そのようにして「律法を文字通り守る」ということ以上のものではありませんでした。そこには何か、肝心なものが欠けていたのです。だからこそ、イエス様は、先ほども見たように彼らが「口先だけ」だと批判されたのです。では、この第一の戒めである「神を愛する」ということは、どのようにして実践すべきものなのでしょうか。その鍵は、イエス様が語られた、第二の戒めにあります。
第二の戒め:隣人を愛す
イエス様が語られた、第二の戒めは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」というものです。これはレビ記19:18からの引用です。イエス様は、この第二の戒めも、第一の戒めと同じように重要だと言われました。つまり、イエス様は、これらの戒めは表裏一体のものですよ。別個のものではなく、ひとつなんですよということを言っておられるのです。第一ヨハネ4:20-21にはこうあります。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。
ヨハネの手紙 第一 4章20~21節
神を愛する者は、兄弟も愛するべきだとあります。つまり、「目に見えない神を愛する」ということは、「目にみえる隣人を愛しているかどうか」で量られるということなのです。神は愛です。私たちは、その愛を受けています。その愛は、すべての人に注がれています。ですから、その愛なる神様を愛するとは、神様が愛しておられる人をも愛するということなのです。つまり、神を愛するなら、隣人も愛するのだということです。
イエス様の生き方は、見事にそれを表したものでした。イエス様は、「罪人の友」として歩まれたのです。イエス様は、律法学者たちがおろそかにしていた盲人や、足の悪い人や、病人たちにいやしの手を差し伸べられました。また彼らが、罪人呼ばわりしていた取税人や、遊女たちにも救いの手を差し伸べました。さらには、彼らが敵呼ばわりして、決してつきあわなかったサマリヤ人や異邦人にも、自ら近づいて行き、救いの手を差し伸べました。また当時、低い価値しか与えられていなかった、子どもたちがそばに来たとき祝福されました。イエス様は、ご自分の近くにいるすべての人々を、分け隔てなく愛されたのです。イエス様は、神を愛するということは、隣人を愛することだということを実践してみせたのです。
一方、律法学者たちはどうだったでしょうか。彼らは、「隣人」を愛するということが、どういうことなのか全く分かりませんでした。彼らは、イエス様が「隣人」として愛した、罪人や取税人を毛嫌いし、決して関わろうとしませんでした。そのようにして自分自身をきよく保つことの方が、「神を愛する」ことだと思っていたのです。だから当然、イエスさまが罪人、取税人と呼ばれている人々と付き合い、いっしょに食事をしているのを見たときは、全く理解できず、むしろ嫌悪感を抱きました。そして、「どうしてあんな汚れた連中と付き合うのか」と言って非難したのです。
皆さん。私たちは、どうでしょうか。神を愛すると言っていながら、自分さえ「きよい生活」を送っていればそれでいい。そんな生き方になっていないでしょうか。日曜日に教会で礼拝を守ることは大切です。奉仕をすることも大切です。でも、私たちの身近な隣人たちの必要に目を向けずに歩んでいることはないでしょうか。もちろん、私たちの教会では、多くの地域に仕える働きがあり、隣人を愛するということには、熱心に取り組んできていると思います。でも、そんな中でも、本当に隣人を愛することができているか、というのは、いつも自分自身に問い続けていかなければならないことだと思うのです。私たちは、神を愛するからこそ、真実に隣人を愛する者でありたいと心から願います。
さて、この「愛」ということについて、もう一つのことを考えてみたいと思います。イエス様は、「神を愛し、隣人を愛す」ことことが最も重要な戒めだと言われました。そしてそれこそが、私たちクリスチャンのライフスタイルなのです。でも、イエス様が言われる「愛」とはどういうことなのかということを、しっかりと心に刻んでおきたいと思うのです。それは、ここで「愛しなさい」と言われる愛は、「アガペーの愛」だといことです。
アガペーの愛
アガペーの愛というのは、無条件の愛のことです。相手がどんなに価値がなくても、相手にどんなに愛される要因がなくても、愛する愛です。それは自己犠牲的な愛であり、ひたすらに相手の利益や幸福を第一に願う愛です。一言で言うと、それは「神の愛」です。実は、私たち人間の中には、そのような愛は存在しないのです。もし、そのような愛らしきものが私たちのうちにあるとしたら、それは、神様が私たちを通して働いて、その愛を実践させてくださったとしか言いようがないのです。
では、どうすれば良いのでしょうか。私たちは、ただひたすらに、自分のうちにはそのような愛はないということを神の前に認める以外ないのです。でも神様は、そんな私を愛してくださった。そんな私のために、私の罪を背負って十字架にかかって死んでくださった。主よあなたの愛に感謝しますと言って、何度でも、何度でもその十字架の前にひれ伏す以外にないのです。
でも不思議です。私たちが、そのようにして砕かれる時、聖霊様が私たちに触れてくださるのです。そして、主の十字架から愛があふれ流れてくるのです。そして私たちが何かをする時に、隣人を愛そうとするときに、私ではなく神様ご自身が働いて、そのアガペーの愛を実現してくださる。その不思議な体験をするのです。神様は、私たちを使わなくても、その神様の愛を隣人に届けることが出来るはずです。でも神様は、私たちを通して、神様の愛が伝わるようにと、人をお用いになるのです。それが神様の計画です。それは、そのことを通して、私たち自身が神様の愛をもっと体験することが出来るようになるためなのです。準備ができたから出ていくではなく、現実世界の中で、問題と向き合い、もみくちゃにされながら、考え、祈り、とりなし、歩む。それが愛なのです。その時に、主の憐れみを求めて、何が神様の本当に望んでおられることなのか、神の基準、価値観の指針となるのが十戒なのです。
今日はもう触れませんが、十戒の初めの4つの戒めは「神を愛すること」について書かれています。そしてあとの6つは「隣人を愛する」ことについて触れられています。これから、このシリーズを通して、そのことをより深く学んでいきたいと思います。
最後に、今年、私たちに与えられた御言葉であるイザヤ61:1をお読みします。
神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。
イザヤ書 61章1節
イエス様は、主の霊によって、貧しい人に良い知らせるために、心の傷ついた者を癒すために、遣わされました。それは、隣人を愛するためです。私たちも、この「キリストの心とともに」遣わされたいと願っています。私たちの内には愛はありません。でも、神は愛です。ともに十字架の主を見上げつつ、神様の愛をいただいて、遣わされるものとされたいと思います。お祈りをいたします。